戦争体験文庫 in 代官山 2008 展示資料リスト

子どもたちが見た満州

このコーナーでは、当時の少年少女たちが見た満州を、当時の資料や図書などを通してご紹介します。

満州とは、現在の中国東北部の戦前における呼称であり、当時の日本人にとって特別な意味を持った場所でした。

日本は開国以来、列強特にロシアの侵攻を警戒しており、そのため、軍部は日本本土とロシアの間にある朝鮮半島と満州を日本の勢力下におさめ、日本本土の防備を固めることを目指していました。その結果起こったのが日清戦争、日露戦争です。この二つの戦争の後、日本の朝鮮における優越権が認められ(1910年に併合)、 満州では、遼東半島南端部の租借権と鉄道の一部がロシアより譲渡されました。この時、満州開発を担う組織として設立されたのが、南満州鉄道株式会社(通称、満鉄)です。そしてこれ以後、満州は資源の少ない日本の資源庫として、また余剰人口のはけ口としての役割を期待され、国防的な意味もあいまって「日本の生命線」と呼ばれるようになりました。

1929年に世界恐慌が起こると、そうした意識はさらに拡大しました。1931年、陸軍は満州事変を起こし、満州を占領、翌年、清朝最後の皇帝溥儀を執政に立てて、「満州国」を作り上げます。そして、満州国の国防、政治の実権を握り、日本の大陸進出の軍事的・経済的基地として満州を開発していきました。

また日本政府も満州への移民を積極的に推進しました。1945年、日本の敗戦により満州国が崩壊した当時、満州にいた日本人は155万人といわれています。(ちなみに2005年の奈良県人口は142万人です。)

さて、この時期、日本の少年少女たちは修学旅行や満蒙開拓義勇軍、勤労奉仕隊として満州の地を踏みました。彼らはそこでどのようなものを見たのでしょうか。

子どもたちが見た軍隊

このコーナーでは、当時の子どもたちが軍隊や兵隊をどのように見ていたか、あるいは見せられていたかを当時の資料や図書などを通してご紹介します。

「決戦下」の教育現場では、戦いを勝ち抜くための国民の育成が求められました。こうした要請に応じて、1941年4月1日から、小学校は「国民学校」へと名称を変えました。国民学校令では、「国民学校は皇国の道に則って初等普通教育を施し国民の基礎的練成を為すを以って目的とす」とその教育理念をうたっています。

この国民学校令にあわせて編纂された教科書は、軍部の圧力を受けたため、日本神話や軍隊の話が数多く登場します。その意図は、「皇国民」としての使命を子どもたちに自覚させ、戦争遂行の一翼を担う覚悟を要求するというものでした。また、教科書だけでなく、子どもたちが読む図書や雑誌にも統制がくわえられました。

そこで描かれる兵隊さんの姿は勇ましく、男子は自分も立派な兵隊さんになることを夢み、女子は兵隊さんを支えるためにがんばろうと意気込みました。

このような環境のなかで育った子どもたちの中には、国民学校を卒業した後、憧れの兵隊さんになるために、少年飛行兵に志願した人もたくさんいます。彼らは当時まだ14〜15歳の少年でした。

携帯用日章旗(広げる前) 携帯用日章旗(広げる途中) 携帯用日章旗(広げ終ったところ)

空襲と学童疎開

このコーナーでは、戦争末期に子どもたちが体験した学童疎開や空襲についてご紹介します。

1944年(昭和19年)7月、アメリカ軍はマリアナ諸島(サイパン島など)を占領しました。これにより、日本 本土全域が、アメリカ軍爆撃機B-29の爆撃圏内に入ることになりました。そして以後、終戦を迎えるまで、B-29による日本本土への空襲が行われました。

空襲に備えて、日本政府は空襲の標的となる都市部の国民学校の3年生から6年生の児童を田舎に疎開させることにしました。空襲から将来の戦力となる子どもたちを守ると同時に、都市の防空体制を強化することがねらいでした。原則的には、田舎の親戚や知り合いの家に疎開させることとされましたが(縁故疎開)、そのようなつてのない子どもたちは、先生に連れられて学校の友達と一緒に、田舎の寺や神社などに疎開し、集団生活を送りました(学童疎開)。

子どもたちにとって辛かったのは、十分に食べることができないことでした。ごはんには大根や芋が混ぜられ、味噌汁の具は芋のつるだけ。そんな粗末な献立のうえに量も少なかったので、ひもじくて歯みがき粉や薬を食べていた子もいました。

 1945年8月15日、戦争が終結します。空襲が本格化してから1年程の間に、疎開対象年齢でなかった子どもたちの中には空襲の犠牲になった子が多くいました。

また、疎開先から自宅に帰る子どもたちの中には、自分の疎開中に家族を空襲でなくし、孤児となった子どももいました。戦争は終結を迎え、学校での生活も戦時中と全く違ったものへと変わりましたが、家や家族を失った子どもたちにとっての辛さや苦しさは、その後も終わることはなかったのです…

子どもたちが見た戦後の社会

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