「奈良県新聞略史」

 奈良県新聞史の大きな特徴としては、①欠史時代が多いことや②新聞社としての経営的基盤が脆弱で、現在まで続く新聞社がないことがあげられる。またその結果として③明治・大正・昭和戦前期といった古い時期の新聞をもっている所蔵館が散在することになったといえよう。本稿では、明治以降の奈良県の新聞史を略述しておこう。

 まず明治5年(1872)5月、奈良県で最初の新聞『日新記聞』が発行された。この新聞はいわゆる新聞の形態をとらず、縦22センチ、横15センチの木版刷りの小冊子で、月3回発行、各号とも16ページだて、1部の定価が200文であった。発行者は奈良油留木町の金澤昇平と東向北町の高橋平蔵で、日新報社(のち日新社)を設立して発行したもので、今のところ36号(明治6年11月発行)まで確認されている。ちなみにこの新聞は県の公報のような性格をもっており、毎号2000部は県に納めて各町村に配布され、残り2000部は主に村々の戸長クラスが購読したという。

 つぎに明治10年代は、奈良県が堺県(明治9.4 ~同14.2)や大阪府(明治14.2 ~同20.11)に属していたこともあって新聞界もふるわず、わずかに明治13年(1880)1月、宇陀郡松山町で『松山絵入新聞』(社長 山辺真敏、編集長湯川文嶺)が、翌14年(1881)1月、『松山新聞』が発行されたというが、詳細は不明である。また同年8月、奈良鳴川町で『南都新報』(社主 益田俊介、編集長西浜諦道)が発刊されているが、これもどういうわけか2号で廃刊となっている。その後も明治19年(1886)2月に中尾氏就が『やまと新聞』(編集人 岸野義衛)の発刊を府庁に願い出たというが詳細はわからない。いわば当該期の大和の新聞は無きに等しい状態であったといえよう。

 明治20年代になると、奈良県が大阪府から分離再置されたことや、三大事件建白運動や大同団結運動の高揚のなかで民権諸派の動きが再び活発となり、奈良県でも民党再編の動きのなかでいわゆる「政党紙時代」にはいった。まず、明治21年(1888)4月、改進党系有志によって奈良県で最初の日刊紙『養徳新聞』(社長今村勤三、発行人兼印刷人石田定鹿)が添上郡奈良橋本町で発刊された。この新聞は縦42センチ、横31センチの4ページ立てで、内容は官報・奈良県公文・論説・雑報・外報・寄書などと豊富であり、毎号1500部程度を発行したという。社長の今村勤三は奈良県再設置運動に尽力し、当時県会議長の要職にあった。『養徳新聞』は今村ら改進党系勢力のもとにあったとはいえ、奈良県唯一の地元紙としての役割を果たしていたといえよう。その後、翌22年(1889)4月5日、『養徳新聞』は『大和新聞』と改題し、改進党の機関紙として活動を支えたが、大正期になると経営難に陥り、同15年頃に身売りされて廃刊となったという。

 一方、明治22年(1889)11月26日、添上郡奈良橋本町の大和日報社から桜井徳太郎を発起人として大同倶楽部派の機関紙『大和日報』(社長玉置格)が発刊された。紙面は4ページ立てで、奈良県公文・雑報・論説などが掲載された。大同派は旧自由党の流れをくみ、当時大同派内部でも愛国公党に連なる奈良グループ(酒井有、益田俊介ら)と大同倶楽部派(桜井徳太郎、磯田和蔵、玉置格、大森敏寛ら)があった。この『大和日報』は翌23年(1890)8月、内部対立と資金不足のため廃刊となったが、県政界が自由・改進両党の対立が激化するなかで、改進党の機関紙『大和新聞』に対抗して明治24年(1891)6月7日、新たに奈良樽井町の新大和社(社長箕輪庄太郎、主筆城水兼太郎)から機関紙『新大和』を発刊した。さらに明治26年(1893)7月1日、『新大和』は『近畿自由』(発行人 宇陀又二郎、編集人川原元松(のち城水兼太郎)と改題し、紙面は、4ページ立てで、県公文・雑報・奈良町公文・社説などが掲載された。翌27年(1894)11月、再び『新大和』に改題した。

 この二紙時代がしばらく続いたが、明治31年(1898)8月、『大和新聞』にいた赤堀自助を発行人として『奈良新聞』を発刊し、奈良市高天町に本社をおいた。今村勤三の支援をうけ、憲政本党の社説を掲げた。タブロイド版4ページ立て、ピンクの紙色のために、俗に「赤新聞」といわれた。また明治36年(1903)9月に、『新大和』の主筆岡本兼次郎が『奈良朝報』を発刊、奈良市椿井町に本社をおいた。こうして日刊四紙時代をむかえ、各紙とも順調に部数を伸ばした。

 しかし第一次世界大戦後、県内の新聞界にも大きな変化が起った。日刊四紙のうち、『大和新聞』と『新大和』『奈良朝報』が昭和初期までにあいついで姿を消したが、『新大和』は大正12年(1923)6月に『大和日報』と改題し、『奈良新聞』とともに昭和15年12月に戦時統合で終刊するまで続いた。これ以外のめぼしい動きとしては、大正8年(1919)10月、もと『新大和』記者奥田信義が『奈良新報』を創刊したが、同15年(1926)10月に休刊となった。大正12年(1923)1月に『大阪毎日』奈良通信部の杉本鶴一が『大和毎日新聞』を創刊、また同年10月に奈良市三条今井町で『新愛知』の傍系紙『大和旭新聞』が創刊されたが、二紙ともまもなく休刊となった。このほか同年9月に北葛城郡高田町で『中和新聞』が創刊されたが、戦時統合で終刊となった。

 昭和16年(1941)1月、一県一紙の新聞統合(戦時統合)が実現し、『奈良日日新聞』が創刊された。これまで続いた『奈良新聞』『大和日報』『中和新聞』は前年12月に終刊となった。『奈良日日新聞』は奈良市油阪町に本社をおき、社長に宇智郡五條町出身の小松兼松が就任、『奈良新聞』の赤堀自助、『中和新聞』の木村弘らが経営に加わった。戦後になると、社長の小松に代わり代議士北浦圭太郎が経営を引き受けたが、経営状態が思わしくなく、昭和29年(1954)3月に休刊となった。

 一方、『奈良日日』を退いた今西丈司は天理時報社社長岡島善次らの協力を得て、昭和21年(1946)10月『大和タイムス』(本社 奈良市中筋町、のち三条町)を創刊した。現在の『奈良新聞』(昭和50年6月改題)の前身にあたる。また『奈良日日』が休刊後、社員の杉田信義らが昭和29年(1954)5月、奈良市今井町に『新奈良日』を創刊、同年12月に『新奈良日新聞』と改め、本社を 奈良市杉ヶ西町に移し、社長に服部楢蔵が就任、その後、昭和37年(1962)7月、『奈良日日新聞』と改題、40年余り続いたが、平成17年11月に休刊した。

  <参考文献>
福島隆三「奈良県新聞史」(日本新聞協会編『地方別日本新聞史』 1956年)
山上   豊「奈良県における明治二十年代の政論新聞についてー『養徳新聞と『興和之友』を 中心にー」(横田健一先生古稀記念会編『文化史論叢』創元社 1987年)