(株)テイチクから出された曲で菅原都々子が歌っていた「奈良はなつかし」の楽譜を探している。(株)テイチクに問い合わせたが、古い曲なので残っていないと言われた。
『大和路歌物語』に楽譜、歌詞が収録されています。
◆出典・参考資料
『大和路歌物語』奈良の歌を育てる会著 (767.56-ヤマト-2001)
奈良県立図書情報館に所蔵する図書・雑誌などを検索することができます。
電子化された公文書や古文書、古絵図などの資料を検索できます。
県内の公共図書館と、本館が協定を結んでいる大学図書館の所蔵を検索できます。
『大和路歌物語』に楽譜、歌詞が収録されています。
◆出典・参考資料
『大和路歌物語』奈良の歌を育てる会著 (767.56-ヤマト-2001)
明治41年11月3日。
◆出典・参考資料
『奈良の近代史年表』中本宏明編 (216.5-416)
『御所市史』には、「円照寺(御所市御堂前町)ははじめ常徳寺と号していた。慶長5年2月本山の准如上人から懸所坊舎を命ぜられ、蝕頭として五十余力寺を統括。のち円照寺と改称した。現在も大和五ヶ所御坊の一つ」と記述されています。
◆出典・参考資料
『御所市史』 御所市史編纂委員会 御所市役所 (216.5-224)
昭和26年11月19日に行われました。
資料には「天皇陛下ご来県、知事公舎で講和、安保の両条約批准書認証が行われた。」と記載されています。
◆出典・参考資料
『奈良県年鑑』 大和タイムス社 (216.5-10) 「県史年表」の部分
八島郷は『三代実録』仁和元年(885)9月21日条に「大和国添上郡八嶋郷」が見えます。治承2年(1178)の僧玄愉畠地売券(『東大寺文書』)に「添上郡八島郷南壱条七里」とあるので、現奈良市八島町付近に比定されています(『奈良県の地名』)。
この地名が、他地域に移ったという記録は見つかりませんでした。
「大和国郷帳」のうち、「元禄郷帳」「天保郷帳」は、『内閣文庫所蔵史籍叢刊』55、56(影印本)に所収されています。
「寛文元年大和国郷帳」は、『明治大学刑事博物館資料第3集』に翻刻されています。
いずれも、江戸時代の村名と石高を記載したもので、参考にはならないと思われます。
◆出典・参考資料
『三代実録』(六國史 巻9, 巻10) 名著普及会 (210.3-1272-6)
多聞城に関する文献のうち、『奈良県史跡名勝天然記念物調査抄報第十輯』所収の「多聞城跡」には、多聞城縄張推定図を載せています。
また、『日本城郭大系10三重・奈良・和歌山』の多聞城の項には多聞城要図が収載されています。
◆出典・参考資料
『奈良県史跡名勝天然記念物調査抄報 第十輯』 奈良県教育委員会 (291.65-228-10)
中国から入ってきた鐘(支那鐘)は、過去の報告では2口(宗休寺と熊野神社のもの)とされていましたが、現在では現存するもので36口が確認されており、未報告のものもあると考えられています。
石田肇「日本現存支那鐘研究序説 : 附日本現存支那鐘一覧」によると、奈良県内では国立博物館が1口所蔵しています(重要文化財. 陳・太建7(575)年)。
また、「支那鐘」とは異なるようですが、愛知県の実相寺の梵鐘も、中国の影響を受けた日中混交式で、日本に3つしかないと言われています。
さらに山口県の正讃寺の梵鐘は、和韓折衷式という珍しい様式だということです。
それぞれホームページに載っていますのでご参照ください。
<実相寺の梵鐘について>
http://www.city.nishio.aichi.jp/kankobunka/palepurple/cul_ass/index.html#JISSOJI
明日香村大原は中臣鎌足の出生地と伝承されています。
その出生地の一角には、明治初期ごろまで藤原寺(古くは法光寺、あるいは中臣寺)が建っていました。
そして、この場所は、もともとは五摂家の一つの鷹司家の所有地でしたが、明治の初期に平田家に譲られたといわれています。
以上のこと以外は、『奈良県高市郡志料』・『奈良県の地名』・『大和志料』等に詳しく記載されています。
◆出典・参考資料
『奈良県高市郡志料』 高市郡役所編 名著出版 (216.5-290)