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奈良に関するレファレンス事例(54)

第60回正倉院展に出展されていた白瑠璃碗(はくるりのわん)がこの回以前に出展されたのは、第何回であったのかを知りたい。

白瑠璃碗(はくるりのわん)とは、ガラス製の切子碗(きりこわん)。ササン朝ペルシアよりシルクロードを通じて伝わったとされる厚手のグラス碗です。 世界各地のコレションに類似品があるが、当初の輝きと透明度を保っているものは正倉院のこの椀が唯一とされています。 シルクロードの交流を象徴し、古代ガラスの美しさを現在に伝える貴重な宝物とされています。
当館所蔵の正倉院展の図録で確認致しましたところ、『正倉院展』平成七年(第四十七回)図録の「ごあいさつ」によると、 平成七年は、正倉院展としては、第四十七回にあたるが、戦後開催された正倉院宝物の展覧会としては、五十回目の節目の年であったので、 第一回正倉院展(昭和二十一年)で公開された三十三件の宝物も出陳されたとの記載がありました。 これにより、白瑠璃碗は、『正倉院特別展觀目録』(昭和二十一年)、第四十七回『正倉院展』(平成七年)(p.86)と、 その後の第六十回『正倉院展』(平成二十年)(p.26)にも掲載されており、出展されたことが確認出来ました。 
◆出典・参考資料
正倉院特別展觀目録』 [1946] 私製 吉川弘文館 (709-25-1)
正倉院展』 平成7年(第47回)  奈良国立博物館, 1995.10 (709-25-47)
正倉院展』 平成20年(第60回)  奈良国立博物館, 2008.10 (709-25-60)

太安万侶(多安万侶)の住居がどこにあったか、今のどこにあたるか知りたい。

昭和54年に奈良市此瀬町で発見された、太安万侶の墓の墓誌には「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之書養老七年(七二三年)十二月乙巳」と書かれており、 太安万侶は左京の四條四坊に住んでいたことがわかります。
『大和国条理復元図 no.20』で左京四條四坊を確認すると、現在の三条添川町あたり、三条通と四条大路にはさまれた区域です。
『平城京街とくらし』p120に、「住所と名前のわかる平城京の住民」というページがあり、116名の名前および、平城京の簡単な地図に印があるものがあります。 
◆出典・参考資料
日本古代氏族人名辞典』 吉川弘文館 (288.1-39)
大和国条里復原図』 奈良県立橿原考古学研究所編 奈良県教育委員会 (611.22-38~F)
平城京街とくらし』 田辺征夫著 東京堂出版 (210.35-88)

天武天皇の肖像画が載っている資料があるか。

天武天皇の肖像は江戸期の博物図録集『集古十種』に掲載されており、これを典拠資料として『日本肖像大事典 中巻 : さ-は』p119、『日本の肖像画:集古十種より』p2にも 掲載されています。
また、薬師寺には画家小倉遊亀が描いた「天武天皇像」が奉納されており、例年天武忌(10月9日)に公開されていますが、この「天武天皇像」を収録しているものに 『小倉遊亀:現代の日本画』『小倉遊亀展』などがあります。
このほか天皇即位前の大海人皇子を画家大亦観風が描いた絵が『万葉集画撰』に収録されています。 
◆出典・参考資料
集古十種 肖像之部』 [出版者不明] (049-7)
集古十種:85巻 総目録全』 松平定信編 郁文舎 (708.7-シユウ)
日本肖像大事典 中巻 さ-は』 山口昌男監修 日本図書センター (281.038-2)
日本の肖像画:集古十種より (双書美術の泉:79) 』 中里義夫解説 岩崎美術社 (708-60-79)
小倉遊亀展 』 日本経済新聞社編 日本経済新聞社 (721.9-93)
小倉遊亀 : 現代の日本画 』(朝日美術館:日本編4) 小倉遊亀 [画]  朝日新聞社 (705-26-4)
現代の日本画 4 小倉遊亀』 小倉遊亀著 橋秀文責任編集 学習研究社 (721.9-107-4)
万葉集画撰 』 大亦観風著 再編版 奈良新聞社 (911.12-123)

「葛城川」の源流はどこか知りたい。

『奈良県の地名』p.27に、「「葛城川」は御所市の金剛山中に発して御所市→新庄町→大和高田市→広陵町で曾我川と合流して大和川に注ぐ。 主な支流に金剛葛城山中から発する水越川・柳田川・安位川がある。」と掲載されていますが、源流が金剛山中のどこあたりかという事になると、 明確に記載された資料は見つかりません。 『河川大事典』には、「上流端は御所市鴨神の前ブケ・上野」、「水源地は御所市南西部金剛山地の金剛山麓」と記載されています。 Web検索では、個人のサイトのようですが、源流地域の写真が掲載されています。
◆出典・参考資料
奈良県の地名 日本歴史地名大系:30 』 平凡社 [編] 平凡社(291.034-11-30)
角川日本地名大辞典 29奈良県 』「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店(291.03-62-29)
奈良県史 1 地理 : 地域史・景観 』 藤田佳久編 名著出版 (216.5-439-1)
河川大事典 』 日本アソシエーツ編 紀伊国屋書店 (517.2-17)
Webサイト
《AGUA》葛城川 (最終アクセス:2009/01/23)

県内の民俗的な踊り、特に「なもで踊り」や「太鼓踊り」に関する資料を紹介してほしい。

『奈良県総合文化調査報告書-都介野地区』の「吐山の太鼓踊」の項に詳しい解説があります。 また、『奈良県総合文化調査報告書-吉野川流域龍門地区』に、ナモデ踊りは「歌詞から見ると、山辺郡吐山の太鼓踊り、添上郡大柳生のガトー踊りも、別のものではなかろう。 結局、近世相当広い地域に亘って行なわれた踊りだったのである。」 という記述が見られます。 『やまとまつり旅 : 奈良の民俗と芸能』の「大和の太鼓踊りについて」では、太鼓踊りは、「風流踊り」の一つで、県内でも「ナモデ踊り・イサミ踊り・など、 いろいろな呼び方がされてきた」と書かれています。『奈良市史民俗編』の「太鼓踊」・「太鼓踊歌詞」、『改訂都祁村史下巻』(都祁村 2005) 「伝来された「太鼓踊り」歌本」の項、『吐山の太鼓おどり 』(都祁村教育委員会編 1984)などにも記述があります。 なお、現存する太鼓踊りとして「大柳生(奈良市)」「吐山(奈良市)」、「国栖(吉野郡吉野町)」、「丹生(吉野郡下市町)」の地域などで今も踊りが伝承されています。
◆出典・参考資料
奈良県総合文化調査報告書-都介野地区』 奈良県教育委員会 (216.5-57-1)
奈良県総合文化調査報告書-吉野川流域龍門地区 』 奈良県教育委員会 (216.5-57-2)
やまとまつり旅 : 奈良の民俗と芸能 』 鹿谷勲著 やまと崑崙企画 (386.165-シカタ-2001)
大和の祭り 』 高田健一郎著 向陽書房 (386.2-2)
奈良市史 民俗編 』 奈良市 (216.5-240-2)
改訂都祁村史 下巻』 都祁村 (216.5-ツケソ-2005)
吐山の太鼓おどり』 都祁村教育委員会編 (385.7-14)
石打太鼓踊り : 月ケ瀬村石打地区伝統民俗芸能 』 石打太鼓踊保存会編 石打太鼓踊保存会 (385.7-21)

奈良の茶粥に関する資料。東大寺の修二会でも茶粥が食されていると聞くが、関係の資料があれば教えてほしい。

奈良の茶粥については、『奈良茶粥』に起源について、『聞き書奈良の食事』、『郷土大和の味』などにはその作り方などが紹介されています。
茶粥の起源は古く、東大寺修二会(お水取り)にも食されていたという記述があります。修二会に食される茶粥については、『東大寺辞典』に詳しい解説が記載されています。 修二会で練行衆が毎日晨朝を終えて宿所に戻り食す粥食が茶粥で、その中の上澄みと米とを区別して、上澄みを「ゴボ」、下の茶飯を「下茶(げちゃ)」と言うようです。 「ゴボ」の項には「汁ととけた米を鍋に残すので、これをすくうとき「ゴボゴボ」と音がするからゴボといわれている」と記載されています。
また、清水公照氏が『お水取修中絵日記』に「ごぼ・げちゃ」について書かれていますし、今西祐行氏の「大和茶粥」と題したエッセイや雑誌『あかい奈良』にも 起源などについての記述があります。
◆出典・参考資料
聞き書奈良の食事 』 「日本の食生活全集奈良」編集委員会編 農山漁村文化協会 (383.8-61-29)
奈良茶粥 』 宮武正道著  山本書店 (914.6-518)
郷土大和の味 』 奈良県学校給食栄養研究会出版 (596.1-81)
東大寺辞典;新装版 』 平岡定海著 東京堂出版 (188.35-51)
お水取修中絵日記 』 清水公照著 研光社 (186.1-16)
大和茶粥 : エッセイ'93』 日本文芸家協会編 楡出版 (914.6-ニ-19)
あかい奈良 : total landscape magazine 』通卷6号 1999年冬号 特集:やまと菜食館:茶粥の旅

五条付近の流し雛について知りたい。

『五條市史 新修』によると、「四月三日五條市の南阿田では、竹の皮の両端を折り曲げてとめ、長さ一五糎(センチメートル)ぐらいの舟をつくり、それに千代紙や色紙で五糎から十糎 ぐらいの大きさの人形を家族の女の数だけつくって乗せて、吉野川に流す。」という風習が今なおおこなわれているようです。前日から女性たちが集まって人形を作って雛壇に飾り、 当日はそれぞれが雛を手に河原に集まり、代表が危難除けの願文を読み上げいっせいに雛を流すその様子は、きらめく川面に百余の雛舟がゆらゆら流れてまことにゆかしい とも書かれています。『金陽雑誌 7号』所収の「“雛祭り”―五條の流しビナについて―」には、山の神をむかえる行事で四月三日に吉野川原へ老若男女がうちつれて出かけてゆき 会食をする「レンゾ」という祭りが、五條の流し雛とも関連があると説明があり、イラストも掲載されています。 『奈良縣宇智郡誌』にもこれと同様の記述があります。
◆出典・参考資料
五條市史 新修 』 五條市史調査委員会編 五條 : 五條市史刊行会 (216.5-462-1)
金陽雑誌 』7号 1972年3月15日 玉村禎祥 (291.65-429)
奈良縣宇智郡誌 』 [奈良県] : 奈良県宇智郡役所 (216.5-22)

吉野地方に伝わる「つるべずし」について知りたい。

「つるべずし」は、「つるべのかたちの曲げ物に、吉野川特産のアユを使ったアユずしを詰め、なれさせたもの」で、「曲げ物のすし桶に笹の葉をしき、アユをしき詰め、 なお笹の葉でおおい、上から重石をかけると、板ではさんで藤づるで固くしめ」て作られています。
文治年間、吉野・下市村の宅田弥左衛門の家に弥助と名乗り潜んでいた平維盛と娘お里の恋に、兄いがみの権太がからんで織りなす歌舞伎「義経千本桜鮨屋の段」に登場し 有名になったのが、今も下市に五十代近く続いて在る鮨屋「弥助」です。同家の鮎鮨は釣瓶形曲桶につけて作るので一名「釣瓶鮨」とも呼ばれています。 『近江・奈良四季の味 : 洛南・滋賀・奈良』に、釣瓶桶、アユずしの工程などがカラー写真で紹介されています。
◆出典・参考資料
大和下市史 』 下市町史編纂委員会編 下市町教育委員会 (216.5-183-1)
わたしの大和路』 奈良新聞社編. 奈良新聞社 (291.65-515)
近江・奈良四季の味 : 洛南・滋賀・奈良 』 東京 : 集英社 (596.1-76)
大和の味 』 田中敏子著 改訂版 奈良 : 奈良新聞社 (596.21-タナカ-2001)

「登美ヶ丘」の地名の歴史的な由来を教えてほしい。。

登美ヶ丘・東登美ヶ丘・西登美ヶ丘・南登美ヶ丘の地域は行政町名として押熊(おしくま)・中山・二名(にみょう)・三碓(みつがらす)町と呼ばれていましたが、 昭和38年の宅地開発のおり、この地域が丘陵地帯であったところから登美ヶ丘と命名されました。『奈良町風土記 続編』によりますと、 「登美というのは神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)との戦いに金鵄(きんし)の飛来によって皇軍が大勝を得たので、この地を鵄邑(とびのむら)と称したと 『日本書紀』に記されているところから生まれたと伝えている。その後、鵄邑が鳥見郷となり鳥見庄と変わり、鳥見の鳥を忌んで佳字登美をあてた。」と記されています。
『地名伝承学論 補訂』の「登美―三碓伝説」には『神武紀』『万葉集古義』等から文章を引用し詳しく書かれていますが、内容的には『奈良町風土記 続編』と同じです。
◆出典・参考資料
奈良町風土記 続編 』 山田熊夫著 豊住書店 (291.65-458-2) 
地名伝承学論 補訂 』池田末則著 クレス出版 (291.65-イケタ-2004)

奈良の「法論味噌(ほうろみそ)」について書かれてある資料を紹介してほしい。

法論味噌は、護命味噌とも飛鳥味噌(明日香味噌)ともいい、護命(ごみょう)僧正が初めて作って法論の間に粥に添えて出したと伝えられています。 建長6年(1254)に成った『古今著聞集』に、南都の僧の持参した土産として書かれているので、相当早い時代からあったものと思われ、元興寺の土産から、 広く南都の土産品となっていたようです。飛鳥味噌(明日香味噌)といわれるのは、飛鳥寺(元興寺の別名)の産物だからとか飛鳥川のほとりだからその名があるといわれています。
法論味噌に関して詳しい資料はありませんが、下記の資料が参考になります。
◆出典・参考資料
元興寺の歴史』 岩城隆利著 吉川弘文館 (188.35-56) 
奈良市史 通史2、3 』 (奈良市 1994、1988年) (216.5-240-10.2~10.3)
南都名所記』 繪圖屋庄八(291.65-カイセ)
『南都名産文集 』 ( 『青須我波良 』 第3号 1971年5月) (910.5-21)
「法論味噌考」 『大和志 』第4巻第10号 1937年10月) 

