原爆の惨禍を目のあたりにして 〜日赤奈良班看護婦の手記から④

私の従軍記

首藤 澄江

私は昭和15年、和歌山赤十字病院奈良支部養成を卒業いたしました(甲種)。翌16年には広島陸軍病院大野浦分院(旧日赤病院)派遣、結核病院だったので、約8ヶ月で支部に帰還いたしました。

昭和18年8月、2回目の召集令状を受け(赤紙)、奈良県吉野郡天川村和田の和田小学校で児童、父兄に見送られ、神社で万歳三唱となえて村を出発、日赤奈良支部に到着いたしました。

翌日全国日赤救護班560名程参集、大阪港を出発(病院船)で、到着大連港。迎えの柳樹屯陸軍病院勤務。私は第5区の病院で勤務、毎日多忙をきわめ懸命に傷病者の看護に当たりました。

五区という所の病室にはとても美しい海辺で、内地をおもわせるすてきなところでした。しかし勤務はとてもけわしく、下士官勤務となり時には見習士官という軍医さんと宿直をおおせつかり、私はブルーマをかりて男子同様の勤務をし、日赤救護班として一生懸命頑張りました。今おもえば日赤は高く評価されてきたのだろうと思います。

宿直は下士官の就寝する狭いベッド、麦飯を頂き勤務しました。衛生兵さんと変わりない、男子同様でした。又五区の隊長(池田大尉)に、重症患者の病床日誌書きに呼ばれ(婦長を通じて)隊長の言われることは「はいはい」と返事をして、すばやくカルテーをかき上げ記入したことをおもいだします。そして一生懸命、病室で重症患者の看護に当たりました。

それから私達は昭和19年4月満州国錦州省錦州陸軍病院に勤務となり(兵站病院勤務)、病室で重症者の看護に忙しくはげみました。

この病室でも下士官勤務となり、部隊の命令受領には私も出ました。時には、上西復習、と大きな声で言われ、大勢の軍医さんの中で復習したことをおぼえています。張切っていました。そして毎月の日赤宛の業務報告、健康状態は婦長病弱のため、私がいたしました。今本社に残っていればなつかしく存じます。

8月15日、敗戦となり部隊は安東市にと列車にのり到着いたしますと、部隊で女がいては危いからといって、男子同様に頭髪をして三角巾をかぶり、軍衣袴をはき、衛生兵さんと同じ格好で部隊の残務整理につとめていましたが、ここにもソ連軍や八路軍がきまして毎日が大変でした。私は餅うりや医院の食事関係を手伝って暮らしていました。

時に部隊の兵隊さん関係は、全員ソ連につれていかれました。残るは私たち救護班と家族の方ばかりです。かなしいおもいをいたしました。その中に安東市の『難民の帰国』となりましてその中に私も加わり、なんと安東市から奉天へと約一ヶ月間、山又山、谷又谷を歩いて野宿して、それは途中でおいはぎにあい、病気で亡くなる者は道端で死に、悲しい毎日でした。奉天から葫蘆(ころ)島へと貨車にのり、やっと船で博多港に到着。やっとうれしいおもいがいたしました。

博多湾に検査にきておられた、広島陸軍病院大浦勤務の際一緒だった、鹿児島班の佐竹さんと逢いまして、抱きあって泣いてしまいました。一生のおもいでです。一夜博多湾であかし、奈良支部に帰還いたしまし、その時内地の紙幣がなくて又1000円を頂き一途奈良へ。自宅に帰るまでも三角巾は取れません。

又改めて79歳まで生きながらえて体調もよく、ぼけもなくうれしい日々を送っています。

「資料」といたしましても、着のみ着のままで何にもありません。日赤の防寒具も途中ではぎとられました。寒かったです。乱筆乱文してあしからずお許しくださいませ。失礼します。

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2度の召集と爆心地救護

東田 阿栗

昭和15年

和歌山赤十字病院陸軍病院卒業後、当院勤務。

同年6月

日本赤十字社奈良県支部救護班要員として召集。大阪陸軍病院派遣、戦地より陸揚げされた負病兵・戦病兵収容され傷も生々しく、一旦治療して又各々所属部隊へ転送されて行く。時には輸送時に付添い、必要な時には護送で病院列車に乗る事往々ありました。内科・外科・重症病棟各勤務交代もあり、軍律厳しい中。

