太安万侶(多安万侶)の住居がどこにあったか、今のどこにあたるか知りたい。

昭和54年に奈良市此瀬町で発見された、太安万侶の墓の墓誌には「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之書養老七年(七二三年)十二月乙巳」と書かれており、 太安万侶は左京の四條四坊に住んでいたことがわかります。
『大和国条理復元図 no.20』で左京四條四坊を確認すると、現在の三条添川町あたり、三条通と四条大路にはさまれた区域です。
『平城京街とくらし』p120に、「住所と名前のわかる平城京の住民」というページがあり、116名の名前および、平城京の簡単な地図に印があるものがあります。 
◆出典・参考資料
日本古代氏族人名辞典』 吉川弘文館 (288.1-39)
大和国条里復原図』 奈良県立橿原考古学研究所編 奈良県教育委員会 (611.22-38~F)

天武天皇の肖像画が載っている資料があるか。

天武天皇の肖像は江戸期の博物図録集『集古十種』に掲載されており、これを典拠資料として『日本肖像大事典 中巻 : さ-は』p119、『日本の肖像画:集古十種より』p2にも 掲載されています。
また、薬師寺には画家小倉遊亀が描いた「天武天皇像」が奉納されており、例年天武忌(10月9日)に公開されていますが、この「天武天皇像」を収録しているものに 『小倉遊亀:現代の日本画』『小倉遊亀展』などがあります。
このほか天皇即位前の大海人皇子を画家大亦観風が描いた絵が『万葉集画撰』に収録されています。 
◆出典・参考資料
集古十種 肖像之部』 [出版者不明] (049-7)
集古十種:85巻 総目録全』 松平定信編 郁文舎 (708.7-シユウ)

「葛城川」の源流はどこか知りたい。

『奈良県の地名』p.27に、「「葛城川」は御所市の金剛山中に発して御所市→新庄町→大和高田市→広陵町で曾我川と合流して大和川に注ぐ。 主な支流に金剛葛城山中から発する水越川・柳田川・安位川がある。」と掲載されていますが、源流が金剛山中のどこあたりかという事になると、 明確に記載された資料は見つかりません。 『河川大事典』には、「上流端は御所市鴨神の前ブケ・上野」、「水源地は御所市南西部金剛山地の金剛山麓」と記載されています。 Web検索では、個人のサイトのようですが、源流地域の写真が掲載されています。
◆出典・参考資料
奈良県の地名 日本歴史地名大系:30 』 平凡社 [編] 平凡社(291.034-11-30)
角川日本地名大辞典 29奈良県 』「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店(291.03-62-29)

県内の民俗的な踊り、特に「なもで踊り」や「太鼓踊り」に関する資料を紹介してほしい。

『奈良県総合文化調査報告書-都介野地区』の「吐山の太鼓踊」の項に詳しい解説があります。 また、『奈良県総合文化調査報告書-吉野川流域龍門地区』に、ナモデ踊りは「歌詞から見ると、山辺郡吐山の太鼓踊り、添上郡大柳生のガトー踊りも、別のものではなかろう。 結局、近世相当広い地域に亘って行なわれた踊りだったのである。」 という記述が見られます。 『やまとまつり旅 : 奈良の民俗と芸能』の「大和の太鼓踊りについて」では、太鼓踊りは、「風流踊り」の一つで、県内でも「ナモデ踊り・イサミ踊り・など、 いろいろな呼び方がされてきた」と書かれています。『奈良市史民俗編』の「太鼓踊」・「太鼓踊歌詞」、『改訂都祁村史下巻』(都祁村 2005) 「伝来された「太鼓踊り」歌本」の項、『吐山の太鼓おどり 』(都祁村教育委員会編 1984)などにも記述があります。 なお、現存する太鼓踊りとして「大柳生(奈良市)」「吐山(奈良市)」、「国栖(吉野郡吉野町)」、「丹生(吉野郡下市町)」の地域などで今も踊りが伝承されています。
◆出典・参考資料

奈良の茶粥に関する資料。東大寺の修二会でも茶粥が食されていると聞くが、関係の資料があれば教えてほしい。

奈良の茶粥については、『奈良茶粥』に起源について、『聞き書奈良の食事』、『郷土大和の味』などにはその作り方などが紹介されています。
茶粥の起源は古く、東大寺修二会(お水取り)にも食されていたという記述があります。修二会に食される茶粥については、『東大寺辞典』に詳しい解説が記載されています。 修二会で練行衆が毎日晨朝を終えて宿所に戻り食す粥食が茶粥で、その中の上澄みと米とを区別して、上澄みを「ゴボ」、下の茶飯を「下茶(げちゃ)」と言うようです。 「ゴボ」の項には「汁ととけた米を鍋に残すので、これをすくうとき「ゴボゴボ」と音がするからゴボといわれている」と記載されています。
また、清水公照氏が『お水取修中絵日記』に「ごぼ・げちゃ」について書かれていますし、今西祐行氏の「大和茶粥」と題したエッセイや雑誌『あかい奈良』にも 起源などについての記述があります。
◆出典・参考資料
聞き書奈良の食事 』 「日本の食生活全集奈良」編集委員会編 農山漁村文化協会 (383.8-61-29)