奈良町における貸座敷制度について資料や概要を知りたい。

奈良町の色街としては、木辻と元林院が有名でした。木辻は江戸寛永年間頃から知られているのに対し、元林院は明治5年(1872)10月の「芸娼妓解放令」で芸妓の置屋・席貸の町 となったところです。奈良県ではこの翌年1月、遊女芸妓飯盛女などの年季奉公解放によって席貸業開店許可がおりています。この根拠については今のところ、 「奈良県布達」では確認出来ていませんが、『ならの女性生活史 花ひらく』(奈良県発行)の「奈良県女性のあゆみ」年表に記述があります。
その後、奈良県は、明治9年(1876)4月に堺県に合併され、さらに明治14年(1881)2月に大阪府となりましたが、明治20年(1887)11月、奈良県は大阪府から分離されました。 『奈良県警察史 明治・大正編』によりますと、大阪府から分離独立後の奈良県では、明治16年(1883)12月に大阪府が制定した「貸座敷娼妓取締規則」を適用していましたが、 明治25年(1892)6月独自に「貸座敷娼妓営業取締規則」を制定し、営業区域を奈良町の木辻・元林院、郡山町の洞泉寺・東岡町の4ヵ所に限定したといわれています。
戦後、昭和21年1月21日にGHQが「日本ニオケル公娼廃止ニ関スル覚書」を出し、日本の公娼制度の廃止を指令しました。奈良県も同年3月1日「貸座敷業」を廃止させ、 新たに料理営業許可を与えています。こうして明治からの「貸座敷制度」は廃止されました。
◆出典・参考資料
花ひらく : ならの女性生活史 』 ならの女性生活史編さん委員会編著 奈良県 (367.21-75)
奈良県警察史 』 明治・大正編、昭和編 奈良県警察史編集委員会編 奈良県警察本部 (317.7-25-1~2)

「般若の芝」に関する文献はないか。

毎年薪能が行われる興福寺南大門の跡地あたりが「般若の芝」といわれていたようです。由緒にふれた部分が『大和名所圖會,残2巻』にあります。 南大門の「石壇の下なるしばそこに、いにしへ大般若経 六百巻うづまれしゆゑに、般若の芝と号す。」伝承とはいえ般若心経との関わりが深そうです。
◆出典・参考資料
大和名所圖會, 残2巻 』 秋里籬島著 竹原信繁画 出版者不明 (291.65-ヤマト-2) 
奈良名所八重桜 』 大久保秀興著 横山重監修 横山重、小川武彦解説 勉誠社 (291.65-454)
奈良曝 巻二』 西村嘯月堂(291.65-ナラサ)

芝村騒動について知りたい。

芝村騒動は、宝暦三年(1753)年に十市郡にあった芝村藩の天領の預地九ケ村が、貢租減免を求めて、芝村役所に訴えたが、取り上げられなかったので、 稲刈取りを拒否し、大挙して京都町奉行へ箱訴訟(目安箱へ投書)した事件です。
◆出典・参考資料
日本民俗社会史研究』所収 木村博一「芝村騒動」覚書 肥後先生古稀記念論文刊行会編 弘文堂 (382.1-129) 
近世民衆運動の展開 』所収 谷山正道「享保改革の年貢増徴政策と大和国幕僚農村」谷山正道著 高科書店 (210.5-231)
芝村騒動を探る』 近藤正俊著 浄教寺 (210.55-コント-2003)
橿原市史 史料第三巻』所収 宝暦箱訴一件吟味次第 改訂橿原市史編纂委員会編 橿原市 (216.5-472-3.3) 
『増補四訂八丈島流人銘々伝』 葛西重雄他著 第一書房 
会報「いこま」第五号 』生駒市生涯学習グループ 古文書を読む会(210-イコマ-Z)

県内の柿についてまとめた文献はないか。

柿の収穫量は和歌山県、奈良県、福岡県が生産量1万t以上の柿生産御三家です。奈良は室町時代に柿の産地として名前が載っています。 あまりまとまった文献はありませんが、以下の参考文献があります。
◆出典・参考資料
 優良早生柿の栽培安定対策 』 (新技術解説書:No.24) 奈良県農業試験場編 奈良県農業試験場 (615-14) 
 後継者就農の多い地域の農業経営構造と今後の後継者の動向 : 茶生産地帯及び柿生産地帯を中心として. 』(青年農業者育成確保推進事業資料:H6) 奈良県農業会議(611.7-68 ) 
 奈良県柿出荷協議会資料』 奈良県経済部, 奈良県果実連編 奈良県経済部/奈良県果実連(625.4-ナラケ)
奈良特産品振興協会ホームページ (最終アクセス:2007/08/23)
柿博物館~奈良吉野いしい~ホームページ(最終アクセス:2007/08/23)

奈良県で戸長役場制がとられたのはいつ頃からか。

戸長役場制というのは、明治11年7月の「地方三新法」の一つである「郡区町村編制法」にもとづき置かれたものです。 この法律は明治5年から続いた「大区小区制」を否定し、郡町村の復活を企図したものです。しかし、地方制度の改革はなかなか地方レベルに浸透するまでには時間がかかり、 奈良県、当時の堺県でも堺県当局が、この新しい法律に関心を示さないこともあって、かなり遅れ、明治13年4月23日に郡区改正を実施しています(『近代日本の地方制度と名望家』P54)。
 
[堺県における「戸長役場制」の実施状況]
• 明治11年7月22日 「地方三新法」の一つ、「郡区町村編制法」(太政官布告第177号)が施行される。
• 明治12年2月20日 堺県、郡区編制のための調査を開始(『青山四方にめぐれる国』 P136)
• 明治12年4月15日 堺県管内は1区9郡役所にまとめられ、「大区小区制」が廃止される(同上)。
• 明治12年5月 1日 区役所、郡役所(奈良・三輪・御所・五條の4ヶ所に設置)が開庁(同上)。
• 明治13年4月 8日 区町村会法の制定についての布告。
• 明治13年4月23日 堺県、管下の郡区改正を実施し、管下の町村が連合して戸長役場が設置された(『奈良県議会史』及び『近代日本の地方制度と名望家』)
• 明治13年4月24日 郡役所設置のため奈良出張所廃止についての布達(『奈良県議会史』P23)。
• 明治13年5月12日 従来の区画を廃して区と郡を設け、郡区役所を開庁することになった(『奈良県議会史』P22~24)。
  上記「戸長役場制」の実施状況は文献によって施行年次がまちまちですが、堺県の法制度に詳しい山中永之佑氏の研究が最も信頼できると思われます。
 
◆出典・参考資料
 近代日本の地方制度と名望家』 山中永之佑著 弘文堂 (318-124)
 青山四方にめぐれる国 』 奈良県 (216.5-468) 
 奈良県議会史』 奈良県議会史執筆委員会編 奈良県議会 (381.465-23-1) 

蓮如上人の「吉野紀行」の活字本はないか。

『校註 蓮如上人御文全集』所収の「帖外御文」にあります(P4~5)。
◆出典・参考資料
『校註 蓮如上人御文全集 』禿氏祐祥編著 文献書院(188.74-2)

奈良の競馬場・競輪場がいつごろできたのか知りたい。

奈良の競馬場や競輪場について記述された資料はほとんどありません。
昭和4年、横領町に競馬場ができ、折からの不況にもかかわらず一万数千人のファンが押し寄せたといいます。この競馬場は、昭和14年、秋篠に移され、26年に廃止されて競輪場になります(『奈良市史 通史4』 p.479~480)。
また、『奈良の近代史年表』に、以下のような記述があります。
• 昭和4年(1929)10月19日生駒郡都跡村尼ヶ辻競馬場(約20,000坪)で第一回奈良地方競馬を開始した。(p.87)
• 昭和11年(1936)9月1日尼ヶ辻競馬場で奈良競馬が行われた。(p.101)
• 昭和14年(1939)12月平城村秋篠に競馬場ができた。(p.107)
• 昭和21年(1946)9月戦時中、中止していた平城京秋篠の奈良競馬が再開された。(昭和18,19年競馬場倉庫は大阪軍管区師団が使用)(p.120)
• 昭和23年(1948)7月31日従来馬匹改良のため、県場匹連合会による競馬が行われてきたが、新競馬法の施行により民営奈良地方競馬を廃し、県営に移した。(p.126)
• 昭和24年(1949)1月10日秋篠競馬場で第二回県営競馬が開催(18日まで)された。この回から1等1万円の景品付入場券を発行した。(p.128)
• 昭和25年(1950)5月19日生駒郡平城村秋篠の奈良競馬場に併設した県営競馬場で第1回競輪が開催された。(昭和25年2月着工、5月18日竣工)(p.132)
 
◆出典・参考資料
奈良市史 通史4』 奈良市史編集審議会編 奈良市 (216.5-240-10.4)
奈良の近代史年表』 中本宏明編 [中本宏明] (216.5-416)
平城村史』 平城村史編集委員会編 平城村史編集委員会 (216.5-287) p.215~216
奈良町風土記 続編』 山田熊夫著 豊住書店 1976-1988 (291.65-458-2) p.125

島左近について知りたい。

島左近は、大和平群の出身で、筒井順慶や定次に仕え、後に豊臣秀長・秀保に仕えましたが、秀保の死後石田三成の家臣となり、慶長五年(1600)の関が原の戦いで討死したとされています。
 
◆出典・参考資料
大和郡山市史 [本編]』 柳沢文庫専門委員会編 大和郡山市 (216.5-229-1) p.188の「大和武士の末路」に記載。
大和武士』(奈良県史:第11巻) 朝倉弘著 名著出版 (216.5-439-11) p.448~451の「嶋氏」、p.268~269の「筒井順慶と「洞ヶ峠」、p.270~273の「豊臣(羽柴)秀吉の全国平定と筒井順慶の大和支配」、p.277~279「大和武士の末路」など
平群町史』 平群町史編集委員会編 平群町 (216.5-359) p.66~70の「嶋氏」の部分。
嶋左近のすべて』 花ケ前盛明著 新人物往来社 (289.1-シマサ-2001)
平群谷の驍将嶋左近』 坂本雅央著 平群史蹟を守る会 (289.1-シマサ-2002)
嶋左近 : 戦国軍配者』 山元泰生著 小学館スクウェア (913.6-ヤマモ)

徳川綱吉の「生類あわれみの令」に出てくる大和出身の僧隆光に関する資料を紹介してほしい。

隆光(りゅうこう)(1649-1724)は、慶安2年に大和添下郡二條村に生まれ、江戸中期に活躍した真言宗新義派の僧侶です。貞享・元禄・宝永にわたって五代将軍綱吉に近侍したといわれています。
 
(図書)
① 『隆光僧正日記 1~3』 五代将軍綱吉に仕えた護持僧隆光の日記を翻刻したもの。巻末の解題に隆光の略伝が記載されています。
② 『大和人物誌』 奈良縣 p.545-546 「隆光」の項
③ 『密教大辞典 5』 増訂版 p.2242-2243 「隆光」の項
④ 『國史大辭典 第14巻』 「隆光」の項
 
(雑誌・論文)
⑤ 青山茂「平城宮跡雑事記補遺護持院隆光大僧正の墓所」(『日本文化史研究』25)
⑥ 林亮勝「将軍綱吉と護持院隆光」(『日本佛教學會年報』37 日本佛教學會西部事務所) 未所蔵
⑦ 林亮勝「宗教的確信の形成-護持院隆光の場合」(『宗教と文化』 こびあん書房) 未所蔵
⑧ 林亮勝「護持院隆光の祈祷観」(『大乗仏教から密教へ : 勝又俊教博士古稀記念論集』)
⑨ 林亮勝「真言宗新義派の論議について-護持院隆光の御前論議を中心として-」(『仏教と儀礼:加藤章一先生古稀記念論文集』 国書刊行会) 未所蔵
⑩ 林亮勝「護持院隆光の「仏教講談」について」(『豊山教学大会紀要』第4号 豊山教学振興会) 未所蔵
⑪ 坂本正仁「真言宗新義派護持院僧録について-特に隆光代を中心として-」(『仏教史研究』第8号 大正大学史学会) 未所蔵
⑫ 林亮勝「御祈祷寺院住職の条件-護持院隆光の考え方について-」(『密教学研究』5 大正大学真言学研究室内日本密教学会事務局) 未所蔵
⑬ 林亮勝「護持僧考-護持院隆光の場合-」(『密教学研究』1 大正大学真言学研究室内日本密教学会事務局) 未所蔵
⑭ 林亮勝「護持院隆光について」(『仏教史研究』第3号 大正大学史学会) 未所蔵
⑮ 林亮勝「護持院隆光の一側面」(『大正大學研究紀要文學部・佛教學部』52 大正大學出版部) 未所蔵
 
◆出典・参考資料
隆光僧正日記 1~3』(史料纂集 ; 期外 6,11,13) 護持院隆光僧正著 ; 永島福太郎, 林亮勝校訂 続群書類従完成会 (210.08-246-25.1~3)
大和人物誌』 奈良縣廳 (281-7)
密教大辞典 5』 増訂版 密教辭典編纂會編 密教大辞典再刊委員会改訂増補 法蔵館 (188.5-16-5) 
國史大辭典 14』 国史大辞典編集委員会編. 吉川弘文館 (210.03-71-14)
日本文化史研究』25 帝塚山短期大学日本文化史学会 (210.1-237) 
大乗仏教から密教へ : 勝又俊教博士古稀記念論集』 勝又俊教博士古稀記念論文集刊行会編 春秋社 (180.4-114)

源有綱の終焉の地について知りたいが、それに関して記述している資料はあるか。

奈良県の宇陀郡(現在の宇陀市)は、大和源氏の一根拠地であったこともあり、「源氏」にまつわる伝承が多い土地です。例えば、清和源氏の祖といわれる六孫王経基の墓と称される五輪塔が栖光寺(宇陀市大宇陀区岩清水)にあったり、元暦元年(1185)5月24日、源義経が大和国宇陀郡龍門牧に身を潜めていた(『吾妻鏡』)などがそうです。
ご質問の源義経の聟伊豆右衛門尉源有綱も宇陀郡において、文治2年(1186)6月、平時貞と戦って敗れたといいます(『吾妻鏡』)。ただ宇陀郡内のどの場所かを記述している文献は少なく、『奈良県宇陀郡史料』(宇陀郡役所編 大正6年)「総論」の年表(6頁)文治2年の項に「六月平時貞源有綱を下芳野に攻めて是を殺す」とあります。
この「下芳野」というのは旧宇賀志村(現在、宇陀市菟田野区)に属します。『菟田野町史』にはこのことが触れられていますが、場所は特定していません。したがって「下芳野」とはっきり書かれているのは『奈良県宇陀郡史料』だけです。
なお、上記以外の参考文献としては下記のものがあります。
① 『大宇陀町史』 新訂
② 『総合地方史大年表』
 
◆出典・参考資料
全譯吾妻鏡』 貴志正造訳注 新人物往来社 (210.42-23-1~5)
奈良縣宇陀郡史料 全』 宇陀郡役所編 名著出版 (216.5-311)
菟田野町史』 菟田野町史編集委員会編 菟田野町 (216.5-243)
大宇陀町史』 新訂 大宇陀町史編集委員会編 大宇陀町 (216.5-506)
総合地方史大年表』 岡山泰四, 金井圓編 人物往来社 (210.03-68)

柳沢淇園について知りたい。

柳沢郡山藩の重臣、柳里恭(りゅうりきょう)の名で呼ばれています。初め貞貴(さだたか)、後に里恭(さととも)、父は筆頭家老の曽禰権太夫で、5000石の知行と柳沢姓を許されていました。号は玉桂よりも淇園の方がよく知られています。博学多芸、特に書画をよくしましたが、人の師となることができたのが16にも上ったと古書は伝えています(『ふるさと大和郡山歴史事典』)。
 
