壕からかいまみた日本兵と米兵たち 須藤ヨシエ氏の「サイパン島戦争体験記」を読む3

解題

今回紹介した部分の中で、須藤氏は、援軍を待ちわびる描写を繰り返している。また、須藤氏たちが接した日本軍の兵士たちも、いつか援軍が来ることは疑っていない。すでに、昭和18年のアッツ島を皮切りに、前線の日本軍が攻撃を受け全滅、玉砕が発表されるケースも相次いでいた。しかし、サイパンには、太平洋戦争開始後占領した島々と違い、長く日本による統治が続き、民間邦人も多数居住していたうえ、昭和18年9月には絶対国防圏とされていたのである。

東京の大本営も、サイパンの重要性を軽視していたわけではない。後に、サイパンなどマリアナ諸島は、激化する本土爆撃の拠点となるが、それも陥落前から予想されていたことだった。昭和19年6月の米軍のサイパン攻撃本格化、15日には上陸という事態を受けて、陸軍は2個師団相当の部隊を投入する計画を立て、海軍でも以前から準備していた「あ」号作戦を開始して、米海軍に決戦を挑むことになった。しかし、6月18-20日に行われたマラリア沖海戦では、「機動部隊は19、20日の戦闘において空母3隻を喪失するとともに、その航空兵力の大部を消耗」(『戦史叢書 マリアナ沖海戦』)するという日本側の惨敗に終わった。以前の紹介部分にあったように、避難民や兵員を積んだ輸送船が撃沈されるなど、制海権が危うくなっていた状況で、海戦の結果は決定的だった。まだサイパン島中央部のタッポウチョウ山付近での激戦が続いていた6月24日、東京の大本営では陸海軍をあげてサイパンに増援、反撃を加える計画を放棄し、事実上サイパンを見捨てる決定をした。サイパンの日本人の多くは、こうした事態を知る由もなく、海戦敗北ですらひとにぎりの軍幹部が知るのみであった。

手記では日付が判明しないが、タッポウチョウ山が陥落し、マッピ山付近に追い詰められていた日本軍が、「総攻撃」をかけたのは、須藤氏たちが壕にこもってから1月弱後の7月7日である。前晩、日本軍兵士が須藤氏に「武器はなし、弾薬はなし、総攻撃と言っても、みすみす死にに行く様なものです」と表現したように、玉砕を期してのものであり、米軍は「バンザイ突撃」と呼称した。しかし、海軍の一部には、総攻撃に参加せず、持久戦を続けようとする部隊もあった。総攻撃の命令は、7月5日、陸軍の斎藤義次中将と海軍の南雲忠一中将の連名で出され翌日両中将らは自決していたが、海軍側に「寸土の土地でも残る間はこれを死守して持久せよ」とする電報が入っていたためである(平櫛孝『肉弾サイパン・テニアン戦』)。こうして、サイパンでは、統一した指揮系統もないまま、山岳部に立てこもって抗戦を続ける少数の日本兵と、これを掃蕩しようとする米兵との間で、散発的に戦闘が続けられた。手記を見ていても、この総攻撃の後も、米軍による攻撃が弱まった様子は見られない。続けられた艦砲射撃によって、避難壕のわきの弾薬庫が、負傷兵ともども吹き飛ばされたのは総攻撃の翌日であったというが、著名なマッピ岬での日本民間人の大量自決のピークも同じ日だったという。

展示図書としては、前回までのサイパン攻防戦をめぐる戦記、手記に加え、マリアナ沖海戦に関するものを加えた。また、サイパン陥落による絶対防衛圏の一角の崩壊は、東条内閣総辞職の直接の原因となっているため、こうした国内情勢を扱った図書をも加えた。リストにはその追加分のみを示した。