五条付近の流し雛について知りたい。

『五條市史 新修』によると、「四月三日五條市の南阿田では、竹の皮の両端を折り曲げてとめ、長さ一五糎(センチメートル)ぐらいの舟をつくり、それに千代紙や色紙で五糎から十糎 ぐらいの大きさの人形を家族の女の数だけつくって乗せて、吉野川に流す。」という風習が今なおおこなわれているようです。前日から女性たちが集まって人形を作って雛壇に飾り、 当日はそれぞれが雛を手に河原に集まり、代表が危難除けの願文を読み上げいっせいに雛を流すその様子は、きらめく川面に百余の雛舟がゆらゆら流れてまことにゆかしい とも書かれています。『金陽雑誌 7号』所収の「“雛祭り”―五條の流しビナについて―」には、山の神をむかえる行事で四月三日に吉野川原へ老若男女がうちつれて出かけてゆき 会食をする「レンゾ」という祭りが、五條の流し雛とも関連があると説明があり、イラストも掲載されています。 『奈良縣宇智郡誌』にもこれと同様の記述があります。
◆出典・参考資料
五條市史 新修 』 五條市史調査委員会編 五條 : 五條市史刊行会 (216.5-462-1)

吉野地方に伝わる「つるべずし」について知りたい。

「つるべずし」は、「つるべのかたちの曲げ物に、吉野川特産のアユを使ったアユずしを詰め、なれさせたもの」で、「曲げ物のすし桶に笹の葉をしき、アユをしき詰め、 なお笹の葉でおおい、上から重石をかけると、板ではさんで藤づるで固くしめ」て作られています。
文治年間、吉野・下市村の宅田弥左衛門の家に弥助と名乗り潜んでいた平維盛と娘お里の恋に、兄いがみの権太がからんで織りなす歌舞伎「義経千本桜鮨屋の段」に登場し 有名になったのが、今も下市に五十代近く続いて在る鮨屋「弥助」です。同家の鮎鮨は釣瓶形曲桶につけて作るので一名「釣瓶鮨」とも呼ばれています。 『近江・奈良四季の味 : 洛南・滋賀・奈良』に、釣瓶桶、アユずしの工程などがカラー写真で紹介されています。
◆出典・参考資料
大和下市史 』 下市町史編纂委員会編 下市町教育委員会 (216.5-183-1)

「登美ヶ丘」の地名の歴史的な由来を教えてほしい。。

登美ヶ丘・東登美ヶ丘・西登美ヶ丘・南登美ヶ丘の地域は行政町名として押熊(おしくま)・中山・二名(にみょう)・三碓(みつがらす)町と呼ばれていましたが、 昭和38年の宅地開発のおり、この地域が丘陵地帯であったところから登美ヶ丘と命名されました。『奈良町風土記 続編』によりますと、 「登美というのは神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)との戦いに金鵄(きんし)の飛来によって皇軍が大勝を得たので、この地を鵄邑(とびのむら)と称したと 『日本書紀』に記されているところから生まれたと伝えている。その後、鵄邑が鳥見郷となり鳥見庄と変わり、鳥見の鳥を忌んで佳字登美をあてた。」と記されています。
『地名伝承学論 補訂』の「登美―三碓伝説」には『神武紀』『万葉集古義』等から文章を引用し詳しく書かれていますが、内容的には『奈良町風土記 続編』と同じです。
◆出典・参考資料
奈良町風土記 続編 』 山田熊夫著 豊住書店 (291.65-458-2) 

奈良の「法論味噌(ほうろみそ)」について書かれてある資料を紹介してほしい。

法論味噌は、護命味噌とも飛鳥味噌(明日香味噌)ともいい、護命(ごみょう)僧正が初めて作って法論の間に粥に添えて出したと伝えられています。 建長6年(1254)に成った『古今著聞集』に、南都の僧の持参した土産として書かれているので、相当早い時代からあったものと思われ、元興寺の土産から、 広く南都の土産品となっていたようです。飛鳥味噌(明日香味噌)といわれるのは、飛鳥寺(元興寺の別名)の産物だからとか飛鳥川のほとりだからその名があるといわれています。
法論味噌に関して詳しい資料はありませんが、下記の資料が参考になります。
◆出典・参考資料
元興寺の歴史』 岩城隆利著 吉川弘文館 (188.35-56) 
奈良市史 通史2、3 』 (奈良市 1994、1988年) (216.5-240-10.2~10.3)

奈良町における貸座敷制度について資料や概要を知りたい。

奈良町の色街としては、木辻と元林院が有名でした。木辻は江戸寛永年間頃から知られているのに対し、元林院は明治5年(1872)10月の「芸娼妓解放令」で芸妓の置屋・席貸の町 となったところです。奈良県ではこの翌年1月、遊女芸妓飯盛女などの年季奉公解放によって席貸業開店許可がおりています。この根拠については今のところ、 「奈良県布達」では確認出来ていませんが、『ならの女性生活史 花ひらく』(奈良県発行)の「奈良県女性のあゆみ」年表に記述があります。
その後、奈良県は、明治9年(1876)4月に堺県に合併され、さらに明治14年(1881)2月に大阪府となりましたが、明治20年(1887)11月、奈良県は大阪府から分離されました。 『奈良県警察史 明治・大正編』によりますと、大阪府から分離独立後の奈良県では、明治16年(1883)12月に大阪府が制定した「貸座敷娼妓取締規則」を適用していましたが、 明治25年(1892)6月独自に「貸座敷娼妓営業取締規則」を制定し、営業区域を奈良町の木辻・元林院、郡山町の洞泉寺・東岡町の4ヵ所に限定したといわれています。