◆出典・参考資料
郡山町史』 郡山町史編纂委員会編 郡山町 (216.5-103)
大和郡山市史 [本編]』 柳沢文庫専門委員会編 大和郡山市 (216.5-229-1)
水木直箭「柳里恭の随筆その他」 (『大和文化研究』4巻5・6合併号) 大和文化研究会(216.5-162-4)
植谷元「文人の成立―柳沢柳沢淇園における―」 (『大和文化研究』4巻5・6合併号) 大和文化研究会 (216.5-162-4)
植谷元「柳沢淇園年譜」「系図」 (『大和文化研究』4巻5・6合併号) 大和文化研究会(216.5-162-4)
淇園印譜』 淇園会編 石敢堂書房 (739.8-1)
淇園名蹟』 淇園會編 辻本朔次郎 (721-6)
祇園南海・柳沢淇園』(文人画粋編:第11巻) 中央公論社 (721.7-41)
柳澤淇園と池大雅』 谷野英雄[著] (702.4-42)
柳沢淇園の芸術』 奈良県文化会館 (706.9-22)
柳里恭展』 柳沢淇園著 奈良国立博物館 (069-68-1957)
ふるさと大和郡山歴史事典』 大和郡山市文化財審議会編 大和郡山市 (216.5-464)
 ※ 『大和文化研究』』4巻-5・6合併号は「柳里恭特集」号

法隆寺に「若草伽藍」があるが、この若草とはいつごろからついたのか。

高田良信著『法隆寺の謎』 p.117-118に、なぜ「若草伽藍」と呼ばれるのかという問いに次のように答えています。
 
「法隆寺の境内に若草伽藍跡と呼ばれる場所がある。子院の普門院と実相院(じつそういん)の裏手にあたり、今は草が生い茂った空き地である。その南側には重要文化財に指定された大垣が東西にのびている。その大垣近くには若草の塔心礎と伝える大石がある。それが創建法隆寺(斑鳩寺)の跡であると伝えている。平安時代にはこのあたりを「花園(はなぞの)」と呼んでいたことが経巻の奥書によって知られている。おそらく西院伽藍の南にあって仏前に供する花や野菜を栽培していたところから、そのような名がつけられたらしい。江戸の宝永年間(1704~11)になると「若草」と呼ばれるようになり、『古今一陽集』に土俗の伝として「若草之伽藍」があったとする記事がはじめて紹介されている。それ以来、この地を若草伽藍と呼んでいるが、記録の上では花園というのが最も古い名称である。私は花園が徐々に荒廃して、やがて雑草が茂る野原と化したことから若草という名称が生じたのではないかと考えている。いずれにしても若草という名称がそれほど古い時代のものでないことだけはたしかである。」
 
◆出典・参考資料
法隆寺の謎』 高田良信著 小学館 (188.245-74)
私の法隆寺案内』 日本放送出版協会 (188.245-60)

(1)平城京の推定人口に関する論文や資料を紹介してほしい。 (2)近世頃の奈良市や近畿地方の推定人口に関する資料を紹介してほしい。

(1)平城京の推定人口に関する論文や資料について。
   1)『奈良朝時代民政経済の数的研究』(沢田吾一著 柏書房 1972年)
   2)『古京年代記』(村井康彦著 角川書店 1973年)
   3)『古代宮都の探求』(岸俊男著 塙書房 1984年)
   4)鬼頭清明「平城京の人口推計と階層構成の覚書」(下出積與編『日本古代史論輯』 桜風社 1988年)
   5)『奈良市史 通史1』(奈良市 1990年)「・・・諸説からすれば、現在のところ平城京の人口はほぼ10万人前後とみておくのが妥当であろう。」(p.310)
(2)近世頃の奈良市や近畿地方の推定人口に関する資料について。
   1)『近世日本の人口構造』(開山直太郎著 吉川弘文館 1958年)
   2)『近世農村の歴史人口学的研究』(速水融著 東洋経済新報社 1973年)
   3)速水融「明治前期人口統計史年表-附幕府国別人口表」(『日本研究』第9集 1993年)
以上の研究資料がありますが、奈良市についてはほとんどないようです。
わずかに速水融氏の以下の個別研究があります。
速水融「近世奈良東向北町の歴史人口学」(『日本研究』第3集 1990年)
速水融「近世都市の歴史人口学的観察―奈良東向北町 寛政5年~明治5年―」 (『三田学会雑誌』第82巻特別号?U 1990年)
 
◆出典・参考資料
奈良朝時代民政經濟の數的研究』 沢田吾一著 柏書房 (332.1-232)  ※昭和18年刊の複製
古京年代記』 村井康彦著 角川書店 (210.3-212)
古代宮都の探究』 岸俊男著 塙書房 (210.3-503)
日本古代史論輯』 下出積與編 桜風社 (210.3-609)
奈良市史 通史1』 奈良市史編集審議会編 奈良市 (216.5-240-10.1)
近世日本の人口構造』 開山直太郎著 吉川弘文館 (334.31-9)
近世農村の歴史人口学的研究』 速水融著 東洋経済新報社 (611.9-77)
速水融「近世奈良東向北町の歴史人口学」(『日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要』 第3集) 国際日本文化研究センター (051-199-3)
速水融「明治前期人口統計史年表-附幕府国別人口表」(『日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要』 第9集) 国際日本文化研究センター (051-199-9)
『三田学会雑誌』 第82巻特別号?U (当館未所蔵)

能楽の作品で、奈良盆地東側山中を舞台にしたものはありますか。

奈良盆地の東側の山中を舞台にした能楽の作品ということですが、いろいろと調べてみましたが、全く手がかりが得られませんでした。
ちなみに、奈良盆地の東側を舞台としたものには、例えば、世阿弥作『井筒』は大和国石上里、在原寺(現在の天理市)が舞台となっていますし、『三輪』は三輪山(現在の桜井市)が舞台となっています。しかし上記2作品は山中(月ヶ瀬・都祁・室生など)が舞台とはなっていません。
 
◆出典・参考資料
文学 : 風土と文学』(奈良県史 第9巻) 黒沢幸三編 名著出版 (216.5-439-9)
能楽と奈良』 表章著 奈良市 (773-92)
能楽史新考 1~2』 表章著 わんや書店 (773-125-1~2)
謡曲集 下』(日本古典文学大系 41) 横道萬里雄, 表章校注 岩波書店 (918-7-41)

奈良県下の地蔵の分布状態がわかる書籍を紹介してほしい。

地蔵の分布だけを県下一斉に調査した文献はありません。生駒市と奈良市では石造仏の調査報告書がありますが、その他の市町村の調査報告書はありません。県下の地蔵の分布は、以下の文献から地蔵をピックアップするとある程度わかります。
 
◆出典・参考資料
石造美術』((奈良県史:第7巻) 奈良県史編集委員会編 名著出版 (216.5-439-7)
大和地蔵の詩』 西口紋太郎著 世界文庫 (385.1-23)
大和の石造美術』 川勝政太郎著 天理時報社 (714-1)
石の奈良』 川勝政太郎文 ; 五味義臣写真 東京中日新聞出版局 (714-8)
大和の石仏』 清水俊明著 創元社 (718.4-22)
大和石仏巡礼』 高階成章著 駸々堂出版 (718.4-29)
奈良の石仏』 西村貞著 全國書房 (718.4-2)
石仏の大和路』 田中真知郎写真 ; 杉本苑子, 川勝政太郎文 朝日新聞社 (718.4-23)
大和路石仏散歩』(孔雀ブックス) 石?M俊造著 主婦と生活社 (718.4-45)
生駒市石造遺物調査報告書』 元興寺文化財研究所編 生駒市教育委員会 (714-18)
奈良市の文化財調査中間報告 : 石造物、わらべ歌、伝説』 奈良市教育委員会[編] 奈良市教育委員会 (382.165-11)
奈良市石造遺物調査報告書 調書編』 奈良市石造物調査会編 奈良市教育委員会 (714-23-1)
奈良市石造遺物調査報告書 解説・図版編』 奈良市石造物調査会編 奈良市教育委員会(714-23-2)
野ほとけ』 奈良石仏会 (710-ノホト-Z)

正倉院宝物の中の『国家珍宝帳』の全文を読みたい。

『東大寺献物帳』は、天平勝宝8年(756)から天平宝字2年(758)の間に東大寺の盧舎那仏に品々を献じた際の献納品の目録で、正倉院に5巻が現存します。
『国家珍宝帳』というのはその中の一つで、献納品の名称により『国家珍宝帳』、『種々薬帳』、『藤原公真蹟屏風帳』などと呼んでいます。
『国家珍宝帳』あるいは『東大寺献物帳』については、概要を説明したものや活字に翻刻されたもの、『正倉院展目録』等で部分的に紹介したものはありますが、全体をわかりやすく解説したものは見当たりませんでした。
以下に関係文献をあげておきます。
活字翻刻:『大日本古文書 [編年]4』、『大日本仏教全書 東大寺叢書一』、『寧楽遺文中』、『日本の古文書 下』(相田次郎、昭和29年)
謄写翻刻:『校刊美術史料 寺院編 中』
複製本:『東大寺献物帳』(明治13年)
このうち、『校刊美術史料 寺院編 中』は活字の翻刻とはいえ、解題もあって比較的読みやすいです。
なお、『正倉院の書蹟』(日本経済新聞社 1964年)にも『国家珍宝帳』など、『東大寺献物帳』全5巻の概要が紹介されています。また、関根真隆「献物帳の諸問題」(『正倉院年報』第1号 1979年)にも概要が記述されています。
 
◆出典・参考資料
大日本古文書 [編年]4』 東京帝國大學文科大學史料編纂掛編 東京帝國大學 (210.08-68-0.4)
東大寺叢書 第1』 (大日本仏教全書) 大日本佛教全書刊行會 (180.8-11-71.1) 
寧楽遺文 中巻』 訂正版 竹内理三編 東京堂出版 (210.08-130-2)
日本の古文書 下』 相田二郎著 岩波書店 (210.08-114-2)
校刊美術史料 寺院篇 中巻』 藤田経世編 中央公論美術出版 (702.1-121-2)
東大寺献物帳』 東京帝室博物館 (188.35-5)
正倉院の書蹟』 正倉院事務所編 日本経済新聞社 (728-31)
正倉院年報』 第1号(1979年) 宮内庁正倉院事務所[編] 宮内庁正倉院事務所  (051-167-1)

明治中期から大正期頃に、奈良の"奈良神"で名前をつけてもらうのが大流行したと聞くが、その所在を教えてほしい。

奈良の民俗関係の資料で流行神や『奈良近代史年表』、『奈良市史』などを見てみましたが、該当する記述は見当たりませんでした。奈良市の教育委員会にも照会しましたが、わかりませんでした。
『奈良県の地名』の索引に「楢神社」がありましたので確認してみたところ、「楢神社は天理市櫟本町にあり、もともと楢村の鎮守社だが、本地を訶(か)梨(り)帝母(ていも)(鬼子母神) とし、近年は多産の神として全国的に知られ、子供を授かると楢あるいは奈良の字を付けている。」と記述されていましたので、お尋ねの場所は天理市櫟本町にある楢神社ではないかと思われます。
 
◆出典・参考資料
奈良県の地名』 (日本歴史地名大系30) 平凡社 (291.034-11-30)

享和2年(1802)~明治18年(1885)の洪水での奈良県下の被害状況について知りたい。

奈良県下の災害史としてまとめられたものには、青木滋一著『奈良県気象災害史』、木村博一編『奈良市災害編年史』があり、編年順にまとめられていますので便利です。
このほか、大きな災害でしたら各市町村史に記述されています。
 
◆出典・参考資料
奈良県気象災害史』 青木滋一著 養徳社 (451.9-11)
奈良市災害編年史』 木村博一編 奈良市 (210.17-4)

高田十郎が昭和26年に奈良県教育委員会より文化功労賞を受賞しているが、そのことが記載されているものが見たい。

『奈良県年鑑 昭和27年度』のp.106~107に、新納忠之助、佐藤小吉、岸熊吉、山下繁雄、金春光太郎、萩原善太郎とともに、「文化功労者表彰」として高田十郎の名前が記載されています。なお、高田十郎の略歴については、奈良県高等学校国語文化会編『まほろば』16号「高田十郎先生特集」や乾健治著『奈良』、平井漠著『民俗学者高田十郎 : 相生市の生んだ』で確認することができます。
 
◆出典・参考資料
奈良縣年鑑 昭和27年度』 大和タイムス社 (216.5-10-4) p.106-107
まほろば』16号 高田十郎先生特集 奈良県高等学校教科等研究会国語部会 (375.8-104)
奈良』 (郷土歴史人物事典) 乾健治著 第一法規出版 (281.65-24)
民俗学者高田十郎 : 相生市の生んだ』 平井漠 (289.1-タカタ)

竜田神社と竜田大社について、とくに歴史的なことや例祭のことを知りたいので、関係する資料を紹介してほしい。

1)『奈良県史5 神社』には「竜田比古竜田比女神社」(p.496)と「竜田坐天御柱国御柱神社」(p.507)の記述があります。
2)『式内社の研究第2巻 宮中・京中・大和』には「龍田坐天御柱国御柱神社」(p.105-107)と「龍田比古龍田比売神社」(p.108-110)の記述があります。
3)『都道府県祭礼事典 奈良県』のp.134-138の部分には「龍田神社秋季大祭・神楓祭」(斑鳩町龍田)、「龍田大社磐瀬杜瀧祭」(三郷町立野)、「龍田大社風鎮祭」(三郷町立野)の各例祭が収録されています。
なお、基本的な事項につきましては『斑鳩町史』や『三郷町史』の民俗編や社寺編をご覧ください。
また、関連資料としては、大宮守友「服部神楽講文書の世界」、大宮守友・薗部寿樹「服部神楽講文書」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第112集)などがあります。
 
◆出典・参考資料
神社』 (奈良県史 第5巻) 池田源太, 宮坂敏和編 名著出版 (216.5-439-5)
式内社の研究 第2巻 宮中・京中・大和編』 志賀剛著 雄山閣出版 (170.2-18-2)
祭礼事典 : 都道府県別 奈良県』 桜楓社 (385-37)
斑鳩町史 本編』 斑鳩町史編集委員会編 斑鳩町 (216.5-394-1)
三郷町史 上・下』 三郷町史編集委員会著 三郷町 (216.5-354-1-1~2)
国立歴史民俗博物館研究報告』 第112集 国立歴史民俗博物館 (060-コクリ-Z)

明治のはじめに奈良県の権令だった藤井千尋について知りたい。

藤井千尋(フジイ チヒロ)については、明治6~9年に奈良県権令であったことや氏の奈良時代の業績がわかる程度で、それ以上のことはプライベートなことも含めて資料もなく不明です。同様に奈良在住以後の氏の動向は全くわかりませんでした。
藤井権令については、廃藩置県後、最初の県令であった四条隆平(シジョウ タカトシ)の退任後、青山貞(アオヤマ テイ)が奈良県権令に就任する予定でしたが、赴任しないまま他の任務につき、代わって堺県参事であった藤井が明治6年11月19日に奈良県権令に就任したといういきさつがありました。氏の奈良在任期間中の業績といえば、大区会議所の整備・大区小区の組み替えなど、大区小区制の整備、地租改正事業の実施、「学制」以後の小学校の整備、小学教員伝授(伝習)所以降の教員養成機関の設立などがあげられますが、とくに奈良博覧会社の設立と明治8年から始まる奈良博覧会の実施は氏の在任期間中の大きな事業の一つであったといえましょう。明治9年4月、奈良県が廃止され、堺県に合併されましたが、藤井権令のその後の動向はわかりません。
ちなみに、当時県令は原則として奏任四等に位置づけられ、地方行政長官として中央集権政治を支えました。奏任五等に相当するのが権令で、県令の代わりに派遣されることがあったといわれています。
 
