水原秋桜子の「松と紅葉何ぞ障子の浄らなる」という句が、秋櫻子にとってメジャーな句と、言われているそうだが、どこで詠まれた句か、どの句集に出ているのか、知りたい。

「松と紅葉何ぞ障子の浄らなる」という句は、中宮寺で読まれたものと思われます。
『水原秋桜子全句集索引』で見ますと、『帰心』(昭和28)という句集に収録されていることがわかりました。また、『秋桜子俳句と奈良大和路』(石井庄司著 東京美術 1988)には 中宮寺の項にその句が挙げられています。前後の文章は、「戦後になって、句集『帰心』に二句。 松と紅葉何ぞ障子の浄(きよ)らなる 冬菊に厨子くらければひざまずく  まだ、元のままのお堂である。南側の障子の明かるく浄らかなことに感嘆しておられる。そして、今回は、冬菊が供えてある。観音さまの前にひざまずいて拝したというのである。」 とあります。 
◆出典・参考資料
水原秋桜子全句集索引』 小野恵美子編 安楽城出版 (911.362-ミスハ)
秋桜子俳句と奈良大和路』 石井庄司著 東京美術 (911.36-416)

象鼻杯(ぞうびはい)について調べてほしい。1.中国で流行した年代 2.日本には、いつ頃渡来したか。それらについて書かれたものはあるか。

三世紀頃の中国で暑気払いとして親しまれていた飲酒方法です。ハスの葉の中心に小さな穴を開け、その葉にお酒を注いで茎を通して飲みます。 その姿が象の鼻に似ていることから象鼻杯と称されています。『酉陽雑俎』(ゆうようざっそ)p.25には三世紀の三国時代の曹魏(そうぎ)、 または六世紀の南北朝時代の北魏(ほくぎ)の正始年間のときに、鄭公愨(ていこうかく)が山東省へ避暑におとずれた時の酒宴のようすが書かれています。 『中国の酒書』p.152には、「象鼻杯の酒の味には蓮の香気が混じって風味もよく、その冷たさは水にも勝るものだったようだ」と書かれています。 2.については掲載されている資料が見つかりません。 『百人一酒』P.40「象鼻杯」で著者の俵万智さんが読者に情報を求める一文が掲載されています。 
◆出典・参考資料
酉陽雑俎 2』 段成式 [撰]今村与志雄訳注 平凡社 (080-6-389)

漢詩を作るので「平仄(ひょうそく)」について知りたい。辞典などは所蔵しているか。

平仄とは漢字を韻によって4つ、平声(ひょうしょう)、仄は上声(じょうしょう)・声(きょしょう)・入声(にっしょう)に区別したもので、平は平声(ひょうしょう)、 仄は後の3声をさします。また、漢詩の近体詩において、重視される発音上のルールで平声字と仄声字の規則的な配列を言います。
『漢詩の事典』には、漢詩の作り方や形式についての記述があります。その他に、平仄についての解説、作法、平仄一覧表、常用韻字表などが記載されているものを紹介します。 
◆出典・参考資料
漢詩入門韻引辞典』 飯田利行著 柏書房(919-28)
平仄完備詩語・類語便覧』中野佳林著 中野佳林(919.07-ナカノ)

「京都」と呼ばれるようになったのはいつ頃からか。

京都という呼称は元来この地だけのものではなく、一般の普通名詞として用いられていました。「京」は天子の居城のある土地の意味で、羅城・条坊を持つ儀礼的なものが考えられ、 「都」は天子の常居のある聚落という意味で宗廟などを伴った日常的なものが連想されます。従って、平安京が定まる以前にも難波、藤原、平城、恭仁の諸京は、 京都という呼称の対象となりました。特に平安京は長期の京都でしたが、それでも京都が普通名詞であったことには変わりなく、これが本格的な固有名詞となったのは、 応徳3年(1086)白河院が白川(現左京区)の地に院政を開き、当初「京・白川」が並称されるようになってから、両者の総称として京都の呼称がしだいに定着したもののようです。
◆出典・参考資料
京都市の地名』 平凡社 (291.034-11-27)

NHK「みんなのうた」の放送開始はいつか。

NHK「みんなのうた」は1961年4月3日から放送が開始されました。選曲は“子どもの歌”にとらわれず、広く一般に愛唱されている「おとなの歌」から、子どもが理解し、好むもの、 家族そろって歌えるもの、という新しい考え方のもとに行なわれました。初期に選曲されたものとして「おお牧場はみどり」「森へいきましょう」「かあさんの歌」「ドレミの歌」 「ちいさい秋みつけた」などがあり、これらは子どもたちの愛唱歌となって、後に音楽教科書にも掲載されるようになりました。 第1回放送は「おお牧場はみどり」歌唱は東京少年合唱隊です。
◆出典・参考資料
20世紀放送史 年表』 日本放送協会編 日本放送協会 (699.2-ニホン)
文芸春秋 』69巻8号(1991年7月号)所収「「みんなのうた」30年」』 (050-フンケ-Z)

