8.15で終わらなかった戦争 ~日赤奈良班看護婦の手記から①

第459救護班体験記

松岡 喜美子

昭和15年4月    日本赤十字社奈良支部看護婦養成所入所

18年3月    同所卒業

4月  1日  甲種救護看護婦に任用

8月12日 第459救護班要員として奈良支部に召集

大阪港より病院船で大連港に着。奈良班は大連湾を船で45分柳樹屯着。満州国派遣第399部隊今村隊所属。

日露戦争当時ロシヤの兵舎で、建築物は石で形どり、その上煉瓦で造建された頑丈な建築で、部屋の隅に大きなペチカが立っていた。リンゴの時期で小さなリンゴが沢山生っていた。大きな籠一杯20円でした。アカシヤの木、野生の棗(なつめ)の木が沢山あり、海に面した綺麗な所であった。冬になれば零下30度以下で寒いが、湿気が少なく乾燥しているので、それほど寒さを感じなかった。暖房のせいであったか、外へ出ればとても寒く水道は氷る。トイレも氷っていた。

兵隊さん達現役兵でしたので張切った生活で、奈良班、三重班も緊張の続く毎日でした。今村隊長殿が肺炎になられた時は、西山婦長殿と2人毎日官舎へ看病に行かせていただきました。隊長の病気である。冗談一つ出ない。治癒していただいてうれしかったです。思い出深い柳樹屯勤務も8か月で錦州に転属となった。

錦州では関東軍派遣6946部隊中牟田隊所属となった。部隊はバラック建でアンペラを敷き、部屋にはかまどを少し大きくした様なペチカが各室に1つずつ作られていた。板塀の隙間から入って来る風は冷たく、新聞を切って張った思出もなつかしく、夏ともなれば激しい蒙古風が吹き、竜巻が砂煙となって昇り、部屋の中では砂でざらざら、私たちを悩ましたものです。赤い夕陽の満州という歌そのままに、真っ赤な夕日が地平線に沈むひと時、すべてを忘れさせてくれる風情がございました。

凍傷になって指が黒くなっている人、地雷にやられ顔面傷だらけで護送させて来る兵隊さん、傷口が不潔のため化膿した人、敵のたまを受けて骨折している兵隊さん達。戦争の犠牲になられた多くの兵士の事を考える時、御国の為とは言いながら、戦争への疑問と憤怒と悲しみを、今にして思う毎日でございます。私達は兵隊さんと共々、最後の勝利を信じて一生懸命看護にはげみました。

戦争は益々激化し、関東軍派遣6946部隊が内地九州へ転属となった後、錦州分院より496部隊板野隊が来られ(20年7月末)、救護班は京都班が分院より病室付となった。錦県の空に敵の飛行機が飛んでくる様になりました。防空壕の中へ傷病兵共々、何回避難した事か。今考えると恐ろしい気がします。

8月15日終戦の日を迎えました時、天皇陛下のお言葉を聞き、如何なる苦しみ悲しみにも耐えて来たのに、無条件降伏のお言葉に、張りつめた気持がせきを切り、皆んなで泣きました。国破れて山河なし、部隊命令による引揚準備。患者全員原隊に復帰させ、全員髪の毛を剃り落し男子へ変装、安東の鴨緑江製紙会社へ集結。診療所を開きながら、不安の生活を続けていました。夜になると、あちらこちらに満人によるワァーと云う歓声が聞こえて来ました。上司に言われた通り、死ぬ事はやさしいが、生き抜く事がいかに難しいかという事がわかりました。

鴨緑江製紙会社社長さんが、八路軍に宙吊りにされたと聞きました。ある時は日本人が暗殺された事も耳にしました。部隊より自立出来得る人は自由にしてよいとの許しが出ましたので、私は幸い義兄が安東に居たため、患者に頼んで義兄に連絡をとり迎えに来てもらいました。義兄は剃髪の私を見て、南方で戦死した兄が生きていたのかと一瞬思ったと話していた。物騒な毎日でしたので外出できません。よくぞ生きて来た自分が不思議にさえ思えてなりません。