◆出典・参考資料
青山四方にめぐれる国 : 奈良県誕生物語』 奈良県 (216.5-187) p.57-58、p.98-100
奈良県の歴史』 (県史29) 山川出版社 (210.08-429-29) p.303、p.333-335

大和の環濠集落に関する文献について知りたい。

環濠集落は大和の集落を特徴づけるものですが、大和全体を概説的に書いた文献は意外に少なく、ほとんどは特定地域を対象としています。現在の大和郡山市の若槻・稗田を対象としたものは、喜多芳之著『大和の環濠集落』、渡辺澄夫著『畿内荘園の基礎構造』があげられます。桜井市を対象にしたものに『桜井の古文化財 その3 環濠集落』があります。また、個別には各市町村史があります。
 
◆出典・参考資料
大和の環濠集落』 (研究紀要 2) 喜多芳之著 日本古城友の会 (291.65-512)
畿内庄園の基礎構造 : 特に均等名庄園・摂関家大番領番頭制庄園等に関する実証的研究』 増訂版 渡辺澄夫著 吉川弘文館 (611.22-47)
環濠集落』 (桜井の古文化財 3) 桜井市教育委員会編 桜井市文化財協会 (709-24-3)

中世大和のことを記した「国民郷士史」について知りたい。

中世大和のことを記した「国民郷士史」は、一般に「国民郷士記」と呼ばれているもので、正式には「和州十五郡衆徒国民郷士記」といいます。内容は、大和の中世武士を興福寺の衆徒・国民の観点から叙述した近世史料(江戸時代に書かれたもの)で、中世史料を補う貴重な史料です。類似本も多く、若干内容も異なりますが、筒井氏一族のことが中心に書かれており、『和州諸将軍伝』につながるものです。当館にも『和州十五郡衆徒神人郷士記』や『大和郷士録』(薄木家文書)といった類似本があります。
なお、「和州十五郡衆徒国民郷士記」は県内の市町村史編纂にもよく使われますが、活字本は『奈良県史 第11巻 大和武士』(名著出版)の巻末に史料として収録されています。
 
◆出典・参考資料
大和郷士録 全』 (大和国宇陀郡稲戸村薄木家文書) (2-1-1)
和州諸将軍伝』 限定版(奈良県史料 第2巻) 奈良県史料刊行会編 豊住書店 (210.08-322)
大和武士』 (奈良県史 第11巻) 朝倉弘著 名著出版 (216.5-165)
『和州十五郡衆徒神人郷士記』 (資料群番号57)

奈良の「庚申さんと身代り猿」の話に「玉皇大帝」という言葉が出てくるがそのヨミを知りたい。

庚申さんと身代り猿の話については書かれたものが少なく、大和の昔話に関する本などには出てきませんでした。
『奈良町物語』のp.60には「庚申さんと身代り猿」として紹介されていました。この中に確かに「玉皇大帝」が出てきますが、ヨミは載っていません。『中国思想辞典』(岩波書店)p.77にはルビが付記されていました。
「玉皇大帝」(ぎょくこうたいてい):道教の神様。
 
◆出典・参考資料
奈良町物語』 奈良まちづくりセンター (291.65-653)
中国思想辞典』 日原利国編 研文出版 (122-60)

「林浄因命」および饅頭の由来等について(「林浄因命」を祭る林神社と奈良との関係など)知りたい。

漢国神社(奈良市)の境内には、林浄因やその子孫林宗二らを祭る林神社があります。そもそも日本ではじめて饅頭の作り方を教えたのは、南北朝時代に建仁寺の竜山禅師に従って中国から来朝した林浄因といわれています。
浄因が京都から奈良に移って林小路に住み、饅頭屋を始めたと伝えられていますが、詳細は不明ですし、浄因自身についての研究も皆無に等しいです。
むしろ後世になって、末裔の林宗二(1498~1581年)、あるいは父道大の時代に奈良に移って活躍したといわれています。例えば、『松屋名物集』によりますと、林宗二は応仁の乱より下って林小路に住み、『節用集』の作者で饅頭の開祖だと説明しています。宗二は奈良に住んで饅頭屋を営んでおり、奈良と京都を往来していて京都にも出店を持ち、そのかたわら、饅頭屋本『節用集』や『源氏物語林逸抄』を出版したり、一乗院に出入りして建仁寺両足院に残る唐宗詩文を筆写するなど、漢籍・易学に詳しく、連歌にも長じ、町人学者として活躍し、彼もその子宗杜も奈良で死去したといわれています。なお、宗二の子孫は和菓子屋「塩瀬」を開きました。また、宗杜の弟は建仁寺住寺の梅仙東です。
 
◆出典・参考資料
中世文藝の源流』 永島福太郎著 河原書店 (910.24-4)
奈良市史 通史二(中世)』 奈良市史編集審議会編 奈良市 (216.5-240-10.2)
奈良市史 通史三(近世)』 奈良市史編集審議会編 奈良市 (216.5-240-10.3)
奈良』 新装版(日本歴史叢書) 永島福太郎著 吉川弘文館 (216.5-538)
奈良文化の伝流』 永島福太郎著 中央公論社 (216.5-33)
大和人物志』 奈良県編刊 (281-7)

大和郡山市の金魚に関する資料はあるか。

郡山の金魚は江戸時代中期に始まり、幕末から明治初年に名声をえるようになったといいます。簡潔にまとめてあるのが『ふるさと大和郡山歴史事典』の記述ですが、詳しく知りたい方は以下の図書をご覧ください。
 
◆出典・参考資料
大和郡山市史』 柳沢文庫専門委員会編 大和郡山市 (216.5-229-1~2)※「郡山の金魚」
日本産業史大系 第6 近畿地方篇』 地方史研究協議会編 東京大学出版会 (608-9-6)※「郡山の金魚」
郡山町史』 森田義一編 郡山町(奈良県) (216.5-103)※「産業経済」
大和百年の歩み 政経編』 大和タイムス社 (216.5-271-1)
奈良点描 2』 長田光男編 清文堂 (216.5-436-2)※「大和郡山の金魚」
日本の郷土産業4 近畿』 日本地域産業研究所編 新人物往来社 (602.1-35-4)※「郡山金魚の優雅な感覚」
金魚グラフィティ』 石田貞雄著 光琳社 (727-83)※写真多戴
奈良盆地』 奈良女子大地理学教室編 古今書院 (291.65-287)※「郡山金魚の地理学的研究」
森田義一「金魚の周辺」(『大和郡山市市史研究講座 : 郷土史研究』) 大和郡山市中央公民館 (216.5-451)
ふるさと大和郡山歴史事典』 大和郡山市文化財審議会編 大和郡山市 (216.5-464)※「郡山の金魚」

興福寺の江戸~明治期がわかる絵図はあるか。

興福寺は、鎌倉時代には大和守護職として一国支配権をもち、多くの荘園を有したが、近世に入ると春日社とあわせて2万石余の朱印地を与えられ、96の塔頭(子院)をもつ大寺院でした。明治初年の廃仏毀釈で大きな打撃を受け、一時は廃寺となったが、明治14(1881)年に再興されました。
 
◆出典・参考資料
近畿の市街古図』 原田伴彦ほか著 鹿島出版会 (291.038-86) ※天理大学附属天理図書館所蔵『和州南都絵図』(寛文6年)を所収。
「春日神社境内図」「興福寺境内図」(『奈良県大般若経調査報告書2 本文編』) 奈良県教育委員会文化財保存課 (183.2-25-2.1) ※奈良県立図書情報館蔵のものを翻刻。江戸期の境内図、『春日神社境内絵図』及び『興福寺境内絵図』を所収。
山近博義「近世奈良の都市図と案内記類」(『奈良女子大学地理学研究報告5』) 奈良女子大学文学部地理学教室 (290.5-1-5)
日本近代都市変遷地図集成 大阪・京都・神戸・奈良』 地図資料編纂会編 柏書房 (291.6-82) ※「大和国奈良細見図」(明治7年)、「奈良町全図」(明治23年)、「奈良市街名区古蹟図」「奈良市実測細見図」(明治29年)を所収。

奈良県内のおんだ祭りに関する文献について。

一般に神社などで豊作を祈願して行われる祭礼を「お田植祭」あるいは「お田植神事」といいますが、「御田(おんだ)祭」と呼ぶ場合もあります。近畿地方では「御田(おんだ)祭」はよく使われる呼称です。
奈良県内の「御田(おんだ)祭」は、すべて神社の拝殿や庭上での田植えに至るまでの模擬的な稲作の所作のことで、大阪の住吉大社や伊勢神宮などにみられる実際の神田における田植え神事とは異なり、あくまでも農耕に先立つ予祝儀礼であるという。(大宮守人「県内御田植祭の詞章について」より)
 
◆出典・参考資料
特別テーマ展 農耕儀礼-御田祭と野神まつり』 奈良県立民俗博物館 (382.165-28-1980)
奥野義雄「予祝儀礼・御田植と中世農民」(『奈良県立民俗博物館研究紀要 第5号』) 奈良県立民俗博物館 (380.7-3-1)
大宮守人「県内御田植祭の詞章について」(『奈良県立民俗博物館研究紀要 第5号』) 奈良県立民俗博物館 (380.7-3-1)
奈良県史 12 民俗上』 岩井宏實編 名著出版 (216.5-439-12)
奈良県史 13 民俗下』 岩井宏實編 名著出版 (216.5-439-13)
和州祭礼記』 復刻版 辻本好孝著 名著出版 (385.2-11)
大和の年中行事』 改訂版 山田熊夫[ほか]著 奈良新聞社 (385.8-57)
奈良市民俗芸能調査報告書-田楽・相撲・翁・御田・神楽-』 奈良市教育委員会 385.7-25-1
大和神社の祭りと伝承』 桜井満, 菊池義裕編 桜風社 (385.2-37)
飛鳥の祭と伝承』 桜井満, 並木宏衛編 桜風社 (382.165-30)
吉野の祭りと伝承』 桜井満, 岩下均編 桜風社 (382.165-31)
宇陀の祭りと伝承』 桜井満, 瀬尾満編 桜風社 (382.165-43)
その他、多数あります。

江戸期に紀伊国屋文左衛門とならび称された豪商奈良屋茂左衛門は奈良出身の人か。

奈良との関わりはないと思われます。
鶴岡実枝子「奈良茂家」考」(『史料館研究紀要 8号』(1975.9))には「初代が霊巌寺門前の借地人であった…」、「霊岸島の裏店屋住いの車力の子といわれる…」などの記述があります。(※いずれも江戸深川辺り)
 
◆出典・参考資料
史料館研究紀要 8号』 国立史料館 (051-92-8)
国史大辞典 10』 吉川弘文館 (210.03-71-10)

井足村(現宇陀市榛原区)で三角縁神獣鏡が発見されたことに関する資料がないか。

名称は、愛宕山(米山)古墳(宇陀市榛原区上井足)。明治32年11月26日、石材採取のために地主の松浦富三郎氏が裏山の頂上を発掘した際に古鏡その他数種類の古器類を発見、同月30日に榛原警察分署に届け出たと「大和新聞」が伝えています。
また、明治32年の『考古学雑誌』第3編3号に「宇陀郡榛原町古墳の発見」と題する報告が載せられています。
さらに薄木祐蔵氏による薄木家文書『古墳基調書 但宇陀郡ノ部』に記された記録が大正6年発行の『奈良縣宇陀郡史料』に収録されています。
 
◆出典・参考資料
榛原町史』 榛原町史編集委員会編 榛原町  (216.5-200)
古墳基調書 但宇陀郡ノ部』(薄木家文書 95) (2-7-1) 
奈良縣宇陀郡史料』 奈良県宇陀郡役所 (216.5-21)

明治期の神社合祀、神社整理に関する資料があるか。

明治末期の神社合祀、神社整理に関する資料については、「奈良県行政文書」(旧奈良県庁文書・郡役所文書)に若干あります。ただ、簿冊の表題は神社合祀・神社整理と付されている場合は少なくほとんどは「神社」や「神社一件」となっています。したがって目録を閲覧される場合は、神社合祀や神社整理の課題が提示された明治末期の地方改良運動が始まる明治39年以降をご覧ください。
なお、これに関する研究はほとんどなく、わずかに『山辺郡誌』をもとに分析した関口靖之「近代山辺郡の神社と合祀」(『奈良学研究』創刊号 帝塚山短期大学奈良学学会 1997年)だけです。
 
◆出典・参考資料
奈良学研究』創刊号 帝塚山短期大学奈良学学会 (216.5-547-1)

(株)テイチクから出された曲で菅原都々子が歌っていた「奈良はなつかし」の楽譜を探している。(株)テイチクに問い合わせたが、古い曲なので残っていないと言われた。

『大和路歌物語』に楽譜、歌詞が収録されています。
 
◆出典・参考資料
大和路歌物語』奈良の歌を育てる会著 (767.56-ヤマト-2001)

明治41年頃に奈良駅に公衆電話ができたはずだが、正確な日にちを知りたい。

明治41年11月3日。
 
◆出典・参考資料
奈良の近代史年表』中本宏明編 (216.5-416)

御所の円照寺について、特に「御坊」との関係について知りたい。

『御所市史』には、「円照寺(御所市御堂前町)ははじめ常徳寺と号していた。慶長5年2月本山の准如上人から懸所坊舎を命ぜられ、蝕頭として五十余力寺を統括。のち円照寺と改称した。現在も大和五ヶ所御坊の一つ」と記述されています。
 
◆出典・参考資料
御所市史』 御所市史編纂委員会 御所市役所 (216.5-224)
奈良県史 6 寺院』 岩城隆利 , 大矢良哲編 名著出版 (216.5-165)
奈良県の地名』(日本歴史地名大系 30) 平凡社 (291.034-11-30)

大仏鉄道にかかる奈良~木津間の地番について。新たに区画整理をするため過去の地番を調べられる資料は無いか。

奈良の方は、明治22年の『奈良町実測全図』で地番がわかります。
京都側の方も明治10年代の大字単位の地籍図がありますので、加茂町・木津町の教育委員会に問い合わせていただくと分かるかもしれません。
 
◆出典・参考資料
奈良町実測全図』(T-2-111)
奈良市史 通史4』奈良市史編集審議会編 奈良市 (216.5-240-10.4)
『大仏鉄道関係スクラップ』(新聞スクラップ) 

