『氏名の誕生―江戸時代の名前はなぜ消えたのか』(ちくま新書)

作成者
尾脇秀和
出版者
筑摩書房
刊年
2021.4

「人の名は生涯を通じて一つ」「名前は親が思いを込めて決めたかけがえのないもの」という常識は、いつ頃できたのでしょうか。また、「(苗字を公称できなかった百姓・町人などが)明治政府によって苗字を名乗る自由を得た」という理解は正しいのでしょうか。この本の著者は、私たちがあたり前のことと思い込んでいる現在の「氏名」の常識が形づくられていく近世~近代移行期の歴史を、ていねいに説明してくれます。
 著者によれば、江戸時代には、年齢や地位の上昇に伴い改名するのは、あたり前のことでした。また、同一人物が一度に2つの身分を兼ね、身分ごとに2つの名前を使い分ける「壱人両名」という状況も無数にありました。このような、武士や庶民の名前の常識は、戦国時代の混乱期を経て形成され変化していったものだったので、もう一方には、京都の公家たちの、古代からの名前のあり方が正しいとする少数派の常識もあったといいます。
 江戸時代の名前の一般常識が、近代社会への移行の過程で変化を迫られていく道のりは、決して一直線ではありません。明治新政府は、古代天皇制への「復古」を掲げて政権を取ったという都合上、当初は、公家勢力にも忖度する必要がありました。現在の「氏名」が「国民管理」という都合に沿った形で成立するのは1872(明治5)年のことですが、それまでの政権担当者の右往左往ぶりは、実際にこの本でご確認ください。個人的には、著者が付言の形で、女性の「氏名」について、政府が1875(明治8)に「既婚女性は実家の「氏」を使用するように」という見解を示した例が紹介されているのも気になります。「昔から何も変わらない伝統・文化という幻想・思い込み、現代人の「常識」を前提・基準にして過去の事実を見つめる危うさ」という著者の言葉をかみしめたいと思います。