安東へ引揚げる時、列車の中よりロシア兵が武装解除した数知れない兵器、自動車、馬等次から次へシベリアに送られて行く列車を目前に見ながら、いかんともする事が出来ません。ロシア軍が撤退した後、八路軍(共産系)が入り、市場の戸を閉めて、娘さんを看護婦に使うため大勢連れて行かれたそうです。

又江岸通りやガード下で日本人が殺されたた等、聞かされるようになった。ロシア兵の鉄砲の音がドーン、ドーンと聞こえ物騒な町になっている。流れ玉に当たると危険と、外出する人が少なくなっている。

佐田さん、山田明さん、上西さん等と自分の持物を売りに出かけたり、又つらい毎日を話合いながら涙した事も何度かありました。

私は難民救済をしている木村様が人を求めていると知人に聞き、救済事業に加えてもらう事になった。木村さん宅では、トウモロコシの粉でパンを造って、難民に売らせていた。私は家事を受け持っていた。木村さんは広島の人で大連に住んでいた人で、日本語は勿論、ロシア語、中国語等達弁で交際が上手なため、粉末等材料は沢山入手できる様なシステムになっている。奥さんは夏川静江等と名を高めた女優であったと話された美人だった。お世話になって居れば不自由はないので、義兄に連絡することが遠ざかり、心配しているのに尻が温まると何も連絡しないと叱られた。

ある日引揚が始まると聞き、木村さんに暇乞いをして、7月引揚団体に入り、何千人という大部隊(2000人以上)が、野越え山越え川を渡って行軍した。八路軍→中央軍の区域があって、目ぼしいものがあれば、それぞれのところでリュックサックの中から抜き取られた。私は途中発熱して歩けなくなったので、義兄に先に帰って下さいと頼んだ。兄は残して帰れば私の家に申し訳ない、残す訳には出来ない、と言ってくれた。朝になってトイレで回虫が玉になって出たので、それから楽になった。

途中大きな工場の倉庫で一夜を過ごした故、少し安楽に出来た。ムシロを吊り下げたトイレが沢山造ってあったので、覗くと沢山の回虫が目についた。皆んなが同じ症状だったのかと思った。神様、仏様のお救いだったのかと、手を合わせて感謝しました。途中亡くなられた方や子供さん等、お気の毒でした。朝になれば私は奇蹟的に熱も引き、皆について行く事が出来ました。捕虜になったみじめさ、情けなさを充分味わって葫蘆島に着いた。この時程、神様、仏様のお蔭と思ったことはない。

葫蘆島では、注射やらBHCと云う消毒粉末を頭に振りかけられた。予防注射とシラミの消毒との事だった。撲滅しなくば乗船させられないと、暫らく滞在させられた。私達を乗せて帰ってくれる新興丸が待って下さっている。

いよいよ乗船、新興丸での麦御飯、サツマイモの蔓で作った副食物、美味しくて今でも忘れられない。高粱、粟、大豆等を食物として帰って来た我々にとって、何よりの御馳走で、手を合わせて食べさせてもらった。日本の土地が見えた時、嬉しくて友達と抱き合って喜んだ。新興丸一同様が色々と芸や歌等でなぐさめてくれて有難うございました。引揚事務局より、国防色毛布1枚ずついただきました。10円で買った巻き寿司も美味しかった。

身の上には何もなかった等、尋ねてもらったが、幸いにして私の身には何もなく通り抜けられた。生家に帰れてよかった。両親兄姉弟等が喜んでくれた。内地でも大変皆様方苦労された由、話を聞き、頭の下がる思いで一杯でございます。戦後の経済成長のうれしさに、つくづく戦争はいやだが、日本国に生まれた有難さをつくづく感じ、感謝させていただきながら、残り少ない人生を積み重ねていき度いと思って居ります。