長崎県川棚の魚雷艇部隊、震洋隊に関する資料がありますか。

震洋特攻隊に関する図書は、本館の戦争体験文庫のコーナーにあります。それらの本の中には川棚臨時魚雷艇訓練所についての記述もあります。確認できたものは、以下のとおりです。
消えない傷跡 第一〇六震洋 納谷部隊史』 鳴海宏編集責任 一〇六震洋会 (397.3-1202)
回想薄部隊 : 海軍第二十震洋特別攻撃隊』 薄会編 薄会 (397.5-1602)
青い航跡 香港の震洋隊』 桜井武著 桜井武 (396.7-4902)

ハイポコースト(hypocaust)という、ローマ時代の床暖房について資料(構造図などを含め)を探している。

ハイポコーストは、カン(中国)やオンドル(韓国)とよく似ています。 相違点は、ヨーロッパの住宅に普及しなかったことと、カンやオンドルのように床下方に排ガスを回すだけでなく、周囲の壁の中を通してから煙突に出すことであると『ストーブ博物館』 (新穂栄蔵編)p.48~50に説明がされています。さらに、3点の図版も掲載されています。
また、『フォーブス古代の技術史 上巻 金属』p.616~639に、「9.5ローマのハイポコースト」の項、「9.6ハイポコーストの考察と実験」の項があり、炉の構造、床、配管について かなり詳しい記述があります。  
◆出典・参考資料
ストーブ博物館』  新穂栄蔵著 (528.2-5)
フォーブス古代の技術史 上』 R.J. Forbes著 朝倉書店 (502-フォフ)

雅楽「胡蝶の舞」の衣装を見たい。カラーの写真があるとなお良い。

『雅楽壱具』のp.184~187にカラー写真があります。前半の2ページに実際の舞姿のシーンを掲載し、後半の2ページで装束を掲載していて衣装がよくわかります。 他にも『雅楽 : 伝統とその意匠美』のp.81に袍と袴の写真、『雅楽』(別冊太陽)のp.66に舞姿、p.128に参考写真が、 『東儀秀樹の雅楽』p.29に舞姿、p.25にイラストが掲載されていて参考になります。  
◆出典・参考資料
雅楽壱具』  林陽一写真/東儀俊美[ほか]執筆 東京書籍 (768.2-ハヤシ)
雅楽 : 伝統とその意匠美』 宮内庁三の丸尚蔵館編 宮内庁 (768.2-シハス)

梅の木で作られた家具調度や建物を見たことがないが、梅材の用途を知りたい。

以下の文献に梅の利用についての記載があります。これらの文献によると、木の姿から大きい材はとれないが、紅褐色がかった堅い緻密な材なので細かい彫刻をする細工物の材料に用いられるとあり、 用途としては、床柱、櫛、念珠、そろばん玉、将棋の駒、箸、工具の柄、盆などの漆器木地、印材、根付けなどがあげられています。  
◆出典・参考資料
木の大百科』(解説編・写真編)  朝倉書店(652.7-20-1~2)
木と日本人 : 木の系譜と生かし方』 上村武著 学芸出版社(653.2-ウエム)
原色木材大図鑑』貴島恒夫[ほか]著 保育社(657-3)

江戸時代の歌舞伎役者、芳沢あやめの言ったことを集めた「あやめくさ」を探しています。

『歌舞伎事典』によりますと、「あやめぐさ」は元禄期の女方芳沢あやめ(初世1673-1729)の晩年の芸談二十九ヶ条を記録したもので、明和8年『新刻役者綱目』の付録として刊行され、 安永5年に『役者論語(やくしゃばなし)』に再録されたとあります。舞台と日常生活における女方の心得を説き、当時の歌舞伎の演技を知るうえでも貴重な文献とされています。 『歌舞伎事典』には収録文献として『日本古典文学大系 歌舞伎十八番集』が挙げられています。また『国書総目録』で調べますと分類:歌舞伎、著者:福岡弥五四郎、成立:享保頃とあり、 活字本では以下の図書が挙げられています。岩波文庫『役者論語』、『歌舞伎叢書 新刻役者綱目』、『新群書類従 三』『随筆文学選集 四』『役者論語』(守随憲治、昭和二九)。
Webcat Plus(国立情報学研究所データベース)で検索すると、『アジアの芸術論 : 演劇理論集』にも収録されており、本文に合わせ、解説が付され、成立、作者、内容、意義が記されています。  
◆出典・参考資料