大和の環濠集落に関する文献について知りたい。

環濠集落は大和の集落を特徴づけるものですが、大和全体を概説的に書いた文献は意外に少なく、ほとんどは特定地域を対象としています。現在の大和郡山市の若槻・稗田を対象としたものは、喜多芳之著『大和の環濠集落』、渡辺澄夫著『畿内荘園の基礎構造』があげられます。桜井市を対象にしたものに『桜井の古文化財 その3 環濠集落』があります。また、個別には各市町村史があります。
 
◆出典・参考資料
大和の環濠集落』 (研究紀要 2) 喜多芳之著 日本古城友の会 (291.65-512)
畿内庄園の基礎構造 : 特に均等名庄園・摂関家大番領番頭制庄園等に関する実証的研究』 増訂版 渡辺澄夫著 吉川弘文館 (611.22-47)

中世大和のことを記した「国民郷士史」について知りたい。

中世大和のことを記した「国民郷士史」は、一般に「国民郷士記」と呼ばれているもので、正式には「和州十五郡衆徒国民郷士記」といいます。内容は、大和の中世武士を興福寺の衆徒・国民の観点から叙述した近世史料(江戸時代に書かれたもの)で、中世史料を補う貴重な史料です。類似本も多く、若干内容も異なりますが、筒井氏一族のことが中心に書かれており、『和州諸将軍伝』につながるものです。当館にも『和州十五郡衆徒神人郷士記』や『大和郷士録』(薄木家文書)といった類似本があります。
なお、「和州十五郡衆徒国民郷士記」は県内の市町村史編纂にもよく使われますが、活字本は『奈良県史 第11巻 大和武士』(名著出版)の巻末に史料として収録されています。
 
◆出典・参考資料
大和郷士録 全』 (大和国宇陀郡稲戸村薄木家文書) (2-1-1)

奈良の「庚申さんと身代り猿」の話に「玉皇大帝」という言葉が出てくるがそのヨミを知りたい。

庚申さんと身代り猿の話については書かれたものが少なく、大和の昔話に関する本などには出てきませんでした。
『奈良町物語』のp.60には「庚申さんと身代り猿」として紹介されていました。この中に確かに「玉皇大帝」が出てきますが、ヨミは載っていません。『中国思想辞典』(岩波書店)p.77にはルビが付記されていました。
「玉皇大帝」(ぎょくこうたいてい):道教の神様。
 
◆出典・参考資料
奈良町物語』 奈良まちづくりセンター (291.65-653)
中国思想辞典』 日原利国編 研文出版 (122-60)

「林浄因命」および饅頭の由来等について(「林浄因命」を祭る林神社と奈良との関係など)知りたい。

漢国神社(奈良市)の境内には、林浄因やその子孫林宗二らを祭る林神社があります。そもそも日本ではじめて饅頭の作り方を教えたのは、南北朝時代に建仁寺の竜山禅師に従って中国から来朝した林浄因といわれています。
浄因が京都から奈良に移って林小路に住み、饅頭屋を始めたと伝えられていますが、詳細は不明ですし、浄因自身についての研究も皆無に等しいです。
むしろ後世になって、末裔の林宗二(1498~1581年)、あるいは父道大の時代に奈良に移って活躍したといわれています。例えば、『松屋名物集』によりますと、林宗二は応仁の乱より下って林小路に住み、『節用集』の作者で饅頭の開祖だと説明しています。宗二は奈良に住んで饅頭屋を営んでおり、奈良と京都を往来していて京都にも出店を持ち、そのかたわら、饅頭屋本『節用集』や『源氏物語林逸抄』を出版したり、一乗院に出入りして建仁寺両足院に残る唐宗詩文を筆写するなど、漢籍・易学に詳しく、連歌にも長じ、町人学者として活躍し、彼もその子宗杜も奈良で死去したといわれています。なお、宗二の子孫は和菓子屋「塩瀬」を開きました。また、宗杜の弟は建仁寺住寺の梅仙東です。
 
◆出典・参考資料

大和郡山市の金魚に関する資料はあるか。

郡山の金魚は江戸時代中期に始まり、幕末から明治初年に名声をえるようになったといいます。簡潔にまとめてあるのが『ふるさと大和郡山歴史事典』の記述ですが、詳しく知りたい方は以下の図書をご覧ください。
 