昭和19年1月

大阪陸軍病院召集解除となり、自宅へ帰る。

農家だった家事手伝する。増産に励みました。当時両親私妹、弟は間もなく現役兵として中部33部隊(大阪)入営(3月10日)、大阪陸軍病院金岡病院衛生兵教育を受ける。6月外地へ。仏領インドシナ(現ベトナム)方面派遣する、昭和20年8月敗戦翌年5月無事は帰還。現在農を営む。

当時は生産した食糧、米・麦・いもなどは割当で供出せねばなりません。日常生活品は不足勝となり、物々交換せざるを得なかった。毎日を支え偲んで配給制度の暮しで不自由な毎日、増産増産の合言葉。

昭和19年6月

田植時期を迎えたが雨が降らず、干魃がつづき、お米収穫悪かったとのこと。

再び日赤奈良県支部救護班として召集、広島県大竹海兵団派遣第4分隊所属さる。海軍に入隊する。兵士身体検査病棟勤務する。他日、日赤奈良・岐阜・岡山ケ班編成で衛生兵と混合で勤務する。毎日何回ともなくB29飛行機、高々度で煙幕出し飛び去り偵察する。空襲警報サイレン鳴り響き防空壕へ避難する事度々、だんだんと本土へ爆撃機飛び回る。爆弾投下、怖々海兵団兵舎を目がけていたようです。怖々防空壕へ避難しての勤務でした。食事米少々、麦・大豆入りの主食、副食は乾燥野菜多い日がつづき、肉魚は稀でした。1、2月は寒波の多い日がつづき、その年は格別だったようです。寒さ厳しくて[眠]れない夜があり、又夜中敵機来襲サイレン鳴り、灯火管制中避難した事再々。

昭和20年8月6日

広島市8時15分頃、私達外で身体検査(血沈係)施行中、ピーカと光が放ちドーンと大きな音と共に瞬時にして上空に煙が柱突き上がったように白黒煙が見えた。広島市内大型爆弾落ちた報にて、負傷者大多数とのこと。各班看護婦3、4名医師・衛生兵ととも衛生材料トラック満載して出動救護に向かう。11時頃到着、爆心投下地前、大きな川をはさみ真前に救護所を設け、火傷者、負傷者、爆風で吹き飛ばされガラス破片入って出血甚だしい人、手が付けられない。至る所にぶっ倒れて黒焦げ、水を下さい、水を下さい、叫び声聞える。広島は一瞬にして焦熱地獄に。生々しさ、呼び声も薄れば事切れる。のど渇き体ほてり疼痛が走る人々、水を求めて待ち切れず川に飛びこむ人多くいた。投下直後大粒の雨が降ったと言う。泥んこになって長蛇の列で手当する。海水運び込んで部位洗い処置する。水疱生じ痛い、痛い連発、両親呼ぶ声、泣きつつ名前連呼して走り廻り歩く有様はなんとも言い表せませんでした。

爆弾投下により焦土となり、四辺焼野原と化してしまった。手当終った人は学校など運ばれていった。夕刻になり暗くなり、治療尽せなくて衛生材料も使い果て、幸い月夜の晩、光々と照りさえ、そのあかりで一人でも多く必死で手当する。11時ころ引き上げ、わたしたち一行は分隊又宿舎に戻りました。

翌日移動された方々、負傷者各場所治療手当に当る。分隊から毎日通う。痛い連発、悲惨でした。

昭和20年8月15日

終戦。私達各班帰還命令あり。

8月末日山陽線広島大竹間で汽車に乗る。乗っている人は兵隊ばかり。窓から引ぱってもらい列車の人となり、一途自宅へ帰りました。現在健康で毎日過ごしています。終戦後50年経ち、ほんの一端での綴りです。現在も鮮明に私の脳裏に残っている。思い浮かべて当時の有様を今日この機会に記す。

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日赤 第685班救護班員として

中西 久子

日本赤十字社 第685班救護班として召集され、呉海軍病院に派遣されて、大竹海兵団第4分隊医務課に配属される。岡山、岐阜班と共に勤務。病院でなく内科、外科病室、外来診療室、手術室で軍医の治療を介補する。一般社会の医療機関と違う事ばかりで、慣れるまで皆んな苦労する。

