『これは水です : 思いやりのある生きかたについて大切な機会に少し考えてみたこと』

作成者
デヴィッド・フォスター・ウォレス著
出版者
田畑書店
刊年
2018.7

 アメリカの大学には、卒業式に有名人を招いて名誉博士号を授与し、その返礼にコメンスメント・スピーチ(祝辞)をしてもらう習慣があります。本書は、作家デヴィッド・フォスター・ウォレスがリベラル・アーツ・カレッジとして知られるケニオン・カレッジで2005年に行った生涯唯一のコメンスメント・スピーチの翻訳です。同年にアップルの創業者スティーヴ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で「Stay Hungry. Stay Foolish.」と締めくくったスピーチが有名ですが、後にタイム誌がコメンスメント・スピーチの第1位に選んだのは、ウォレスの方でした。
 “これは水です”とは、こうした卒業スピーチなどでよく使われる魚の寓話から来ています。その意味は、ありきたりな「一番大切なことは目に見えない」ということ。しかしウォレスは、このような常套句が実は社会人の生死を左右すると言います。そして、リベラル・アーツが物の考え方を教える教育であり、真に学ぶべきは何を考えるべきかを“選ぶこと”であると語ります。
 人は、自分が宇宙の中心であるという意識を持っています。ウォレスによれば、それが我々の初期設定であり、生まれながらにして自分の基盤に組み込まれているハードウェア。この徹底して自分中心になっている設定を、状況に応じて手直しするのが適応能力であり、物の考え方を学ぶことは、すなわち何をどう考えるかコントロールする術を学ぶことです。
 来る日も来る日も続く退屈・決まり切った日常・ささいな苛立ちに対して、初期設定のまま無意識まかせの思考法でいるのか、はたまた確固とした自意識を持って別の見方を選ぶのか。言い換えれば、自己中心的に何かにつけてイライラし、他人や社会を攻撃して無駄に神経をすり減らし続けるのか、あるいは様々な見方から自分が考えたいものを選ぶ(ウォレスの言葉を借りれば、思いやりと愛をもって消費文明の地獄のただ中に意味を見出す)のか。ウォレスは、後者こそが「本当の自由」であると言います。それを身につけて、銃で自分の頭を撃ち抜きたいと思わないようにすることが本当の価値であると。
 「物は考えよう」とも言いますが、初期設定ではなく選択できることに気づき、知識や経験によって考えの選択肢を増やすことにゴールはないでしょう。ウォレスが言うように、それは一生をかけた大仕事なのかもしれません。