「般若の芝」に関する文献はないか。

毎年薪能が行われる興福寺南大門の跡地あたりが「般若の芝」といわれていたようです。由緒にふれた部分が『大和名所圖會,残2巻』にあります。 南大門の「石壇の下なるしばそこに、いにしへ大般若経 六百巻うづまれしゆゑに、般若の芝と号す。」伝承とはいえ般若心経との関わりが深そうです。
◆出典・参考資料
大和名所圖會, 残2巻 』 秋里籬島著 竹原信繁画 出版者不明 (291.65-ヤマト-2) 
奈良名所八重桜 』 大久保秀興著 横山重監修 横山重、小川武彦解説 勉誠社 (291.65-454)
奈良曝 巻二』 西村嘯月堂(291.65-ナラサ)

芝村騒動について知りたい。

芝村騒動は、宝暦三年(1753)年に十市郡にあった芝村藩の天領の預地九ケ村が、貢租減免を求めて、芝村役所に訴えたが、取り上げられなかったので、 稲刈取りを拒否し、大挙して京都町奉行へ箱訴訟(目安箱へ投書)した事件です。
◆出典・参考資料
日本民俗社会史研究』所収 木村博一「芝村騒動」覚書 肥後先生古稀記念論文刊行会編 弘文堂 (382.1-129) 
近世民衆運動の展開 』所収 谷山正道「享保改革の年貢増徴政策と大和国幕僚農村」谷山正道著 高科書店 (210.5-231)
芝村騒動を探る』 近藤正俊著 浄教寺 (210.55-コント-2003)

県内の柿についてまとめた文献はないか。

柿の収穫量は和歌山県、奈良県、福岡県が生産量1万t以上の柿生産御三家です。奈良は室町時代に柿の産地として名前が載っています。 あまりまとまった文献はありませんが、以下の参考文献があります。
◆出典・参考資料
 優良早生柿の栽培安定対策 』 (新技術解説書:No.24) 奈良県農業試験場編 奈良県農業試験場 (615-14) 
 後継者就農の多い地域の農業経営構造と今後の後継者の動向 : 茶生産地帯及び柿生産地帯を中心として. 』(青年農業者育成確保推進事業資料:H6) 奈良県農業会議(611.7-68 ) 

奈良県で戸長役場制がとられたのはいつ頃からか。

戸長役場制というのは、明治11年7月の「地方三新法」の一つである「郡区町村編制法」にもとづき置かれたものです。 この法律は明治5年から続いた「大区小区制」を否定し、郡町村の復活を企図したものです。しかし、地方制度の改革はなかなか地方レベルに浸透するまでには時間がかかり、 奈良県、当時の堺県でも堺県当局が、この新しい法律に関心を示さないこともあって、かなり遅れ、明治13年4月23日に郡区改正を実施しています(『近代日本の地方制度と名望家』P54)。
 
[堺県における「戸長役場制」の実施状況]
• 明治11年7月22日 「地方三新法」の一つ、「郡区町村編制法」(太政官布告第177号)が施行される。
• 明治12年2月20日 堺県、郡区編制のための調査を開始(『青山四方にめぐれる国』 P136)
• 明治12年4月15日 堺県管内は1区9郡役所にまとめられ、「大区小区制」が廃止される(同上)。
• 明治12年5月 1日 区役所、郡役所(奈良・三輪・御所・五條の4ヶ所に設置)が開庁(同上)。
• 明治13年4月 8日 区町村会法の制定についての布告。

奈良の競馬場・競輪場がいつごろできたのか知りたい。

奈良の競馬場や競輪場について記述された資料はほとんどありません。
昭和4年、横領町に競馬場ができ、折からの不況にもかかわらず一万数千人のファンが押し寄せたといいます。この競馬場は、昭和14年、秋篠に移され、26年に廃止されて競輪場になります(『奈良市史 通史4』 p.479~480)。
また、『奈良の近代史年表』に、以下のような記述があります。
• 昭和4年(1929)10月19日生駒郡都跡村尼ヶ辻競馬場(約20,000坪)で第一回奈良地方競馬を開始した。(p.87)
• 昭和11年(1936)9月1日尼ヶ辻競馬場で奈良競馬が行われた。(p.101)
• 昭和14年(1939)12月平城村秋篠に競馬場ができた。(p.107)
• 昭和21年(1946)9月戦時中、中止していた平城京秋篠の奈良競馬が再開された。(昭和18,19年競馬場倉庫は大阪軍管区師団が使用)(p.120)
• 昭和23年(1948)7月31日従来馬匹改良のため、県場匹連合会による競馬が行われてきたが、新競馬法の施行により民営奈良地方競馬を廃し、県営に移した。(p.126)