毎早朝、各隊より診察に来る。その内重症患者は入室となる。他に徴兵者の入団時身体検査、予科練志願者の身体検査も業務であった。ある日空襲警報のサイレンに、慌ただしく団内の防空壕に避難する。互に身を寄せ合い恐怖に震える。大音響と共に燃料廠が爆破された。爆炎空一面に広がり、太陽の光は10日間程遮られた。それ以後空襲に備えて防毒マスクを携行して行動した。海兵団の治療もいよいよ危険となり、団外に防空壕を掘られ団外治療所を設置される。予科練志願者の身体検査も、団外診療所で日に日に続く。若い無邪気な少年たち、七つボタンの桜にいかり、あこがれて若き血潮がもえているのであろう。皆んなの元気さを見て胸がつまる。

8月6日午前8時15分、急に空襲警報のサイレンが不気味に鳴り響いた。爽やかな雲一つ無い晴天の日、酷しい暑さを思わせる朝だった。団外治療所の入口で見えた瞬間、大空に異様な閃光が広がり、凄まじい爆発音と共に、爆炎が縦に、鉛色をして浮き上がった。あれは何んであろうとそれぞれに口走る。数時間後広島駅に中心に惨禍おきた。 高熱過激な爆弾投下だと知らされた。これが原子爆弾だと知らされた。世論ではピカドン爆弾と言い、当時は放射能とは誰も判らず、住民の不安が深まるばかりであった。

被爆者の救護命令が出る。大竹町の学校、神社、役場の施設に分散収容された。当日は広島市が大竹町に疎開、勤労奉仕の日で、広島駅に人が集まった時間帯であったので、被爆者が多かった。当時の被爆者は約2万人とのことだった。毎日被爆者の治療に出る。

2、3日経過すると、包帯の下から細かい蛆がウヨウヨ這い出す。切傷の中からはガラスの破片がピンセットに触れる。黒く赤くただれた火傷、痛みを訴える。「助けて」と白衣のモンペにすがり付く。中には、幼児を背にし共に全身火傷。で母は幼児の名を必死で呼び叫ぶ。幼児は息絶えている。やがて母も後を追って死んでいった。哀れな母子の最後を涙を流して見つめ、それぞれに合掌した。

暑さも一層災いして、被爆者は泣き苦しみ、死亡する人も多くなる。海兵団の衛生材料も日に日に乏しくなり、上司の方では確保に暗い状態となっていた。8月15日終戦、悔しい思いをする。支部よりの帰郷命令が出るまで治療に当る。毎年の原爆記念日には、身をもって被爆の悲惨を体験した私達であり、反核の気運が世論を騒ぎ立てている現在、世界平和を願う心は誰よりも強く感じているこの頃であります。

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火の海を逃げたあの日

福田 常子

私の青春時代は戦争一途で学校時代から「お国のため勝つまでは」と勉強もせずに動員、動員で奉仕に暮れておりました。私は奈良の女学校へ行っても軍需工場へ弾作りに、又農家へ奉仕にと何を勉強したのでしょう。そして英語は特別進学でないと習えずに、卒業すれば全員挺身隊で軍工場へと、家で花嫁修業などできませんでした。私は奈良日赤へ進み、和歌山日赤での合同養成で、昭和19年4月から1年間の軍隊生活。

やれやれ2年生となり、室長として楽しかった寮生活。でも昭和20年7月9日に和歌山市内焼夷弾爆撃で、火の海を命からがら上空を見上げ、直撃弾に当たらぬよう、地面に伏せをしながら友達と海南まで走り逃げました。あの恐ろしい戦争、戦後の苦しい生活、現在は本当に夢のようです。戦後53年、世の中はすっかり代りました。

現在は家孫3人と外孫2人にかこまれて「おばあちゃん長生きしてね」とやさしい言葉に「苦あれば楽あり」。で毎日感謝して孫の就職が心配です。大学2年生と来年大学に進学の孫、上は昨年から就職しています。今後は体に気をつけて家族に迷惑をかけない様に。今後は楽しい人生を主人と共においしい米作りと野菜を作って、家族に喜んでもらえる老人になります。近頃私の所も学研都市に田も畑もかかり、来年度からは働かなくても良くなります。