◆出典・参考資料
大和郡山市史』 柳沢文庫専門委員会編 大和郡山市 (216.5-229-1~2)※「郡山の金魚」
日本産業史大系 第6 近畿地方篇』 地方史研究協議会編 東京大学出版会 (608-9-6)※「郡山の金魚」
郡山町史』 森田義一編 郡山町(奈良県) (216.5-103)※「産業経済」

興福寺の江戸~明治期がわかる絵図はあるか。

興福寺は、鎌倉時代には大和守護職として一国支配権をもち、多くの荘園を有したが、近世に入ると春日社とあわせて2万石余の朱印地を与えられ、96の塔頭(子院)をもつ大寺院でした。明治初年の廃仏毀釈で大きな打撃を受け、一時は廃寺となったが、明治14(1881)年に再興されました。
 
◆出典・参考資料
近畿の市街古図』 原田伴彦ほか著 鹿島出版会 (291.038-86) ※天理大学附属天理図書館所蔵『和州南都絵図』(寛文6年)を所収。
「春日神社境内図」「興福寺境内図」(『奈良県大般若経調査報告書2 本文編』) 奈良県教育委員会文化財保存課 (183.2-25-2.1) ※奈良県立図書情報館蔵のものを翻刻。江戸期の境内図、『春日神社境内絵図』及び『興福寺境内絵図』を所収。

奈良県内のおんだ祭りに関する文献について。

一般に神社などで豊作を祈願して行われる祭礼を「お田植祭」あるいは「お田植神事」といいますが、「御田(おんだ)祭」と呼ぶ場合もあります。近畿地方では「御田(おんだ)祭」はよく使われる呼称です。
奈良県内の「御田(おんだ)祭」は、すべて神社の拝殿や庭上での田植えに至るまでの模擬的な稲作の所作のことで、大阪の住吉大社や伊勢神宮などにみられる実際の神田における田植え神事とは異なり、あくまでも農耕に先立つ予祝儀礼であるという。(大宮守人「県内御田植祭の詞章について」より)
 
◆出典・参考資料
特別テーマ展 農耕儀礼-御田祭と野神まつり』 奈良県立民俗博物館 (382.165-28-1980)
奥野義雄「予祝儀礼・御田植と中世農民」(『奈良県立民俗博物館研究紀要 第5号』) 奈良県立民俗博物館 (380.7-3-1)

江戸期に紀伊国屋文左衛門とならび称された豪商奈良屋茂左衛門は奈良出身の人か。

奈良との関わりはないと思われます。
鶴岡実枝子「奈良茂家」考」(『史料館研究紀要 8号』(1975.9))には「初代が霊巌寺門前の借地人であった…」、「霊岸島の裏店屋住いの車力の子といわれる…」などの記述があります。(※いずれも江戸深川辺り)
 
◆出典・参考資料
史料館研究紀要 8号』 国立史料館 (051-92-8)
国史大辞典 10』 吉川弘文館 (210.03-71-10)

井足村(現宇陀市榛原区)で三角縁神獣鏡が発見されたことに関する資料がないか。

名称は、愛宕山(米山)古墳(宇陀市榛原区上井足)。明治32年11月26日、石材採取のために地主の松浦富三郎氏が裏山の頂上を発掘した際に古鏡その他数種類の古器類を発見、同月30日に榛原警察分署に届け出たと「大和新聞」が伝えています。
また、明治32年の『考古学雑誌』第3編3号に「宇陀郡榛原町古墳の発見」と題する報告が載せられています。
さらに薄木祐蔵氏による薄木家文書『古墳基調書 但宇陀郡ノ部』に記された記録が大正6年発行の『奈良縣宇陀郡史料』に収録されています。
 
◆出典・参考資料
榛原町史』 榛原町史編集委員会編 榛原町  (216.5-200)

明治期の神社合祀、神社整理に関する資料があるか。

明治末期の神社合祀、神社整理に関する資料については、「奈良県行政文書」(旧奈良県庁文書・郡役所文書)に若干あります。ただ、簿冊の表題は神社合祀・神社整理と付されている場合は少なくほとんどは「神社」や「神社一件」となっています。したがって目録を閲覧される場合は、神社合祀や神社整理の課題が提示された明治末期の地方改良運動が始まる明治39年以降をご覧ください。
なお、これに関する研究はほとんどなく、わずかに『山辺郡誌』をもとに分析した関口靖之「近代山辺郡の神社と合祀」(『奈良学研究』創刊号 帝塚山短期大学奈良学学会 1997年)だけです。
 
◆出典・参考資料