島左近について知りたい。

島左近は、大和平群の出身で、筒井順慶や定次に仕え、後に豊臣秀長・秀保に仕えましたが、秀保の死後石田三成の家臣となり、慶長五年(1600)の関が原の戦いで討死したとされています。
 
◆出典・参考資料
大和郡山市史 [本編]』 柳沢文庫専門委員会編 大和郡山市 (216.5-229-1) p.188の「大和武士の末路」に記載。
大和武士』(奈良県史:第11巻) 朝倉弘著 名著出版 (216.5-439-11) p.448~451の「嶋氏」、p.268~269の「筒井順慶と「洞ヶ峠」、p.270~273の「豊臣(羽柴)秀吉の全国平定と筒井順慶の大和支配」、p.277~279「大和武士の末路」など

徳川綱吉の「生類あわれみの令」に出てくる大和出身の僧隆光に関する資料を紹介してほしい。

隆光(りゅうこう)(1649-1724)は、慶安2年に大和添下郡二條村に生まれ、江戸中期に活躍した真言宗新義派の僧侶です。貞享・元禄・宝永にわたって五代将軍綱吉に近侍したといわれています。
 
(図書)
① 『隆光僧正日記 1~3』 五代将軍綱吉に仕えた護持僧隆光の日記を翻刻したもの。巻末の解題に隆光の略伝が記載されています。
② 『大和人物誌』 奈良縣 p.545-546 「隆光」の項
③ 『密教大辞典 5』 増訂版 p.2242-2243 「隆光」の項
④ 『國史大辭典 第14巻』 「隆光」の項
 
(雑誌・論文)
⑤ 青山茂「平城宮跡雑事記補遺護持院隆光大僧正の墓所」(『日本文化史研究』25)
⑥ 林亮勝「将軍綱吉と護持院隆光」(『日本佛教學會年報』37 日本佛教學會西部事務所) 未所蔵
⑦ 林亮勝「宗教的確信の形成-護持院隆光の場合」(『宗教と文化』 こびあん書房) 未所蔵
⑧ 林亮勝「護持院隆光の祈祷観」(『大乗仏教から密教へ : 勝又俊教博士古稀記念論集』)
⑨ 林亮勝「真言宗新義派の論議について-護持院隆光の御前論議を中心として-」(『仏教と儀礼:加藤章一先生古稀記念論文集』 国書刊行会) 未所蔵

源有綱の終焉の地について知りたいが、それに関して記述している資料はあるか。

奈良県の宇陀郡(現在の宇陀市)は、大和源氏の一根拠地であったこともあり、「源氏」にまつわる伝承が多い土地です。例えば、清和源氏の祖といわれる六孫王経基の墓と称される五輪塔が栖光寺(宇陀市大宇陀区岩清水)にあったり、元暦元年(1185)5月24日、源義経が大和国宇陀郡龍門牧に身を潜めていた(『吾妻鏡』)などがそうです。
ご質問の源義経の聟伊豆右衛門尉源有綱も宇陀郡において、文治2年(1186)6月、平時貞と戦って敗れたといいます(『吾妻鏡』)。ただ宇陀郡内のどの場所かを記述している文献は少なく、『奈良県宇陀郡史料』(宇陀郡役所編 大正6年)「総論」の年表(6頁)文治2年の項に「六月平時貞源有綱を下芳野に攻めて是を殺す」とあります。
この「下芳野」というのは旧宇賀志村(現在、宇陀市菟田野区)に属します。『菟田野町史』にはこのことが触れられていますが、場所は特定していません。したがって「下芳野」とはっきり書かれているのは『奈良県宇陀郡史料』だけです。
なお、上記以外の参考文献としては下記のものがあります。
① 『大宇陀町史』 新訂
② 『総合地方史大年表』
 
◆出典・参考資料

柳沢淇園について知りたい。

柳沢郡山藩の重臣、柳里恭(りゅうりきょう)の名で呼ばれています。初め貞貴(さだたか)、後に里恭(さととも)、父は筆頭家老の曽禰権太夫で、5000石の知行と柳沢姓を許されていました。号は玉桂よりも淇園の方がよく知られています。博学多芸、特に書画をよくしましたが、人の師となることができたのが16にも上ったと古書は伝えています(『ふるさと大和郡山歴史事典』)。
 
◆出典・参考資料
郡山町史』 郡山町史編纂委員会編 郡山町 (216.5-103)
大和郡山市史 [本編]』 柳沢文庫専門委員会編 大和郡山市 (216.5-229-1)