映像作家・保山耕一氏が綴る映像詩『奈良、時の雫(しずく)』からセレクトした作品を月替わりで常設上映する企画。
8月の映像は「奈良七十二候(しちじゅうにこう)〜夏〜」(上映時間約18分、リピート再生)

奈良七十二候〜夏〜
保山耕一
「七十二候」は「自然から季節を感じましょう」と投げかけているところに魅かれます。植物、昆虫、動物、空、山、川。レンズを通して見て、心も向ける。そうすると、ごく当たり前のことだけど、季節の移ろいに自分が在ることを実感できます。自然の中で、自分がどう存在しているか。言葉でわかるのではなく、直に理解できます。
■蛙始鳴(かわずはじめてなく) 明日香村阪田
一年で、カエルが初めて鳴くのは田植えの季節です。その頃、田んぼを撮影していると、そこら中に、メマトイというちっちゃな虫がいっぱい飛んでいます。
レンズの前を飛ぶ無数のメマトイを、手で払いのけながらファインダーをのぞいて、西の空が夕焼け色に染まる前の景色を撮影していた時のこと。急にメマトイがいなくなって、カエルが鳴きだした。途端に、辺りの空気が一変して、何だろうと思いながらカエルを撮影していたら、突然、大雨が降ってきた。
これまで数えきれないほど屋外での撮影をこなしてきたのですから、急な雨ぐらい予測できそうなものなのですが。その時はまるで気づかなかった。雨が降るのを予見して、カエルは鳴きだし、メマトイは身を隠した。自然からのサインを受け取れなかった僕は、まだまだ自然の中に溶け込んで撮影できてないな、と。
今年は雨が多い、干ばつ、暑くなる寒くなる。いろんなことを前兆として教えてくれる自然の声が、もっと聞けるようになれたら。それでこそ初めて自然の一部として生きていることになるんじゃないかな。
■紅花栄(べにはなさかう) 明日香村国営歴史公園石舞台古墳
6世紀後半に築造された藤ノ木古墳(斑鳩町)からベニバナの花粉が検出されたように、ベニバナは古代から人々の暮らしに深く関わってきた花です。分かりやすいのは、東大寺のお水取りでツバキの造花を作る「花ごしらえ」。使われる鮮やかな紅の和紙は、伝統色の再現に取り組む染色家、吉岡幸雄さんの工房でベニバナを使い、毎年染められています。
吉岡さんから聞いた忘れられない言葉があります。それは「神様からいただいたものは、神様にお返しする」。染色家としての自身の経験をもって、納得ゆくまで染めの作業を行い、仕上がった和紙を再び仏さまにお返しするのだと。吉岡さんの染めにまつわる深い精神性を知ったことで、ベニバナが咲く姿から様々なことを考えるようになりました。
明日香村の石舞台古墳の横には、ベニバナが咲く花畑があります。石舞台古墳はテレビカメラマンとして何十回も撮影してきましたが、なんか、こう、きちんと写せていない、ただの石としてしか撮れていないという気がしていました。今回、ベニバナが咲いている時期に撮影に行った時、雷雨と強風に打たれながら撮ることになったのですが、石舞台古墳とベニバナはいずれも一千年以上前からそこに居て、照りつける日差しや悪天候に耐えてきたのだと思い至った。ようやく腑に落ちる絵ができた。あり続けることの凄みをとらえられたように思います。
■半夏生(はんげしょうず) 岡田の谷の半夏生園(宇陀郡御杖村)
半夏生は、水辺に高さ60センチほどに生え、半夏生(夏至から11日目。太陽暦では7月2日ごろ)のころだけ頂の葉の下半分が白くなり、白い穂状の花が咲く、七十二候にふさわしい植物です。
かつて、僕が毎日放送の番組「真珠の小箱」で撮っていた時、半夏生を撮影する企画のために、勉強したことがあります。当時、半夏生はまだ知られた存在ではなく、しかもあまりに地味だからと企画はボツになりましたが。
同じ頃、奈良交通から「岡田の谷の半夏生を観るツアー」の募集があって、申し込んだこともあります。程なく「あなたを含め2人しか応募がなかったのでツアー自体キャンセル」との連絡がきました。その頃の奈良交通はマニアックなバスツアーをいろいろ売り出していて、面白い会社だなぁと思っていました。
「岡田の谷の半夏生園」を一言で表現するなら「異世界」ですね。半夏生園にカメラを向けていると、ザザザッと、姿は見えないけど犬か猫ぐらいの大きさの生き物が、群生地の中を勢いよく動き回っている音だけが聞こえてくるんです。周辺にはイノシシかシカの骨が転がっていたり。この場所、僕には「命のるつぼ」、つまり、壺の中に押し込められたいろんな命が、お互いを狙いあって生息しているように思える。清々しい気持ちにはなれない場所です。
■蓮始開(はすはじめてひらく) 春日大社神苑 萬葉植物園
七十二候は元は中国で作られた暦で、江戸時代に日本独自の「本朝七十二候」がつくられました。それでも平均的な季節の巡りだから、七十二候の「蓮始開」を奈良に合わせようとすると、2週間程の遅れが生じるようです。だから、僕の七十二候には、ハスが散る姿も入れています。
ハスは大体4日で散ります。きれいに咲いているハスもあれば、散りゆくハスもある。花の茎ではヤゴがトンボに孵(かえ)って命が生まれる。大きな川の流れのような季節の中で、植物も動物も昆虫も、生まれては消える。その中に自分の命もある。流れに対抗することはどんな命であろうとできない。それが美しいとか、そこから学ぶとかではなく、ただの自然の営み。意味を込めて、一番最後のショットは、流れ行くハスの花びらを選びました。
(文責:奈良県立図書情報館 *当ページ内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等の行為を禁ず。)
※七十二候(しちじゅうにこう)
中国、日本に古くから普及している季節の区分。二十四節気は太陽の黄経によって一年を24等分したものであるが、昔、中国では各気をさらに三候に細分して七十二候とし、中国の故事にちなむ名前(獺祭魚、鹿角解など)や自然現象にちなむ名前(東風解凍、桃始華、虹始見など)をつけて呼んでいた。前三世紀頃、中国では七十二候が完備し、それがそのまま日本の暦に採用されたが、中国と日本とでは気候が必ずしも一致せず、また動物や植物にも多少の違いがあるので、江戸時代に日本独自の本朝七十二候がつくられた。例えば中国の獺祭魚は日本で土脈潤起、萍始生は葭始生、王瓜生は竹笋生、反舌無声は梅子黄などである。
(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
■保山耕一(ほざん・こういち)
1963年生まれ。奈良在住。US国際映像祭でドキュメンタリー部門の最優秀賞である「ベスト・オブ・フェスティバル」を受賞。フリーランスのテレビカメラマンとして『THE世界遺産』『情熱大陸』『美の京都遺産』『真珠の小箱』などの番組撮影に携わるほか、スポーツ、音楽、バラエティまで多方面に活躍。2013年に直腸がんと診断され、現在も治療を続けながら「奈良には365の季節がある」という強い思いを映像にすることをライフワークとしている。2019年1月、資料収集などで社会に貢献した人を表彰する第7回水木十五堂賞を受賞。