記憶を辿って

居場 花枝

1943年8月12日
459救護班の一員として関東軍に派遣される。

  • 1944年4月19日
    錦州陸軍病院拉々屯分院に転属(この間4946部隊より496部隊に編入される)
  • 同     23日
    496部隊と共に、旧満州と朝鮮国境の鴨緑江を渡る途中、列車は止められ満州領の安東市まで引き戻された。以後ソ連軍より身を守るために、女性は全員頭を丸め軍服を着用。部隊は大半の兵士がソ連に連行され、ある者は逃亡して、残った老弱、女子によって小さな診療所を開く等、細々と生活を続ける。
  • 1953年(私の場合は8月)
    召集を受けて以来、丸10年にてやっと祖国(舞鶴)の土を踏む。

共産党と国民党による内戦が続いた中国で、共産党軍の衛生部員として、私達は使われました。お国の為に、と自ら望んで誇りを持って日赤看護婦の道を選んだ私には、共産主義の教育には馴染めず、でも敗戦国民の立場では反論する勇気も無く、片言の通訳が「皆同じ、皆同じ」と、呪文の様に言うのを右から左へと聞き流しながら、故里の山川や田畑を思い浮かべて居ました。

今も鮮烈に脳裡に残る光景が有ります。爆傷を負って、顔も定かに判らず、足の皮は引きち切れて筋肉が丸出し、片方の腎臓が飛び出して意識は朦朧の様子。目も見えないまま、言葉にならない日本語を口走って居るだけで、日本人と察しても名前を知る事も力づける言葉も無く、唯ガーゼで傷を覆うだけでなすすべも無く後送しましたが、何とも悲惨でその方の無念さを察すると、今でも胸が痛むつらい思い出です。

一つ幸いだった事は、その頃あまり文明が発達して居なかった中国では、看護婦を技術者として重宝したらしく、中国兵と差別無く待遇してくれた事です。食物もコウリャン、粟、トウモロコシ等が主で、粗食でも飢える事が無かった事は、ソ連に連行された軍人の皆さんに比べれば、幸せだったと思います。

気丈だった母は、兄が出征する時「今が一番の死に時やで(独身の間は後顧の憂いが少なくて)」と励まして居たのを覚えて居ますが、内心は悲痛だったに違い有りません。病院勤務の私にさえ、千人針を持たせたのですから・・・。

その母も兄の帰還は見届けたものの、私が帰るまでは待てずに亡くなって居ました。千人針が唯一母の形見です。

色々な体験から、平和の大切さを考えさせられる昨今です。今起きている物騒な世界情勢を考えても、真の平和を願わずに居られません。

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抑留に思う

福本 裕照

終戦、軍服に変装、安東の鴨緑江製紙会社社宅に分宿していた時、八路軍の要請に応じ、医療看護に従事することになり、ここから私共の抑留生活が始まった。始め岫巌に連行され、医師3名と合流、早速業務開始。凍傷、私共の今だかつて経験したことのないガス壊疽・破傷風等々ぞくぞく護送され、包帯交換後、終われば後方に送ること毎日の繰り返しで不安が増すばかり。いつも医師との話題になることは、こんな軍隊にいては何時帰国できるか見通しもつかず。

かねて計画されていたように、仕事が終われば小高い丘に登り、あの部落に行くとよいかもしれない。人間は塩と水があれば、4、5日は生きられるからと話合っていた。ある晩看護婦1名拉致、誘導尋問、早速医師3名どこかに連行され、そのまま消息がなかった。その後私達は銃剣を突きつけられ、監視下での業務が続いた。業務は一ヶ所に滞在することなく、2、3日で移動することが殆どで、昼間の移動中は敵機来襲時、隊列の奇数偶数に分れ数分間伏せその間を弾丸があられの如く落ちて行く。そのため多くは、昼間は休息夜間歩く。前進、後退絶えず行きつ戻りつの日々である。雨、風、雪、山であろうと何であろうと橋がなくともついて行くしか仕方ない。落伍すれば、国民党につかまってしまうのである。

