日本統治下サイパンの日常から戦争へ 須藤ヨシエ氏の「サイパン島戦争体験記」を読む1

解題

   平成24年度に、日赤奈良班看護婦の一連の未刊行手記を紹介しているのに引き続き、本年度は、民間人としてサイパン戦に巻き込まれた須藤ヨシエ氏の「サイパン戦争体験記」を紹介する。

 第一次大戦中の大正3年(1914)、ドイツに宣戦を布告した日本は、ドイツ領であった南洋群島を占領する。マリアナ群島(サイパン、テニアン、ロタ島等)、ヤップ島、パラオ群島、カロリン諸島(トラック、ポナペ、ヤルート島等)からなるこれらの島々は、戦後、国際連盟から日本へ委任統治されることになり、連盟脱退後も第二次大戦終了近くまで約30年間、日本による統治が続いていた。これらの地域では、日本にとっての「内南洋」として、沖縄人を中心とする移民が相次いだ。昭和16年(1941)の対英米蘭開戦後、日本によって占領された東南アジア地域とは違って、長く日本人による日常生活が根付いていたといえる。昭和10年の調査によると、日本統治下南洋群島全体の人口が約10万人で、「邦人」と「島民」の割合はほぼ半々だった。サイパン島に限れば、総人口が約23,500人のうち、邦人は約2万人と圧倒的に日本人中心の島であった(『昭和十年南洋群島島勢調査書』)。

 特にマリアナ群島において、島々の開発に大きな役割を果たしたのが、南洋興産株式会社である。同社は、移民小作人に生産させたサトウキビを原料に製糖業を行っていた。手記で「南洋興発会社はチャランカの一つの町をなして、会社の中に医務室、クラブ、食堂、香取神社、社宅、酒保、寮、工場等々がありました」と記すチャランカノアは島の南部にあり、島中部には、南洋庁サイパン支庁が置かれるなど中心都市であったガラパンがあった。南洋庁サイパン医院に勤めていた須藤氏も、昭和19年3月の結婚後は、チャランカノアの南興社宅から通勤することになる。

 なお、手記では夫の名は記されていないが、精力的に南洋群島への移民を調査した沖縄県史にその名を見出すことができる。『沖縄県史資料編17』の別冊『サイパンテニアン収容所捕虜名簿』(もともとは米軍作成)を確認すると、SUDOU MATUZOと、(同)YOSHIEの名が見える(228頁)。また、同資料編17の本冊『南洋群島関係資料』には、南洋興産サイパン製糖所付属医院の医務技手補として、須藤松蔵の名が見え、手記に記された須藤氏の夫であることが確認できる。

 今回、取り上げるにあたっては、再び須藤氏のご意向を確認しようとしたが、当時の連絡先には縁者の方を含めてお住まいではない様子で、かなわなかった。「この手記の様な体験をして生きて来た私達の生き方が、少しでも、子供や孫達の心のささえになってくれる事を念じて、書き記すことといたしました」という、須藤氏寄贈当時の意思を尊重して、紹介させていただくものであるが、もし、須藤氏及び縁者の方の消息をご存知の方がいれば、本館戦争体験文庫担当までご一報いただければ幸いである。

 なお、表記は原則として手記原本のままテキスト化をしたが、一部旧かなが併用されている部分を新かなに直したり、横書きにするにあたって漢数字をアラビア数字に改めた個所などがある。図書リストの部分では、南洋群島一般や民族誌、日本統治時代を扱ったものを取り上げた。