子どもたちが見た満州 ①

かつて日本人は中国東北部を「満州」と呼び、その地に特別なまなざしを向けていました。

日本は開国以来、ロシアの侵攻を防ぎ、日本本土の防備を固めるために、朝鮮半島と満州を勢力下におさめることを目指しました。そして日清・日露戦争の後、朝鮮を併合し、ロシアから遼東半島南端部(旅順・大連地域)の租借権と鉄道の一部を得ました。この時、満州開発を担う組織として設立されたのが、南満州鉄道株式会社(通称満鉄)です。これ以後、満州は日本の資源庫として、また余剰人口のはけ口としての役割を期待され、国防的な意味もあいまって、「日本の生命線」と呼ばれるようになりました。

1929年に世界恐慌が起こると、そうした意識はさらに拡大し、1931年陸軍は満州事変を起こします。そして翌年、清朝最後の皇帝溥儀を執政に立て、「満州国」を建設。国防・政治の実権を握り、日本の大陸進出の基地として満州を開発していきました。終戦時には155万人の日本人が満州にいたとされています(ちなみに現在の奈良県人口は140万人です)。

今回のシリーズ展示「子どもたちが見た満州」では、この満州という地を当時の子どもたちがどのように見ていたのか、また経験したのかを紹介します。第一回目の本展示では、修学旅行の訪問先としての満州を紹介いたします。

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