昭和天皇が奈良県知事公舎で批准書の認証を行った年月日はいつか。その日付とどの資料に記載されているか知りたい。

昭和26年11月19日に行われました。
資料には「天皇陛下ご来県、知事公舎で講和、安保の両条約批准書認証が行われた。」と記載されています。
 
◆出典・参考資料
奈良県年鑑』 大和タイムス社 (216.5-10) 「県史年表」の部分

八嶋郷(大和国添上郡)に関して、過去に他の地域に移ったことがあるのかどうかがわかるような資料があれば紹介してほしい。 『奈良市史 地理編』(p456)にある『大和国郷帳』は参考になるか。また活字にした資料はあるか。

八島郷は『三代実録』仁和元年(885)9月21日条に「大和国添上郡八嶋郷」が見えます。治承2年(1178)の僧玄愉畠地売券(『東大寺文書』)に「添上郡八島郷南壱条七里」とあるので、現奈良市八島町付近に比定されています(『奈良県の地名』)。
この地名が、他地域に移ったという記録は見つかりませんでした。
「大和国郷帳」のうち、「元禄郷帳」「天保郷帳」は、『内閣文庫所蔵史籍叢刊』55、56(影印本)に所収されています。
「寛文元年大和国郷帳」は、『明治大学刑事博物館資料第3集』に翻刻されています。
いずれも、江戸時代の村名と石高を記載したもので、参考にはならないと思われます。
 
◆出典・参考資料
三代実録』(六國史 巻9, 巻10) 名著普及会 (210.3-1272-6) 
東大寺文書』復刻版 (大日本古文書 第18) 東京大学史料編纂所編東京大学出版会 (210.08-68-18)
奈良県の地名』(日本歴史地名大系 30) 平凡社 (291.034-11-30) 
天保郷帳』(内閣文庫所蔵史籍叢刊 55, 56) 汲古書院  (210.08-388-55,56)
明治大学刑事博物館資料 第3集』 明治大学刑事博物館 (210.08-329-3)

多聞城の縄張図が載っている資料が知りたい。

多聞城に関する文献のうち、『奈良県史跡名勝天然記念物調査抄報第十輯』所収の「多聞城跡」には、多聞城縄張推定図を載せています。
また、『日本城郭大系10三重・奈良・和歌山』の多聞城の項には多聞城要図が収載されています。
 
◆出典・参考資料
奈良県史跡名勝天然記念物調査抄報 第十輯』 奈良県教育委員会 (291.65-228-10) 
日本城郭大系10三重・奈良・和歌山』 平井聖ほか編 新人物往来社 (521.82-24-10)

中国から日本に伝わった梵鐘について知りたい。 全国に2つか3つあると聞いたが、そのうちの1つが奈良にあると言われた。どこにあるのだろうか。

中国から入ってきた鐘(支那鐘)は、過去の報告では2口(宗休寺と熊野神社のもの)とされていましたが、現在では現存するもので36口が確認されており、未報告のものもあると考えられています。
石田肇「日本現存支那鐘研究序説 : 附日本現存支那鐘一覧」によると、奈良県内では国立博物館が1口所蔵しています(重要文化財. 陳・太建7(575)年)。 
また、「支那鐘」とは異なるようですが、愛知県の実相寺の梵鐘も、中国の影響を受けた日中混交式で、日本に3つしかないと言われています。 
さらに山口県の正讃寺の梵鐘は、和韓折衷式という珍しい様式だということです。
それぞれホームページに載っていますのでご参照ください。
<実相寺の梵鐘について> 
http://www.city.nishio.aichi.jp/kankobunka/palepurple/cul_ass/index.html#JISSOJI
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/seisan/sei060.htm
http://www.city.nishio.aichi.jp/kaforuda/30bunka/bunz/bun17.html
<正讃寺の梵鐘について> 
http://www1.ocn.ne.jp/~kantaro/ybonsyo.htm
 
◆出典・参考資料
石田肇「日本現存支那鐘研究序説 : 附日本現存支那鐘一覧」(抜刷資料)

高市郡明日香村大原(現在は小原)に明治初期まであった藤原寺(とうげんじ)について知りたい。

明日香村大原は中臣鎌足の出生地と伝承されています。
その出生地の一角には、明治初期ごろまで藤原寺(古くは法光寺、あるいは中臣寺)が建っていました。
そして、この場所は、もともとは五摂家の一つの鷹司家の所有地でしたが、明治の初期に平田家に譲られたといわれています。
以上のこと以外は、『奈良県高市郡志料』・『奈良県の地名』・『大和志料』等に詳しく記載されています。
 
◆出典・参考資料
奈良県高市郡志料』 高市郡役所編 名著出版 (216.5-290) 
奈良県の地名』 (日本歴史地名大系 30) 平凡社 (291.034-11-30)
大和志料』復刻版 奈良県教育会編纂 臨川書店 (216.5-471-1,2)

奈良漬について詳しく書かれている文献はないか(漬物の本に載っているようなものではなく)。

所蔵資料の中では以下の資料があります。
 
◆出典・参考資料
奈良市史 通史三』 奈良市史編集審議会編 奈良市 (216.5-240-10.3)
奈良点描 1』 長田光男編 清文堂出版 (216.5-436-1)
本朝食鑑』(復刻日本古典全集) [平野必大著] 現代思潮社 (081-42-5.1、5.2)
北野社家日記』(史料纂集 古記録編 23 ほか) 続群書類従完成会 (210.08-246-5.1~5.7)

猿沢池に関して、以下の点について知りたい。 1.七不思議の意味 2.どこから水を引いているのか

1. 七不思議とは、「澄まず、濁らず、出ず、入らず、魚七分に水三分、蛙はわかず、藻が生えず」というものですが、「魚七分に水三分」の正解な意味はわかりませんでした。しかし、毎年放生会で多くの魚が放されることから、このような言い方がなされたのではないかといわれています。
2. 旧、水谷川 (『奈良市史 自然編』)
 
◆出典・参考資料
奈良県の民話』 日本児童文学者協会編 偕成社 (388.165-14)
郷土の伝説』 駒井保夫著 [駒井保夫] (388.165-29)
奈良の伝説』 奈良の伝説研究会編 日本標準 (388.165-27)
采女 : 献上された豪族の娘たち』 門脇禎二著 中央公論社 (210.3-735 )
大和の伝説』 増補版 高田十郎編 大和史蹟研究会 (388.165-5)
奈良市史 民俗編』 奈良市史編集審議会編 奈良市 (216.5-240-2)
奈良市史 自然編』 奈良市史編集審議会編 奈良市 (216.5-240-4)
雑誌『大和路』1959年11月号 奈良交通 (685.5-1)

「斑鳩」の漢字が使われるようになった由来などについての資料がほしい。池田末則氏の文献などでよい資料はないか。 〔調査済資料〕 『角川日本地名大辞典 奈良県』 『平凡社日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』 『斑鳩町史』

「斑鳩」の地名は、イカルという鳥が沢山住んでいたからだとされていますが、イカルが何故「斑鳩」と書かれ、地名でもその漢字が用いられたかということは良く分かりません。
池田末則氏は、
「斑はワカツ、イカツ、鳩はキュウと読む。イカルガの音に近い。こうした地名用字は相当なエリートの知恵で考えた地名だと思われる。」(『地名風土記 : 伝承文化の足跡』)、また、「『記』『紀』には…『山門』を『陽明門』と嘉名化したように、佳名・表意・近似音表記の事例は少なくない」(『地名伝承論 : 大和古代地名辞典』 )
と述べています。 
なお、『奈良県史 14 地名』p.445~446にも、池田末則氏による詳しい解説が載っておりますのでご覧ください。(そこでは、イカルガのガは助詞ではないかと述べられています)
 
◆出典・参考資料
地名風土記 : 伝承文化の足跡』 池田末則著 東洋書院 (291.65-671)
地名伝承論 : 大和古代地名辞典』 池田末則 名著出版 (291.65-660)
奈良県史 14 地名』 池田末則著 名著出版 (216.5-439-14)

奈良県内の建築、土木関係の企業名簿をみたい。また、市販されているものはあるか。

商工名鑑 』 奈良商工会議所 (670.35-3-37)・・・・非売品 
奈良県年鑑 2004』 奈良新聞社 (216.5-10-56)・・・・市販されていますが、平成15年7~8月に実施した調査で回答を得られた事業所および昨年のデータに変更のない事業所を収録対象としています。
帝国データバンク会社年鑑』 業種別索引 都道府県名入  
帝国データバンク (335.4-108) 
また、奈良商工会議所では、奈良市内の法人会員事業所の名簿の一覧表を提供するサービス「奈良商工会議所のD.Mサービス」(有料)を行っています。
http://www.nara-cci.or.jp/service/dm/

その他全般的なレファレンス事例(49)

水原秋桜子の「松と紅葉何ぞ障子の浄らなる」という句が、秋櫻子にとってメジャーな句と、言われているそうだが、どこで詠まれた句か、どの句集に出ているのか、知りたい。

「松と紅葉何ぞ障子の浄らなる」という句は、中宮寺で読まれたものと思われます。
『水原秋桜子全句集索引』で見ますと、『帰心』(昭和28)という句集に収録されていることがわかりました。また、『秋桜子俳句と奈良大和路』(石井庄司著 東京美術 1988)には 中宮寺の項にその句が挙げられています。前後の文章は、「戦後になって、句集『帰心』に二句。 松と紅葉何ぞ障子の浄(きよ)らなる 冬菊に厨子くらければひざまずく  まだ、元のままのお堂である。南側の障子の明かるく浄らかなことに感嘆しておられる。そして、今回は、冬菊が供えてある。観音さまの前にひざまずいて拝したというのである。」 とあります。 
◆出典・参考資料
水原秋桜子全句集索引』 小野恵美子編 安楽城出版 (911.362-ミスハ)
秋桜子俳句と奈良大和路』 石井庄司著 東京美術 (911.36-416)

象鼻杯(ぞうびはい)について調べてほしい。1.中国で流行した年代 2.日本には、いつ頃渡来したか。それらについて書かれたものはあるか。

三世紀頃の中国で暑気払いとして親しまれていた飲酒方法です。ハスの葉の中心に小さな穴を開け、その葉にお酒を注いで茎を通して飲みます。 その姿が象の鼻に似ていることから象鼻杯と称されています。『酉陽雑俎』(ゆうようざっそ)p.25には三世紀の三国時代の曹魏(そうぎ)、 または六世紀の南北朝時代の北魏(ほくぎ)の正始年間のときに、鄭公愨(ていこうかく)が山東省へ避暑におとずれた時の酒宴のようすが書かれています。 『中国の酒書』p.152には、「象鼻杯の酒の味には蓮の香気が混じって風味もよく、その冷たさは水にも勝るものだったようだ」と書かれています。 2.については掲載されている資料が見つかりません。 『百人一酒』P.40「象鼻杯」で著者の俵万智さんが読者に情報を求める一文が掲載されています。 
◆出典・参考資料
酉陽雑俎 2』 段成式 [撰]今村与志雄訳注 平凡社 (080-6-389)
中国の酒書』 中村喬編訳 平凡社 (080-6-528)
百人一酒』 俵万智著 文藝春秋 (914.6-タ-182)
中国の酒』 大谷彰著 柴田書店(588.5-8)
中華名物考』 青木正児著 平凡社 (080-6-6479 )

漢詩を作るので「平仄(ひょうそく)」について知りたい。辞典などは所蔵しているか。

平仄とは漢字を韻によって4つ、平声(ひょうしょう)、仄は上声(じょうしょう)・声(きょしょう)・入声(にっしょう)に区別したもので、平は平声(ひょうしょう)、 仄は後の3声をさします。また、漢詩の近体詩において、重視される発音上のルールで平声字と仄声字の規則的な配列を言います。
『漢詩の事典』には、漢詩の作り方や形式についての記述があります。その他に、平仄についての解説、作法、平仄一覧表、常用韻字表などが記載されているものを紹介します。 
◆出典・参考資料
漢詩入門韻引辞典』 飯田利行著 柏書房(919-28)
平仄完備詩語・類語便覧』中野佳林著 中野佳林(919.07-ナカノ)
字通』白川静著 平凡社(813.2-44)
新釈禅林用語辞典 : 平仄付』 飯田利行著 柏美術出版(188.8-96)
漢詩の事典』 松浦友久編著 ; 植木久行, 宇野直人, 松原朗著 大修館書店(921-154)

「京都」と呼ばれるようになったのはいつ頃からか。

京都という呼称は元来この地だけのものではなく、一般の普通名詞として用いられていました。「京」は天子の居城のある土地の意味で、羅城・条坊を持つ儀礼的なものが考えられ、 「都」は天子の常居のある聚落という意味で宗廟などを伴った日常的なものが連想されます。従って、平安京が定まる以前にも難波、藤原、平城、恭仁の諸京は、 京都という呼称の対象となりました。特に平安京は長期の京都でしたが、それでも京都が普通名詞であったことには変わりなく、これが本格的な固有名詞となったのは、 応徳3年(1086)白河院が白川(現左京区)の地に院政を開き、当初「京・白川」が並称されるようになってから、両者の総称として京都の呼称がしだいに定着したもののようです。
◆出典・参考資料
京都市の地名』 平凡社 (291.034-11-27)
国史大辞典 4』国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館(210.03-71-4)
角川日本地名大辞典 26』「角川日本地名大辞典」編纂委員会編. 角川書店(291.03-62-26.1)
日本史大事典 2』 平凡社 (210.03-84-2)

NHK「みんなのうた」の放送開始はいつか。

NHK「みんなのうた」は1961年4月3日から放送が開始されました。選曲は“子どもの歌”にとらわれず、広く一般に愛唱されている「おとなの歌」から、子どもが理解し、好むもの、 家族そろって歌えるもの、という新しい考え方のもとに行なわれました。初期に選曲されたものとして「おお牧場はみどり」「森へいきましょう」「かあさんの歌」「ドレミの歌」 「ちいさい秋みつけた」などがあり、これらは子どもたちの愛唱歌となって、後に音楽教科書にも掲載されるようになりました。 第1回放送は「おお牧場はみどり」歌唱は東京少年合唱隊です。
◆出典・参考資料
20世紀放送史 年表』 日本放送協会編 日本放送協会 (699.2-ニホン)
文芸春秋 』69巻8号(1991年7月号)所収「「みんなのうた」30年」』 (050-フンケ-Z)

長崎県川棚の魚雷艇部隊、震洋隊に関する資料がありますか。

震洋特攻隊に関する図書は、本館の戦争体験文庫のコーナーにあります。それらの本の中には川棚臨時魚雷艇訓練所についての記述もあります。確認できたものは、以下のとおりです。
消えない傷跡 第一〇六震洋 納谷部隊史』 鳴海宏編集責任 一〇六震洋会 (397.3-1202)
回想薄部隊 : 海軍第二十震洋特別攻撃隊』 薄会編 薄会 (397.5-1602)
青い航跡 香港の震洋隊』 桜井武著 桜井武 (396.7-4902)
魚雷艇学生』 島尾敏雄著 新潮社 (913.6-1520)
還らざる特攻艇』 益田善雄著 鱒書房 (391.2-1525)
渡辺部隊の思い出集 : 第三六震洋特攻隊』 清瀧芳郎, 菅澤和泉編 出版者不明(916-1525)
少年特攻震洋顛末記』 近松褒孝著 三重空廿期会(391.2-1625)
魚雷艇の二人 : 若き同期の桜の生涯』 志賀博著 光人社(397.2-1527)
黒潮にさく浜木綿の墓標 : 震洋特攻論』 竹澤勉編著「黒潮にさく浜木綿の墓標-震洋特攻論-」刊行会 (916-1900)
一般開架にも、以下の資料があります。
日本特攻艇戦史 : 震洋・四式肉薄攻撃艇の開発と戦歴』 木俣滋郎著 光人社(393.2-123)
そのほかにも、「特攻隊」について書かれた本を、戦争体験文庫の124番書架に集めています。

