映像作家・保山耕一氏が綴る映像詩『奈良、時の雫(しずく)』からセレクトした作品を月替わりで常設上映する企画。
10月の映像は「天忠組紀行」(上映時間約38分、リピート再生)
【 天忠組紀行 保山耕一 】
昨年秋「天忠組シンポジウム in 東京」というイベントが開催されました。主催は「天忠組」にゆかりのある、奈良県の四つの市町村(五條市、安堵町、十津川村、東吉野村)で構成する協議会で、作品制作の依頼を受けた僕は、天忠組の足跡を8カ月かけて撮影して回りました。出来上がった作品はシンポジウムで上映されました。
このご縁から天忠組について考えることになったわけですが。友人のテレビプロデューサーからは「やめといたほうがいい」とアドバイスのメールが(!)。確かに天忠組といえば、いわゆる「右寄り」の人たちが英雄視するような一面がありますよね。それで迷ったのですが、結局撮らなあかんようになって(笑)。
天忠組が行動したのは、明治維新が起きる5年前、今から155年も前のことです。しかし、天忠組がたどった道を撮影している最中、土地の人たちから聞こえてくる話は、まだまだ生々しくて、昔の出来事とは思えなかった。ある場所へ行けば「家を焼かれた」と言って憎んでいる人がいた。別の場所では「天忠組はすばらしい」と、おじいさんから聞いた話を思い出して涙する人がいた。隊士のお墓に花を手向ける人もいた。様々な人の感情に触れて、天忠組が土地の人の中に未だ息衝いている事を知った。心を打たれました。
平均20歳代の彼らには様々な評価がありますし、やはり過激だったと思います。でも、天忠組はどこかの藩から禄を得て動いていたのではなく、完全なるボランティア集団だった。自己犠牲の精神で国を憂い、行動したのです。その原動力は一体何だったのか。同志たちを突き動かしたのは、結局は身近な人たちの生活を守りたいという思い、それだけだと感じました。誰かのために生きる覚悟をして、利他の気持ちで死んでいった。そこから何を学ばなければならないのかと思いますし、僕が映像作家としてできることは何かということも。
僕としては、天忠組の同志が最期に見た大和の風景を残したかった。「奈良には365の季節がある」ように、奈良は四季折々の豊かな表情が日常で見られる土地です。しかし、この美しい景色を、死を覚悟しながら見た人たちが存在した。彼らを知ることで、現代の幸せな世の中を再確認できれば、と。天忠組の「日本を残したい」という思いと通じた気がしました。(文責:図書情報館)
・天忠組……1863年8月に大和で挙兵した尊攘激派グループ。この年、中央政局を動かした尊攘派のうち、真木和泉らのたてた攘夷親征計画により、8月13日に孝明天皇の大和行幸の詔が出された。これを機に大和の天領占拠をめざして、土佐の吉村寅太郎、備前の藤本鉄石、三河の松本奎堂(けいどう)らを中心とし、公卿中山忠光を擁して結成されたのが天忠組である。8月14日に京都を出て、大坂と河内を経て大和に入り、17日に五条代官所を襲撃して代官鈴木源内を殺害し、代官所支配地の朝廷直領化、本年の年貢半減などを布告した。(出典 平凡社『世界大百科事典』第2版)
注:同志らの記録には「天忠組」と記され、「天誅組」の称は結成時のものではない。
・撮影地 岡八幡宮(五條市)、 旧五條代官所長屋門(五條市)、 吉野川(五條市)、 天辻峠(五條市)、 高取城跡(高取町)、 風屋(十津川村)、 武蔵(十津川村)、 林泉寺跡(上北山村)、 武木(川上村)、 足ノ郷越(東吉野村)、 木津川(東吉野村)、 天忠組終焉の地(東吉野村)
■保山耕一(ほざん・こういち)
1963年生まれ。奈良在住。US国際映像祭でドキュメンタリー部門の最優秀賞である「ベスト・オブ・フェスティバル」を受賞。フリーランスのテレビカメラマンとして『THE世界遺産』『情熱大陸』『美の京都遺産』『真珠の小箱』などの番組撮影に携わるほか、スポーツ、音楽、バラエティまで多方面に活躍。2013年に直腸がんと診断され、現在も治療を続けながら「奈良には365の季節がある」という強い思いを映像にすることをライフワークとしている。