私は本当に幸せで神仏に拝み暮らしております。今年は銀婚式でした。

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解題にかえて

今回は、終戦間際、第685救護班員として広島県大竹の海兵団に派遣され、原爆の被害を目の当たりにした東田阿栗氏、中西久子氏の手記に加え、首藤澄江氏、福田常子氏の手記を紹介する。

まず、首藤氏は第459救護班に属し、本来なら第29回展示の「8月15日に終わらなかった戦争」で紹介すべきであったが、紙幅などの都合から、今回に回したのでご了承いただきたい。抑留・留用され中国内戦に巻き込まれた安場氏らや、義兄を頼って自主帰国した松岡氏(第29回展示で手記を紹介)と異なり、他の引揚者と混じっての帰国である。国境の町、安東(現丹東)から引き揚げにもかかわらず、朝鮮半島を経由してではなく、いったん南満州の中心都市、奉天まで日本とは逆方向に北上して、そこから引揚港葫蘆(ころ) 島へ向かっている。この手記を読む限り、理由は定かではないが、奉天まで逆行する間にも多くの犠牲者が出ているというからやりきれない。なお、第29回展示の配布資料では、展示図書リストをつけなかったため、今回、中国留用者の手記や時代背景を叙述した図書をリストに示した。

広島の軍港としては、鎮守府も置かれた呉が著名であるが、太平洋戦争開戦間際呉の海兵団が拡大する形で大竹にも海兵団が設置された。広島の爆心地からは約30~40キロの距離にあるが、東田氏、中西氏ともに、原爆の閃光と爆発音をはっきりと見聞きしている。そして東田氏は爆心地近くに向かい、中西氏は大竹へ逃れ、あるいは搬入された被爆者の救護にあたることとなる。

原爆を扱った図書については枚挙にいとまがなく、フクシマを経験した中で再びヒロシマ、ナガサキを捉えなおそうとする機運も高まっている。ただし、今回の展示図書は、原爆被害や原爆文学に関する基本的図書、救護体験を扱ったもの、こうの史代著『夕凪の街 桜の国』及びこうの氏がモチーフとして使った大田洋子氏の一連の著作を挙げるにとどめた。実感は経年によって風化して歴史となっていくのは、避けえない事実であり、その点において『夕凪の街 桜の国』は、戦争を実感として知らない世代が捉えなおした戦争体験の継承物語として貴重である。また、戦争体験文庫では、既に原爆に関する図書をまとめて配架してあるため、それ以外の蔵書のうちで自動化書庫に収納されているものを中心に展示図書を構成した。

福田氏は、多くの奈良班看護婦たちが看護教育を受けた和歌山で空襲にあっている。福田氏が海南まで逃げたという昭和20年7月9日深夜の空襲は、和歌山県内では最も激しい空襲だった。テニアン島を午後5時台に出発したB29約100機は、24時ごろから約2時間和歌山を空襲、帰途に堺も空襲して帰還した。和歌山では1000名を超える死者を出したという(『和歌山県史』近現代二)。養成所が置かれた和歌山日赤病院(この時期には陸軍病院となっていた)は、幸い死者こそ出さなかったものの、本院は全焼している(『日本赤十字社和歌山医療センター百年史』)。

なお、奈良県は、こうした過酷な空襲を受けなかった全国でも希少な県である。その理由として、美術史家ウォーナー氏が奈良県や京都市への空襲を避けるよう、アメリカ政府に働きかけ、それが功を奏したとする「ウォーナー伝説」が広く流布している。しかし、これが誤りであり、それどころか京都市は原爆投下の有力候補地であったことが明らかになっている(『資料集原爆投下と京都の文化財』、吉田守男『京都に原爆を投下せよ』)。

従前どおり、原則的に手記をそのまま翻刻したが、一部改めたり補った箇所がある。また、これらの手記は、平成16年に寄贈いただいたもので、福田氏の手記に「戦後53年」とあるように、実際の執筆はさらに数年を遡るものです。関係者各位には、重ねて厚く御礼申し上げます。

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