ハイポコースト(hypocaust)という、ローマ時代の床暖房について資料(構造図などを含め)を探している。

ハイポコーストは、カン(中国)やオンドル(韓国)とよく似ています。 相違点は、ヨーロッパの住宅に普及しなかったことと、カンやオンドルのように床下方に排ガスを回すだけでなく、周囲の壁の中を通してから煙突に出すことであると『ストーブ博物館』 (新穂栄蔵編)p.48~50に説明がされています。さらに、3点の図版も掲載されています。
また、『フォーブス古代の技術史 上巻 金属』p.616~639に、「9.5ローマのハイポコースト」の項、「9.6ハイポコーストの考察と実験」の項があり、炉の構造、床、配管について かなり詳しい記述があります。  
◆出典・参考資料
ストーブ博物館』  新穂栄蔵著 (528.2-5)
フォーブス古代の技術史 上』 R.J. Forbes著 朝倉書店 (502-フォフ)

雅楽「胡蝶の舞」の衣装を見たい。カラーの写真があるとなお良い。

『雅楽壱具』のp.184~187にカラー写真があります。前半の2ページに実際の舞姿のシーンを掲載し、後半の2ページで装束を掲載していて衣装がよくわかります。 他にも『雅楽 : 伝統とその意匠美』のp.81に袍と袴の写真、『雅楽』(別冊太陽)のp.66に舞姿、p.128に参考写真が、 『東儀秀樹の雅楽』p.29に舞姿、p.25にイラストが掲載されていて参考になります。  
◆出典・参考資料
雅楽壱具』  林陽一写真/東儀俊美[ほか]執筆 東京書籍 (768.2-ハヤシ)
雅楽 : 伝統とその意匠美』 宮内庁三の丸尚蔵館編 宮内庁 (768.2-シハス)
雅楽』 (別冊太陽)  平凡社 (768.2-カカク)
東儀秀樹の雅楽』 小野幸恵著 岩崎書店 (768-トウキ)

梅の木で作られた家具調度や建物を見たことがないが、梅材の用途を知りたい。

以下の文献に梅の利用についての記載があります。これらの文献によると、木の姿から大きい材はとれないが、紅褐色がかった堅い緻密な材なので細かい彫刻をする細工物の材料に用いられるとあり、 用途としては、床柱、櫛、念珠、そろばん玉、将棋の駒、箸、工具の柄、盆などの漆器木地、印材、根付けなどがあげられています。  
◆出典・参考資料
木の大百科』(解説編・写真編)  朝倉書店(652.7-20-1~2)
木と日本人 : 木の系譜と生かし方』 上村武著 学芸出版社(653.2-ウエム)
原色木材大図鑑』貴島恒夫[ほか]著 保育社(657-3)

江戸時代の歌舞伎役者、芳沢あやめの言ったことを集めた「あやめくさ」を探しています。

『歌舞伎事典』によりますと、「あやめぐさ」は元禄期の女方芳沢あやめ(初世1673-1729)の晩年の芸談二十九ヶ条を記録したもので、明和8年『新刻役者綱目』の付録として刊行され、 安永5年に『役者論語(やくしゃばなし)』に再録されたとあります。舞台と日常生活における女方の心得を説き、当時の歌舞伎の演技を知るうえでも貴重な文献とされています。 『歌舞伎事典』には収録文献として『日本古典文学大系 歌舞伎十八番集』が挙げられています。また『国書総目録』で調べますと分類:歌舞伎、著者:福岡弥五四郎、成立:享保頃とあり、 活字本では以下の図書が挙げられています。岩波文庫『役者論語』、『歌舞伎叢書 新刻役者綱目』、『新群書類従 三』『随筆文学選集 四』『役者論語』(守随憲治、昭和二九)。
Webcat Plus(国立情報学研究所データベース)で検索すると、『アジアの芸術論 : 演劇理論集』にも収録されており、本文に合わせ、解説が付され、成立、作者、内容、意義が記されています。  
◆出典・参考資料
役者論語』(別書名:やくしゃばなし)(岩波文庫) 八文舎自笑編 守隨憲治校訂 岩波書店2003(080-12-1.266.1)
アジアの芸術論 : 演劇理論集』 永井啓夫, 宮尾慈良編 勉誠社 (770.4-ナカイ)
日本古典文学大系 歌舞伎十八番集』郡司正勝校注 岩波書店(918-7-98)
隨筆文學選集』楠瀬恂編輯 書齋社 (081-4-4)
歌舞伎叢書』金港堂編輯部 [編]  金港堂 (774-18)
新群書類従』國書刊行會 [編]  國書刊行會 (081.5-4-3)
国書総目録』岩波書店 (025.1-33-1)
Webサイト
Webcat Plus(国立情報学研究所)

タバコの喫煙率の変化を知りたい。

毎年厚生労働省が行っている「国民健康・栄養調査」により、各年齢階級別の喫煙率が男女別でわかります。 喫煙の状況(毎日吸う、時々吸っているなど)についても調査されています。資料『国民健康・栄養調査報告』(平成16年以前は『国民栄養の現状』)の各年次をご覧ください。 JT(日本たばこ産業株式会社)が行っている「全国たばこ喫煙者率調査」もあり、JTのホームページでご覧いただけます。また両統計結果については、 厚生労働省のホームページ「たばこと健康」で、年次をおって見られるようになっています。
海外の喫煙率については、『たばこがやめられる本』p9に1976~1987年の「先進諸国の喫煙率」のグラフが掲載されています。2002年WHO(世界保健機関)発行の 『WHO tobacco atlas』にも喫煙率が掲載されています。WHOのホームページからダウンロードも可能です。
 
◆出典・参考資料
国民健康・栄養調査報告』 健康・栄養情報研究会編 第一出版(498.55-ケンコ)
国民栄養の現状』 厚生省公衆衛生局栄養課編 第一出版(498.53-10-1から498.53-10-32)
<Webサイト> 
「2006年「全国たばこ喫煙者率調査」男女計で26.3%」(JT News release 2006年11月22日) (最終アクセス 2007/10/18)
「統計情報」(「たばこと健康-厚生労働省の最新たばこ情報」のページ) (最終アクセス 2007/10/18)
「WHO tobacco atlas」 (最終アクセス 2007/10/18)

シャーロックホームズといえばイギリスを舞台にした物語であり、イギリスと言えば紅茶だが、シャーロックホームズと紅茶について書かれた資料はないか。

『シャーロック・ホームズ大事典』の「コーヒー」および「紅茶」の項に記述があります。この資料によると、ホームズが活躍していたイギリスのヴィクトリア時代には、 すっかり紅茶は定着していますが、ホームズは朝食や外出時にはおおむねコーヒーを飲んでおり、コーヒー好きであろうとされています。 とはいえ、やはり舞台が紅茶の国、イギリスですので、何度か紅茶を飲むシーンがあり「紅茶」の項でそのシーンが紹介されています。 ホームズが自らワトスンを紅茶に誘っているシーンもあるようです。
『シャーロック・ホームズとお食事を』では、"おそらくこのような食事をしていたであろう"メニューとレシピが収められています。
 
◆出典・参考資料
シャーロック・ホームズ大事典 』 小林司, 東山あかね編 東京堂出版 (930.268-トイル)
シャーロック・ホームズとお食事を : ベイカー街クックブック 』 ジュリア・カールスン・ローゼンブラット, フレドリック・H・ソネンシュミット共著 堀切大史 [ほか] 共訳 東京堂出版 (596.23-ロセン) 

「ありあけの」「すぎの」「あらしのやま」が入っている歌が知りたい。

図書情報館では『新編国歌大観CD-ROM』がPC利用席のどの席でも利用できるようになっています。 『新編国家大観CD-ROM版』には検索方法として句検索、語彙検索、歌集・歌番号検索があります。今回は質問された方の記憶をたよりに検索方法のうち語彙検索で検索して調べることにしました。 検索した結果、建仁元年八月十五日の撰歌合(せんうたあわせ)に収録されている「又たうひ あらしの山の ふもと寺 杉のいほりに ありあけの月」がわかりました。
 
◆出典・参考資料
『新編国歌大観, CD-ROM版Ver.2 [機械可読データファイル]』 新編国歌大観編集委員会監修/角川書店 [ほか] 製作・製作協力. 角川書店 (911-シンヘ-DA)

「教育に関する戦時非常措置方策」という法律を知りたい。

図書情報館では『LexisNexis JP』という法律関係のオンラインデータベースを導入しています。 質問者が法律とおっしゃったので、念のため、このデータベースで確認しましたが、ありませんでした。 そこで法律ではないと考え、一度インターネットのサーチエンジンgoogleで「教育」と「戦時非常措置方策」というキーワードで検索してみました。 その結果、国立国会図書館が作成している「閣議決定等文献リスト及び本文」というWeb情報に全文が掲載されていることを確認しました。
 
◆出典・参考資料
Google (最終アクセス:2007/06/07)
閣議決定等文献リスト及び本文 (最終アクセス:2007/06/07)

足袋の作り方を知りたい。

『現代和服裁縫全書』p.486~489、『精説現代裁縫教授書』p.362~364、『裁縫の巻 (嫁入文庫:第2編)』p.283~285に図入りで書かれています。ただし、新しい出版のものには見受けられず、すべてが戦前か戦後すぐの資料です。大正時代の教科書『新編裁縫教科書 下巻』訂正再版にも作り方が載っています。また、インターネット上にも作り方を書いた個人のページがあるようです。
 
◆出典・参考資料
現代和服裁縫全書』 大妻コタカ著 女子教育社 (593-22)
精説現代裁縫教授書』 吉村千鶴子著 東京裁縫研究會出版部 (375.5-10)
裁縫の巻』(嫁入文庫:第2編) 喜多見さき子著 實業之日本社 (593.1-2)
新編裁縫教科書 下巻』訂正再版 今村順子著 目黒書店/成美堂書店 (375.9-0000)

海外に流出した日本の美術品のリストはないか。

『在外日本の至宝 全10巻+別冊』は、美術品の種類別に作品のカラー写真図版があり、各巻、巻末の作品解説および作品目録(欧文)でリストとして見ることができます。『日本美術の流出』では、p.220~225に「欧米市場における日本美術品の価格」の項があり、18世紀から1970年代までの、欧米で一定以上の価格のものについて、作品名、場所、価格が時系列に掲載されています。また、p.226~231に、「日本美術流出年表」があり、おもな作品・コレクションの動きや関連事項(展覧会など)がわかります(この資料は、『別冊太陽 21号』『浮世絵芸術 24号』などの雑誌、新聞に掲載されたものに、大幅な加筆、修正を加えてまとめたもの)。他に、『海外へ流出した秘宝』(別冊太陽 日本のこころ21)も参考になります。
 
◆出典・参考資料
仏教絵画』(在外日本の至宝 第1巻) 柳澤孝責任編集 ; 秋山光和 [ほか] 執筆 毎日新聞社(708.1-10-1)
絵巻物』(在外日本の至宝 第2巻) 秋山光和 [ほか] 執筆 毎日新聞社 (708.1-10-2)
水墨画』(在外日本の至宝 第3巻) 島田修二郎責任編集 ; 赤沢英二 [ほか] 執筆 毎日新聞社 (708.1-10-3)
障屏画』(在外日本の至宝 第4巻) 武田恒夫責任編集 ; ベティーナ・ガイガー=クライン [ほか] 執筆 毎日新聞社 (708.1-10-4)
琳派』(在外日本の至宝 第5巻) 山根有三責任編集 ; 河野元昭 [ほか] 執筆 毎日新聞社 (708.1-10-5)
文人画・諸派』(在外日本の至宝 第6巻)  辻惟雄責任編集 ; 赤沢英二 [ほか] 執筆 毎日新聞社 (708.1-10-6)
浮世絵』(在外日本の至宝 第7巻) 楢崎宗重責任編集 ; 菊地貞夫 [ほか] 執筆 毎日新聞社 (708.1-10-7)
彫刻』(在外日本の至宝 第8巻) 倉田文作責任編集 ; 上原昭一 [ほか] 執筆 毎日新聞社 (708.1-10-8)
陶磁』(在外日本の至宝 第9巻)  林屋晴三責任編集 ; 赤沼多佳 [ほか] 執筆 毎日新聞社 (708.1-10-9)
工芸』(在外日本の至宝 第10巻)  北村哲郎責任編集 ; 小川盛弘 [ほか] 執筆 毎日新聞社 (708.1-10-10)
解説資料編』(在外日本の至宝 別冊)  毎日新聞社 (708.1-10-B)
日本美術の流出』 瀬木慎一著 駸々堂出版 (707.9-20)
海外へ流出した秘宝』(別冊太陽 日本のこころ21) 平凡社 (702.1-ススキ)

丹羽文雄の作品『蘇生の朝』を見たい。『父・丹羽文雄介護の日々』のp.33に記述がある。

当館所蔵の『父・丹羽文雄介護の日々』p.33を確認したところ、確かに『蘇生の朝』についての記述がありました。そこで所蔵している文学全集や丹羽文雄の年譜等を調査しましたが、見つけられませんでした。インターネットの検索により四日市立図書館に丹羽文雄記念室があることがわかったので、同室に問い合わせてみたところ、当館所蔵の『中央公論. 文芸特集.』5巻1号に記載されていることが確認できました。
(なお、2006年11月16日で四日市立図書館の丹羽文雄記念室は閉室しました。)
 
◆出典・参考資料
父・丹羽文雄介護の日々』 本田桂子著 中央公論社 (910.28-894) p.33
中央公論. 文芸特集』 5巻1号通号14号 中央公論社 (910-チユウ-Z) p.36-51
<Webサイト> 
四日市立図書館 http://www.city.yokkaichi.mie.jp/library/(最終アクセス 2007/2/6)

検定教科書ではなく、昔の国定教科書で吉野山へ行ったことを記述している国語の教科書はあるか。

国定教科書ということなので、『国語』 (「日本教科書大系 : 近代編」)を確認したところ、第7巻の第二期国定教科書の中に記載されていました(p.196-197)。また第8巻の第四期国定教科書の中にも記載がありました(p.155-156)。
なお、第二期国定教科書と第四期国定教科書では内容が異なっています。
 
◆出典・参考資料
国語 4』 (日本教科書大系 / 海後宗臣, 仲新編 ; 近代編 第7巻) 講談社 (370.8-9-7)
国語 5』 (日本教科書大系 / 海後宗臣, 仲新編 ; 近代編 第8巻) 講談社 (370.8-9-8)

