法隆寺に「若草伽藍」があるが、この若草とはいつごろからついたのか。

高田良信著『法隆寺の謎』 p.117-118に、なぜ「若草伽藍」と呼ばれるのかという問いに次のように答えています。
 
「法隆寺の境内に若草伽藍跡と呼ばれる場所がある。子院の普門院と実相院(じつそういん)の裏手にあたり、今は草が生い茂った空き地である。その南側には重要文化財に指定された大垣が東西にのびている。その大垣近くには若草の塔心礎と伝える大石がある。それが創建法隆寺(斑鳩寺)の跡であると伝えている。平安時代にはこのあたりを「花園(はなぞの)」と呼んでいたことが経巻の奥書によって知られている。おそらく西院伽藍の南にあって仏前に供する花や野菜を栽培していたところから、そのような名がつけられたらしい。江戸の宝永年間(1704~11)になると「若草」と呼ばれるようになり、『古今一陽集』に土俗の伝として「若草之伽藍」があったとする記事がはじめて紹介されている。それ以来、この地を若草伽藍と呼んでいるが、記録の上では花園というのが最も古い名称である。私は花園が徐々に荒廃して、やがて雑草が茂る野原と化したことから若草という名称が生じたのではないかと考えている。いずれにしても若草という名称がそれほど古い時代のものでないことだけはたしかである。」
 
◆出典・参考資料

(1)平城京の推定人口に関する論文や資料を紹介してほしい。 (2)近世頃の奈良市や近畿地方の推定人口に関する資料を紹介してほしい。

(1)平城京の推定人口に関する論文や資料について。
   1)『奈良朝時代民政経済の数的研究』(沢田吾一著 柏書房 1972年)
   2)『古京年代記』(村井康彦著 角川書店 1973年)
   3)『古代宮都の探求』(岸俊男著 塙書房 1984年)
   4)鬼頭清明「平城京の人口推計と階層構成の覚書」(下出積與編『日本古代史論輯』 桜風社 1988年)
   5)『奈良市史 通史1』(奈良市 1990年)「・・・諸説からすれば、現在のところ平城京の人口はほぼ10万人前後とみておくのが妥当であろう。」(p.310)
(2)近世頃の奈良市や近畿地方の推定人口に関する資料について。
   1)『近世日本の人口構造』(開山直太郎著 吉川弘文館 1958年)
   2)『近世農村の歴史人口学的研究』(速水融著 東洋経済新報社 1973年)
   3)速水融「明治前期人口統計史年表-附幕府国別人口表」(『日本研究』第9集 1993年)
以上の研究資料がありますが、奈良市についてはほとんどないようです。
わずかに速水融氏の以下の個別研究があります。
速水融「近世奈良東向北町の歴史人口学」(『日本研究』第3集 1990年)

能楽の作品で、奈良盆地東側山中を舞台にしたものはありますか。

奈良盆地の東側の山中を舞台にした能楽の作品ということですが、いろいろと調べてみましたが、全く手がかりが得られませんでした。
ちなみに、奈良盆地の東側を舞台としたものには、例えば、世阿弥作『井筒』は大和国石上里、在原寺(現在の天理市)が舞台となっていますし、『三輪』は三輪山(現在の桜井市)が舞台となっています。しかし上記2作品は山中(月ヶ瀬・都祁・室生など)が舞台とはなっていません。
 
◆出典・参考資料
文学 : 風土と文学』(奈良県史 第9巻) 黒沢幸三編 名著出版 (216.5-439-9)
能楽と奈良』 表章著 奈良市 (773-92)

奈良県下の地蔵の分布状態がわかる書籍を紹介してほしい。

地蔵の分布だけを県下一斉に調査した文献はありません。生駒市と奈良市では石造仏の調査報告書がありますが、その他の市町村の調査報告書はありません。県下の地蔵の分布は、以下の文献から地蔵をピックアップするとある程度わかります。
 
◆出典・参考資料
石造美術』((奈良県史:第7巻) 奈良県史編集委員会編 名著出版 (216.5-439-7)
大和地蔵の詩』 西口紋太郎著 世界文庫 (385.1-23)
大和の石造美術』 川勝政太郎著 天理時報社 (714-1)

正倉院宝物の中の『国家珍宝帳』の全文を読みたい。

『東大寺献物帳』は、天平勝宝8年(756)から天平宝字2年(758)の間に東大寺の盧舎那仏に品々を献じた際の献納品の目録で、正倉院に5巻が現存します。
『国家珍宝帳』というのはその中の一つで、献納品の名称により『国家珍宝帳』、『種々薬帳』、『藤原公真蹟屏風帳』などと呼んでいます。
『国家珍宝帳』あるいは『東大寺献物帳』については、概要を説明したものや活字に翻刻されたもの、『正倉院展目録』等で部分的に紹介したものはありますが、全体をわかりやすく解説したものは見当たりませんでした。
以下に関係文献をあげておきます。
活字翻刻:『大日本古文書 [編年]4』、『大日本仏教全書 東大寺叢書一』、『寧楽遺文中』、『日本の古文書 下』(相田次郎、昭和29年)
謄写翻刻:『校刊美術史料 寺院編 中』
複製本:『東大寺献物帳』(明治13年)
このうち、『校刊美術史料 寺院編 中』は活字の翻刻とはいえ、解題もあって比較的読みやすいです。
なお、『正倉院の書蹟』(日本経済新聞社 1964年)にも『国家珍宝帳』など、『東大寺献物帳』全5巻の概要が紹介されています。また、関根真隆「献物帳の諸問題」(『正倉院年報』第1号 1979年)にも概要が記述されています。
 