江戸時代の料理で「輪違い大根」の作り方が載っている本があるか。

「輪違い大根」は江戸期の「見立て」という飾り包丁の技法を駆使したもので、一本の大根から知恵の輪のような連環を作り出すことができます。
江戸期の料理を調べることのできる資料として『日本料理秘伝集成 : 原典現代語訳』がありますが、これに収載されている「大根料理秘密一式箱」「諸国名産大根料理秘伝抄」に輪違い大根の作り方が図とともに現代語訳で紹介されています。
 
◆出典・参考資料
百珍 2』(日本料理秘伝集成 : 原典現代語訳 第10巻)  柳原敏雄編 同朋舎出版 (596.1-78-10)
「大根料理秘密一式箱」 著者不記 京都 西村市郎衛門他 天明5年(1783)
「諸国名産大根料理秘伝抄」 器土堂主人 京都 西村市郎衛門 天明5年(1783)

外国の学校給食について、できるだけ献立や写真が載っているものを見たい。

外国の給食についてまとめて書かれた資料は少なく、少々古いですが、『CLAIR REPORT』の88号(1994)「アメリカの学校給食」に歴史や制度、メニューについて、1998年刊『なつかしの給食献立表』p.206-215に韓、米、英、仏4カ国の給食事情の調査が記載されています。
比較的新しいものでは、『世界の中学生』シリーズに中国、フランス、韓国の、『世界の子どもたちはいま』シリーズに中国、フランス、韓国、タイ、スペイン、ベトナムの給食事情やメニューがカラー写真とともに見開きで紹介されています。また、雑誌『食生活』(2006.11)に「韓国の学校給食の現状」と題した報告が収載されています。
 
◆出典・参考資料
「アメリカの学校給食」(『CLAIR REPORT』88号) 自治体国際化協会 (310-クレア-Z)
なつかしの給食献立表』 アスペクト編集部編 アスペクト (374.95-7)
中国の中学生』(世界の中学生1) 学習研究社 (370-セ-1)
フランスの中学生』(世界の中学生3) 学習研究社 (370-セ-3)
韓国の中学生』(世界の中学生8) 学習研究社 (370-セ-8)
中国の子どもたち』(世界の子どもたちはいま1) 学習研究社 (302-ニシム)
フランスの子どもたち』(世界の子どもたちはいま2) 学習研究社 (302-ニシム)
韓国の子どもたち』(世界の子どもたちはいま4) 学習研究社 (302-ニシム)
タイの子どもたち』(世界の子どもたちはいま7) 学習研究社 (302-ニシム)
スペインの子どもたち』(世界の子どもたちはいま13) 学習研究社 (302-ニシム)
ベトナムの子どもたち』(世界の子どもたちはいま16) 学習研究社 (302-ニシム)
金田雅代「日韓で始まった食育強化「栄養教諭制度」と「栄養教師制度」 (1)韓国の学校給食の現状」(『食生活』第100巻11号) 国民栄養会 (590-シヨク-Z)

竹で作る虫かごを作りたい。作り方が載っている本や参考になる本はあるか。

竹ひごとダンボールを使って作る虫かごの作り方が『使うもののくふう』(くふうする工作教室:13)のp.24-25に載っています。また『日本の伝統産業 物産編』p.351には写真が掲載されています。ほかにも虫かごそのものではありませんが、竹かごなどの作り方を記述した資料がいくつかあります。インターネット情報では「駿河竹千筋細工虫籠(するがたけせんすじざいくむしかご)」のページに虫かごの写真や作り方が掲載されており、下記資料とともに参考にすることができます。
 
◆出典・参考資料
使うもののくふう』(くふうする工作教室:13)  堂本保著 誠文堂新光社 (750-ト)
日本の伝統産業 物産編』 日本伝統産業研究所 [ほか] 編 通産企画調査会 (602.1-40-2)
竹細工・木工細工をつくろう』(はじまりのもの体験シリーズ3) 宮内正勝監修 ; 田部定信[ほか]編 リブリオ出版 (754-ミヤウ)
竹は無限無限の竹 : 竹の手仕事人がつづる』 小出九六生著 オフィスエム (754.7-コイテ)
図説竹工入門 : 竹製品の見方から製作へ』 佐藤庄五郎著 共立出版 (754-11)
消える篭職人 : 竹編みの手業』 吉羽和夫著 玉川大学出版部 (754-14)
<Webサイト> 
駿河竹千筋細工虫籠 http://www.surugaya.com/sensuji/sakuhin/musikago/take.musikago.htm(最終確認:2006/12/15)

メソポタミア文明で使われていた楔形文字は、当初縦書きだったのがいつの頃からか横書きになったそうです。その理由を知りたい。

『古代文字』 (グラフィック社)には、縦書きから横書きになった理由について「しばらく議論がつづいたが、大かたのところ小さな粘土板の場合は、はすかいに持って縦書きすることが便利だったけれども、大きなものは手に持つというわけにはいかず、いきおい立てかけて書くということになってその場合、手を動かしやすい横書きが生まれたのであろうという説に落ちついている。」という記載があります。
また『文字の世界史』(河出書房新社)には、楔形文字の縦書きは紀元前2000年紀末まで見られ、縦書きから横書きへ、左から右へ書くように移行した、と記載されています。
 
◆出典・参考資料
古代文字』 日向数夫編 グラフィック社 (801.1-13) p.92-93
文字の世界史』 ルイ=ジャン・カルヴェ著 ; 会津洋, 前島和也訳 河出書房新社 (801.1-24)

ドッグフード等の成分表に記載のある「粗タンパク」「粗繊維」「粗脂肪」は普通の蛋白質、繊維、脂肪とどのように違うのか。

『新畜産ハンドブック』や『新編畜産用語辞典』に詳しく記述されています。
飼料成分は、水分、粗タンパク質、粗脂肪、粗繊維、粗灰分、可溶無窒素物(NFE)の6成分で表示することが一般的で、これらを飼料の一般成分あるいは6成分と呼び、それぞれの成分含量は%で表示されることになっています。
1)粗タンパク質は、飼料中の窒素をケルダール法によって定量し、それに6.25を乗じた値で、タンパク質の他にアンモニア、アミド、アミノ酸などが含まれます。
2)粗脂肪は、乾燥飼料を16時間エチルエーテルで抽出して得られる抽出物のことで、中性脂肪のほかに、脂肪酸、高級アルコール類、色素類、樹脂類が含まれます。
3)粗繊維は、飼料を希硫酸と希苛性ソーダで連続的に煮沸処理して得られる残りの有機物部分で、結晶性のセルロースを構成要素とする総繊維の一部です。
 
◆出典・参考資料
新畜産ハンドブック』 扇元敬司 [ほか] 編 講談社 (640.3-6)
新編畜産用語辞典』 日本畜産学会編 養賢堂 (640.33-ニホン)

昭和3,4年頃、小学校の教科書でリア王の物語を読んだ記憶がある。載っていた教科書を見たい。

『国語4』(日本教科書大系 近代編 第7巻) p.159に「尋常小学国語読本 巻十二 目録 第十四課 リア王物語」と記載されています。そこで、『尋常小学国語読本 巻12』を調べると、p.65から「リア王物語」が収録されていました。 また、『国語5』(日本教科書大系 近代編 第8巻) p.206には「小学国語読本 巻十二 目録 第十九 リア王」と記載されており、p.242から「リア王」が収録されています。さらに、『小学国語読本 巻12』p.135にも「リア王」が収録されています。
題名は異なりますが、「リア王物語」と「リア王」の記載内容は同一であると確認できましたので、『尋常小学国語読本 巻12』『国語5』『小学国語読本: 尋常科用 巻12』 いずれの資料を見ていただいても良いと思います。
 
◆出典・参考資料
国語 4』 (日本教科書大系 / 海後宗臣, 仲新編 ; 近代編 第7巻) 講談社 (370.8-9-7)
尋常小学国語読本 巻12』 文部省著 秋元書房 (375.9-79-12)
国語 5』 (日本教科書大系 / 海後宗臣, 仲新編 ; 近代編 第8巻) 講談社 (370.8-9-8)
小学国語読本 : 尋常科用 巻12』 文部省著 秋元書房 (375.9-80-12)

通常のわき水より、量の少ないわき水の呼称を知りたい。

『水の百科事典』p.713 湧水の項には、湧泉・泉・清水の別称が記載されていますが、湧き出す水の量によって呼称が違うといった記述はありません。
『水の自然史』p.34には、「陸地では、地下水面が地表に達している場所で、地下水が浸漏や湧水としてあらわれている。浸漏と湧水とのはっきりした区別はない。浸漏では水はゆっくりにじみでるのに対して、湧水は勢いよくわきでるが、どちらともとれる速度でしたたり落ちることもある。」と記述されています。
 
◆出典・参考資料
水の百科事典』 高橋裕 [ほか] 編 丸善 (452.9-27)
水の自然誌』 E.C.ピルー著 ; 古草秀子訳 河出書房新社 (452.9-ヒル)

「べんがら色」とはどんな色か。

当館所蔵の複数の色の事典によりますと、「赤味にわずかに茶色がかった色」「酸化第二鉄を主成分とする黄色みを帯びた赤色顔料ベンガラを、塗料・染料などとした色。暗い黄みの赤。」「インドのベンガルに由来する赤茶。」などの記述があり、いずれも色見本が示されています。
『草木染日本色名事典』では「弁柄色べんがらいろ(江戸)・紅殻色べにがらいろ(江戸)」「酸化第二鉄を主成分とする赤色の顔料紅殻の色をいい、江戸時代には藍染の型染などの中に部分的に赤色として染め加えられている。茶味の紅赤色。」とあり、草木染に使った色見本の材料、媒染も記述されています。
 
◆出典・参考資料
色の手帖 : 色見本と文献例とでつづる色名ガイド』 尚学図書・言語研究所編 小学館 (757-71)
日本の色辞典』 吉岡幸雄著 紫紅社 (757.3-ヨシオ)
ザ・カラー : 色と配色の事典』 渋川育由, 高橋ユミ著 河出書房新社 (757-91)
草木染日本色名事典』 山崎青樹著 美術出版社 (753.8-16)

『河上肇詩集』に引用されている「水色玉よりも清く 緩流滑かにして膏に似たり 老樹斜橋のほとり 人ありて彩毫を染む」の「膏」と「毫」の読みを知りたい。

○膏(あぶら) ○彩毫(さいごう)
『河上肇詩注』は河上肇の漢詩作品のほぼすべてを紹介し、成立の背景にも触れたやや詳しい注が付されています。当該の詩については p.169~170に原詩と読み下し文が収載され、注に○膏―あぶら ○彩毫―さいごう。絵筆。彩毫を染むは、絵をかくこととの記載があります。
 
◆出典・参考資料
河上肇詩注』 一海知義著 岩波書店 (081-10-25)

子どもの野外活動の安全対策のマニュアル関連資料はないか。

『自然体験活動中の安全対策』にフィールドでの安全管理の実際について対処法が図入りでわかりやすく記述されています。『ボーイスカウト・フィールドブック』には危険を防ぐ方法(7章「健康・衛生・安全」p137~152)と救急法(8章「野外救急法」p153~200)、『自然野外遊び』の「野外での自然観察と安全確保術」p104~145には方位や天気を知る方法や道に迷ったときの対策、『冒険図鑑』には「危険との対応の章(p.320~p.352)高学年~中学生向き」がそれぞれ記載されています。ほかにも多数関連資料があります。
 
◆出典・参考資料
自然体験活動中の安全対策』 野外安全対策研究会, 国立オリンピック記念青少年総合センター編 国立オリンピック記念青少年総合センター (379.3-28)
ボーイスカウト・フィールドブック』 改訂版 ボーイスカウト日本連盟著 朝日ソノラマ (786-ホイス)
自然野外遊び』 タウンネイチャー研究会編 池田書店 (786-89)
冒険図鑑 : 野外で生活するために』 さとうち藍文 ; 松岡達英絵 福音館書店(780-サ)
アウトドア救急ハンドブック』 小学館(598-57)
子どもたちには危険がいっぱい : 自然体験活動から「危険を見ぬく力」を学ぶ』 村越真著 山と渓谷社 (374.92-ムラコ)
野外教育入門』 星野敏男 [ほか] 編著 小学館 (379.3-17)
レスキュー・ハンドブック』 藤原尚雄, 羽根田治著 山と渓谷社 (786-43)  ほか

川や橋の名前が載っている江戸時代の江戸の地図がみたい。

江戸時代の切絵図には橋の名前まで載っているものが散見されます。オンラインデータベース「Japan Knowledge」内の「江戸明治東京重ね地図」では広い範囲、それも同じ範囲の地図を江戸時代、明治時代、現代と時代ごとに比べてみることができます。『江戸城下変遷絵図集』でも同じ地図を年代別に確認することができますが、小範囲ごとにページが分かれているので、広範囲を見るには不向きかもしれません。
その他、『江戸東京大地図』、『地図で読む江戸時代』、『江戸切絵図』などがあります。
 
◆出典・参考資料
『江戸明治東京重ね地図』(オンラインデータベース「Japan Knowledge」内)
江戸城下変遷絵図集 1~20』 幕府普請奉行編 原書房 (291.36-ハクフ)
江戸東京大地図 : 地図でみる江戸東京の今昔』 平凡社 (291.36-50)
地図で読む江戸時代』 山下和正著 柏書房 (291.038-114)
江戸切絵図』 浜田義一郎編 東京堂出版 (291.038-96)

人力飛行機で海峡に初めて渡った人と年代が知りたい。

『平凡社大百科事典 第7巻』の「人力飛行機(じんりょくひこうき)」の項目や『人力で動く乗り物』のp.74に、1979年、ゴサマー・アルバトロス号という人力飛行機で距離35.812キロメートル、時間2時間49分の記録でイギリス海峡横断したことや、パイロットはブライアン・アレンであることが記載されています。
 
◆出典・参考資料
人力で動く乗り物』 ロジャー・イェプセン著 ; 松岡淳一訳 さ・え・ら書房 (680-い)p.74
平凡社大百科事典』 平凡社 (031-487)の「人力飛行機」の項目

大韓航空機がソ連に撃墜された年月日(また午前か午後か)と乗っていた人数を知りたい。

インターネットのサーチエンジンで「大韓航空機」「ソビエト」「撃墜」などのキーワードで検索したところ、1983年9月1日に、当該事件に関するwebページが確認できました。そこで、当館資料にもとづいて事実を確認するため、『日本経済新聞縮刷版』で1983年の9月分を調べたところ、該当記事が記載されていました。記事によると日本時間で1983年9月1日の午前、乗っていた人数は269人(乗客240人、乗員29人)です。
 