明治中期から大正期頃に、奈良の"奈良神"で名前をつけてもらうのが大流行したと聞くが、その所在を教えてほしい。

奈良の民俗関係の資料で流行神や『奈良近代史年表』、『奈良市史』などを見てみましたが、該当する記述は見当たりませんでした。奈良市の教育委員会にも照会しましたが、わかりませんでした。
『奈良県の地名』の索引に「楢神社」がありましたので確認してみたところ、「楢神社は天理市櫟本町にあり、もともと楢村の鎮守社だが、本地を訶(か)梨(り)帝母(ていも)(鬼子母神) とし、近年は多産の神として全国的に知られ、子供を授かると楢あるいは奈良の字を付けている。」と記述されていましたので、お尋ねの場所は天理市櫟本町にある楢神社ではないかと思われます。
 
◆出典・参考資料
奈良県の地名』 (日本歴史地名大系30) 平凡社 (291.034-11-30)

享和2年(1802)~明治18年(1885)の洪水での奈良県下の被害状況について知りたい。

奈良県下の災害史としてまとめられたものには、青木滋一著『奈良県気象災害史』、木村博一編『奈良市災害編年史』があり、編年順にまとめられていますので便利です。
このほか、大きな災害でしたら各市町村史に記述されています。
 
◆出典・参考資料
奈良県気象災害史』 青木滋一著 養徳社 (451.9-11)
奈良市災害編年史』 木村博一編 奈良市 (210.17-4)

高田十郎が昭和26年に奈良県教育委員会より文化功労賞を受賞しているが、そのことが記載されているものが見たい。

『奈良県年鑑 昭和27年度』のp.106~107に、新納忠之助、佐藤小吉、岸熊吉、山下繁雄、金春光太郎、萩原善太郎とともに、「文化功労者表彰」として高田十郎の名前が記載されています。なお、高田十郎の略歴については、奈良県高等学校国語文化会編『まほろば』16号「高田十郎先生特集」や乾健治著『奈良』、平井漠著『民俗学者高田十郎 : 相生市の生んだ』で確認することができます。
 
◆出典・参考資料
奈良縣年鑑 昭和27年度』 大和タイムス社 (216.5-10-4) p.106-107
まほろば』16号 高田十郎先生特集 奈良県高等学校教科等研究会国語部会 (375.8-104)

竜田神社と竜田大社について、とくに歴史的なことや例祭のことを知りたいので、関係する資料を紹介してほしい。

1)『奈良県史5 神社』には「竜田比古竜田比女神社」(p.496)と「竜田坐天御柱国御柱神社」(p.507)の記述があります。
2)『式内社の研究第2巻 宮中・京中・大和』には「龍田坐天御柱国御柱神社」(p.105-107)と「龍田比古龍田比売神社」(p.108-110)の記述があります。
3)『都道府県祭礼事典 奈良県』のp.134-138の部分には「龍田神社秋季大祭・神楓祭」(斑鳩町龍田)、「龍田大社磐瀬杜瀧祭」(三郷町立野)、「龍田大社風鎮祭」(三郷町立野)の各例祭が収録されています。
なお、基本的な事項につきましては『斑鳩町史』や『三郷町史』の民俗編や社寺編をご覧ください。
また、関連資料としては、大宮守友「服部神楽講文書の世界」、大宮守友・薗部寿樹「服部神楽講文書」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第112集)などがあります。
 
◆出典・参考資料
神社』 (奈良県史 第5巻) 池田源太, 宮坂敏和編 名著出版 (216.5-439-5)

明治のはじめに奈良県の権令だった藤井千尋について知りたい。

藤井千尋(フジイ チヒロ)については、明治6~9年に奈良県権令であったことや氏の奈良時代の業績がわかる程度で、それ以上のことはプライベートなことも含めて資料もなく不明です。同様に奈良在住以後の氏の動向は全くわかりませんでした。
藤井権令については、廃藩置県後、最初の県令であった四条隆平(シジョウ タカトシ)の退任後、青山貞(アオヤマ テイ)が奈良県権令に就任する予定でしたが、赴任しないまま他の任務につき、代わって堺県参事であった藤井が明治6年11月19日に奈良県権令に就任したといういきさつがありました。氏の奈良在任期間中の業績といえば、大区会議所の整備・大区小区の組み替えなど、大区小区制の整備、地租改正事業の実施、「学制」以後の小学校の整備、小学教員伝授(伝習)所以降の教員養成機関の設立などがあげられますが、とくに奈良博覧会社の設立と明治8年から始まる奈良博覧会の実施は氏の在任期間中の大きな事業の一つであったといえましょう。明治9年4月、奈良県が廃止され、堺県に合併されましたが、藤井権令のその後の動向はわかりません。
ちなみに、当時県令は原則として奏任四等に位置づけられ、地方行政長官として中央集権政治を支えました。奏任五等に相当するのが権令で、県令の代わりに派遣されることがあったといわれています。