◆出典・参考資料
日本経済新聞縮刷版』 1983年9月 日本經濟新聞社編 中央産業經濟研究所 (070-ニホン-Z) 2日1面

大正時代に売られていたカブトビールについて知りたい。

「カブトビール」は明治32年、愛知県半田の丸三麦酒株式会社で醸造、発売されました。
その前身は明治20年に開業した丸三麦酒醸造所で、「丸三ビール」を発売し、第4回勧業博覧会にも出品されたということです。明治29年に丸三麦酒株式会社と改組されて、新式醸造機械を購入しドイツ人技師を雇い入れてドイツ式の醸造を行い、「カブトビール」として発売しました。「カブトビール」は明治33年のパリ万国博覧会では金牌を受賞するなど好評を博したことから急成長を遂げ、明治から大正にかけて当時のエビス、キリン、アサヒ、サッポロなどと並ぶ有力なブランドであったということです。丸三麦酒株式会社は日本第一麦酒株式会社となり、さらに明治41年加富登(加武登)麦酒株式会社に改称されました。
当時の広告にはトレードマークとして兜の図が掲載されています。
また愛知県半田市には、カブトビール製造工場が明治の赤煉瓦建築として残されています。
 
◆出典・参考資料
Asahi 100』 アサヒビール株式会社社史資料室編 アサヒビール (588.54-6)
麒麟麦酒の歴史 戦後編』 麒麟麦酒株式会社社史編纂委員会編 麒麟麦酒 (588.54-2)
サッポロビール120年史 : since 1876』 サッポロビール株式会社広報部社史編纂室編 サッポロビール (588.54-11)
 
<Web関連サイト> 
赤煉瓦倶楽部半田ホームページ http://www.akarenga-handa.jp/beer_index.html
半田市公式ホームページ http://www.city.handa.aichi.jp/kikaku/shigoto/akarenga/kabuto.shtml
<雑誌記事データベース NICHIGAI-WEB MAGAZINEPLUS> 
「カブトビール」で検索すると下記の文献があります。
「明治40年、カブトビール青森宣伝隊」(グラビア) 週刊新潮 [ISSN:0488-7484] 44(25) 1999.7.1 p164
「旧カブトビ-ル創業時の工場とその醸造技術について」 山本貴志夫; 水野信太郎; 野口英一朗(他) 産業遺産研究(Journal of the Chubu Society for the Industrial Heritage) [ISSN:1340-7554] (中部産業遺産研究会,中部産業遺産研究会事務局) 3 1996.6 p31~58
「旧カブトビ-ル工場の遺構-愛知県下の近代産業建築の遺構について-1-」 畔柳武司; 竹内尊司 名城大学理工学部研究報告 [ISSN:0386-4952] (名城大学理工学部) 35 1995 p111~118

万葉集巻十八の大伴家持の長歌「海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば草蒸屍 大君の辺にこそ死なめ かえりみはせじ」が、軍歌になっているのはどういういきさつでそうなったのでしょうか。

昭和12年10月、日中戦争の最中、政府は「国民精神総動員強調週間」を設定しました。10月13日から1週間、ラジオは特別番組を組み、朝の「国民朝礼」と夜の「国民唱歌」の時間に「海ゆかば」を流しました。大伴家持の長歌「海ゆかば」に曲をつけたのは、東京音楽学校教授の信時潔(のぶとき きよし)で、行事期間のテーマ曲としてNHKが作曲を依嘱したものということです(JOBK大阪放送局の「国民歌謡」の一つとして発表されたとの記述もあり)。その後、この歌は国民精神の作興や戦意高揚のため度々放送され、兵士を戦場に送り出す時にも「愛国行進曲」とともに歌われました。太平洋戦争末期には、ラジオの大本営発表の臨時ニュースの冒頭に使われたということです。また「海ゆかば」は信時潔によって作曲されたものとは別に、明治13年に宮内省伶人であった東儀秀芳が海軍用に作曲したものがあります。
 
◆出典・参考資料
松本健一「海ゆかば 再び」(『発言者』第89号) 西部邁事務所 (050-ハツケ-Z)
信時潔』 新保Oy司著 構想社 (762.1-ノフト)
定本日本の軍歌』 堀内敬三著 実業之日本社 (767.6-3) p.304-305
日本のうた 軍歌編』 入方宏編 雪華社 (767.6-8) p.14-15
 
<Web関連サイト> 
多摩川誌 日中戦争下の国民生活 http://www.tamariver.net/jouhou/tamagawashi/topindex.html
ウィキペディアフリー百科事典 「海行かば」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%A1%8C%E3%81%8B%E3%81%B0

明治20年頃の大阪の町名がわかる資料はあるか。現在の天王寺区上本町付近について知りたい。

『大阪都市地図 明治前期・昭和前期』のp.92-95に「第3部 5千分の1図」があり、1890(明治23)年と1931(昭和6)年の地図が対照できます。また、大阪市の町名の変遷は『大阪の町名 大坂三郷から東西南北四区へ』のp.344-346にも記載がありますので、そこで確認することができます。
 
◆出典・参考資料
大阪都市地図 明治前期・昭和前期』 清水靖夫編 柏書房 (291.63-53)
大阪の町名 大坂三郷から東西南北四区へ』 大阪町名研究会編 清文堂出版 (291.63-28)
大阪府全志 巻之1~5』 井上正雄著・発行 (216.3-12~16)

古典落語の「三十石船」の噺が載っている資料はあるか。

古典落語の「三十石船」の噺と言われるのは、「三十石」、別名「三十石宝の入船」、「三十石夢の通い路」、「三十石浮かれの舟歌」などと呼ばれた噺のことだと思われます。「三十石」は江戸時代、大阪で作られた噺ですが、三遊亭圓生の十八番として知られています。当館所蔵の『古典落語』第4巻p.29-56に、三遊亭圓生の「三十石」の噺が掲載されており、「三十石」の噺の成立等についての解説も付いています。
 
◆出典・参考資料
落語事典』 増補 東大落語会編 青蛙房 (779.13-トウタ)
落語ハンドブック』 改訂版 山本進編 三省堂 (779.13-28)
古典落語 第4巻』 飯島友治編 筑摩書房 (913.7-56-4)

遺伝子の「子」はなぜ「子」というのか。

白川静著『字通』「子」の項に微小なもの、微小なものの名の下につける接尾語とあります。また、『平凡社大百科事典』「遺伝子」の項に、英語の「gene」に対し、日本で「遺伝子」という語をあてるようになったのは1936~37年頃、1937年の田中義麿著『遺伝学』(再版)に初めて登場したとあります。
なお、『遺傳學』田中義麿著、裳華房(1934年)にも関連記述があります。
 
◆出典・参考資料
字通』 白川静著 平凡社 (813.2-44)
平凡社大百科事典』 平凡社 (031-48-1)
遺傳學』 田中義麿著 裳華房 (467.7-2)

「月づきに月みる月は多けれど月みる月はこの月の月」 この歌の作者を知りたい。

国歌大観、歌学大系、校注国歌大系、短歌、狂歌の辞典類の検索では見つけられませんでした。国文学研究資料館に問い合わせたところ、『夏山雑談』に収録されているこ とがわかりました。『夏山雑談』は、おもに有職故実に関する事柄を聞き書きしたもので、この歌の作者は不詳ということです。『日本随筆大成 第2期20』に収録されており、p.295に該当の歌があります。
「月づきに月みる月はおおけれど月みる月はこの月の月」
 
◆出典・参考資料
日本随筆大成 第2期20』 寺門静軒ほか著 吉川弘文館 (081-46-2.20)
日本古典文学大辞典 4』 日本古典文学大辞典編集委員会編 岩波書店 (910.33-12-4)

銃砲兵第7連隊について詳しく書かれたものがないか。

『日本陸軍兵科連隊』によりますと、銃砲兵第7連隊は昭和19年5月3日に沖縄で編成、独立混成第四十四旅団に編合され沖縄で玉砕、とあります。『沖縄作戦の統帥』では独立混成第四十四旅団の動向は確認できるのですが、銃砲兵第7連隊までは記述されていませんでした。
インターネット上の情報では第三十二軍の主要部隊の一覧にも名が見えます。
また、沖縄県立図書館に照会したところ『沖縄方面陸軍作戦 』(戦史叢書 11) にも記載があるとの回答を得ました。同書は第三十二軍に関して詳述されており、その創設について書かれた第二章で沖縄守備隊の部隊のひとつに銃砲兵第7連隊の名を確認することができました。
 
◆出典・参考資料
日本陸軍兵科連隊』 新人物往来社 (396.2-3)
沖縄作戦の統帥』 大田嘉弘著 相模書房 (210.75-6)
沖縄方面陸軍作戦』 防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社 (390.8-2-11)
沖縄県史 10』, 『沖縄戦研究 ?U』 ほか

「スズキヘキ」という人物について、またその作品を知りたい。

『日本児童文学大辞典』に「鈴木碧(すずき へき)」の記載があります。また、『仙台児童文化史』に人物についておよび代表的な詩数編の紹介があります。
 
◆出典・参考資料
日本児童文学大事典』 大阪国際児童文学館編 大日本図書 (909.3-オ-1)
仙台児童文化史』 遠藤実著 久山社 (384.5-36-8)

己の下に大と書く字についてヨミ、意味を知りたい。「幕末維新大阪町人記録」に「"己大"国打拂」と出てくる。

「異」の異体字。
 
◆出典・参考資料
音訓引古文書大字叢』 林英夫監修 柏書房 (210.08-456)

2002年と2003年の祝日が知りたい。

毎年2月初日の官報に国立天文台の公表が掲載されています。
ただし、曜日の記載はありません。
『21世紀暦: 曜日・干支・九星・旧暦・六曜』を併せて見ると曜日もわかります。
 
◆出典・参考資料
内閣府ホームページ
官報
21世紀暦: 曜日・干支・九星・旧暦・六曜』 日外アソシエーツ (449.81-ニチカ)

教育に関する戦時非常措置方策という法律を知りたい。

当館の所蔵資料では確認できず、法律の公布ということで、官報を調べましたが見つかりませんでした。
インターネット上のサイトを「教育」「戦時非常措置方策」のキーワードで検索したところ、法律ではなく閣議決定であることがわかりました。国立国会図書館のホームページで、閣議決定等フルテキストデータを見ることができます。
http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00512.htm

金継ぎ(きんつぎ)・・・うるしを使った陶器の修理の仕方について書かれた本はないか。

『日本陶磁大辞典』(P425)には金繕い(金接ぎ)の簡単な説明があります。『やきもの修理法』に「金なおし銀なおし」として、漆を使ったものではありませんが、比較的簡単な修理法が紹介されています。
 
◆出典・参考資料
やきもの修理法』本多郁雄著 里文出版 (751.3-106)
角川日本陶磁大辞典』 角川書店 (751.1-ヤヘヨ)

「鯛のタイ」や大工さんの「三つ道具」といわれる鯛の骨について知りたい。

「鯛のタイ」は鯛の胸ひれの付け根にある肩帯を構成するいくつかの小骨で、烏啄骨(うかいこつ)といわれるものです。魚の形にも似ているので「鯛中鯛」と書いて「たいのたい」と読みます。「三つ道具」は鯛の頭部にある三つの骨の異称で、それぞれが三つの農具、鍬、鋤、鎌の形に似ているのでこの名がついたということです。
 
◆出典・参考資料
』(ものと人間の文化史 69) 鈴木克美著 法政大学出版局 (664.6-25)
釣りと魚のことわざ辞典』 二階堂清風編著 東京堂出版 (388.81-7)
<Webサイト> 
『海のはくぶつかん』1993年1月号 http://www.scc.u-tokai.ac.jp/sectu/kaihaku/umihaku/vol23/v23n1p4.html(最終確認:2007/1/14)

インドのダージリンヒマラヤ鉄道が日に何回出ているか知りたい。インターネットでは見つけられなかった。

インターネットの情報から、鉄道の世界遺産(文化遺産)として観光化されているらしいことがわかり、『地球の歩き方インド03-04』を調べてみました。
p.304の記述によると、「現在ニュージャイルバイグリとタージリンの間を1日2往復運転されている」とのことで、下記の時刻が記載されていました。
D発9:10→N着17:20、N発9:00→D着15:30 
ただし、運行については必ずインド政府観光局か東部鉄道予約事務所で確認のこととの注意書きがあります。
 
◆出典・参考資料
地球の歩き方インド03-04』改訂 「地球の歩き方」編集室編集 ダイヤモンド・ビッグ社 (290.9-111-2003D28)

1996年から2002年の1.為替レート(円-ドル)を知りたい。また、 2.米国におけるとうもろこしの平均販売額を知りたい。

1. については各年の『日本統計年鑑』国際統計の章に外国為替レート表があります。
2.については各年の『現代アメリカデータ総覧』農業の章に掲載があります。
 
◆出典・参考資料
日本統計年鑑』 総務庁統計局 (351-8-  )
現代アメリカデータ総覧』合衆国商務省センサス局編 原書房 (355-1-  )

満州の鉄道路線「濱洲線」の読み方を知りたい。

当館所蔵の満州鉄道関連の資料や地図では鉄道路線の読みはわかりませんでした。
インターネットの情報から、「濱洲線」は内蒙古自治区内で現在もハルビン-満洲里の重要な鉄道路線でロシアに通じる国際鉄道線として存在することがわかり、『ブリタニカ国際大百科事典』の「中国-交通」の項を調べてみました。
p.26下段に同様の記述があり、浜洲(ハルビン-満洲里)の路線に「ビンチョウ」とルビがふられていました。
 
◆出典・参考資料
ブリタニカ国際大百科事典』 第2版改訂 フランク・B.ギブニー編 ティビーエス・ブリタニカ (031-50-13)
満州分省地図 地名総覧』国際地学協会編 国書刊行会 (292.25-コクサ)
満鉄』(現代史資料), 『満州国旅行案内』,『満州鉄道まぼろし旅行』, 『図説満鉄』 ほか

尾崎久弥の没年を知りたい。(著作権の消滅による全文複写が可能か)

『昭和物故人名録』(昭和元~54年)に「尾崎久弥(おざき きゅうや)1890.6.28~1972.6.2 国文学者、近世庶民文学」との記述がありました。
没後50年を経ていないので全文複写はできません。
 
◆出典・参考資料
昭和物故人名録』 昭和元~54年 日外アソシエ-ツ (281.03-167)

「ゲーム理論」でノーベル賞を受賞した人について 1.名前の綴り 2.受賞年 3.功績を知りたい。 (既にわかっていること:統合失調症という精神の病がある。ゲームに参加している人の意思という不確定な要素についての理論なので数学ではないかと思う。)

1. 原綴りはNash,John Forbes,Jr.(Who's Who in the World)
2. 1994に受賞
3. 『現代外国人名録』によると、参加者の非協力を前提とした新たな分野でゲーム理論を発展させた功績により、ハーサニ博士、ゼルテン博士とともにノーベル経済学賞を受賞」とあります。
『ブリタニカ国際年鑑』1995にもやや詳しい功績が記載されています。
なお、伝記的な著作に『ビューティフル・マインド』があり当館でも所蔵しています。
 
◆出典・参考資料
ブリタニカ国際年鑑』1995 ティビーエス・ブリタニカ (059-17-14)
Who's Who in the World』 Marquis Who's Who (280.3-24-21)
現代外国人名録』 日外アソシエーツ (280.3-35-3)
ビューティフル・マインド:天才数学者の絶望と奇跡』 シルヴィア・ナサー著 新潮社 (289.3-ナサシ)