こうして国民党との内戦も共産党の勝利となり、中華人民共和国成立後、日本との国交正常化に伴い、8年間の抑留を終え無事帰国した。思い出は無限に尽きないが、心に残る事実を紹介したい。

感謝(一)

ある部落に分宿した際、先輩安場綾子さん高熱持続し、中国人医師より、ある日私にあの方はもう駄目だから、棺桶の準備をしなければとの言。どうしよう、こんな山奥で誰に相談する人もなし。そんな時に限り、内戦の勝敗は知るよしもなかった。相変らず移動が続いた。

歩く者と重症患者は別行動。重症患者は橇。木で作った物で、患者を毛布でくるみその上にのせ、縛りつけ2人で引張る。輸送は民間人だから、面倒臭いと捨てられ逃げられても仕方がないが、どんな雨の日、雪の日でも、ある目的地までそれが完うさせてくれた。私は橇がつくまでどんなに心配して待ったことか。

ある日当番兵が、日本人は病気になればお粥が食べたいだろうから、炊いて上げて下さいと、お碗に一杯の白米を持って来てくれた。早速軟らかい御飯に卵をかけ食べさせた。あの時の美味かった御飯の味は忘れられない、と今でも時々話題になっている。お陰様で元気になって、多大の偉業と協力に対し、中国の大功と言う賞まで頂きました。

感謝(二)

味方の兵の上のみか、言も通はぬあだまでも、いとねんごろに看護する、心の色は赤十字、と歌詞にもあるように、そこに負傷兵がいる。それは軽傷であれ重傷であれ、私達にとっては放っておくことは出来ないのである。

ある日看護婦1名、手術介助に経験のある者前方にと要請され、1人で不安だったが、私が同行した。貨車で目的地につくや否や業務開始。医師は中国の方であった。設備は勿論のこと、医療機械の不便の程想像もつかない。

宿泊は隣の家に世話になっている。その家は朝鮮の家、両親2姉妹の4人家族で、その姉さんは少し日本語が出来、本当によくして頂いた。

食事は中国人と一緒。両親いわく、八路軍での食事は少しだけ食べて帰りなさい。と言って帰って来れば、裏の方に足のついたお膳に、白いご飯でお腹一杯食べなさい、と。姉がつききりで八路軍が呼びにこられた場合は「トイレに行っていた」と出てくるようにと、両親が縁側で見張りをしてくれ、私をもてなしてくれた。夜は糊のついたふとん、家の中には黒いピカピカのカマドもあり、清潔な家だった。業務終り、またと逢うことのないこの家族に名残を惜しんで、後方に戻ってきた。今でもありがたいと共に、遠い国の両親、2姉妹を想い浮かべることがある。

恐怖の1時間

今思えば、抑留も終りの頃であった。雨の多い長沙に滞在した時、部隊の宿泊している所右端から左端まで、約1キロ各1名の歩哨が必要とのこと。まさか日本人の私が信用されているのか、歩哨に立つとは思わぬこと。「時間ですよ、起きなさい」と言われ、前任者と交代する。全身震えながらの1時間。拙い中国語の合言葉、藁人間が銃を持っている様、必死の1時間であった。話せば一言にしか過ぎないが、本当に怖かった。長い長い1時間であった。 

初めは、何を言われても帰りたい一心で反感を持ち、そのうえ言葉は分からず、食べ物は油こく口に合わず、衣類は虱、住いはアンペラの上、特に夜間に多い移動。移動・患者のないときは、月曜から金曜まで政治・医学の学習と討論会。土曜と日曜は自由であった。週1回の発揚批評があり、欠席は許されなかった。お互い良いところと悪いところ、あらゆる角度より検討し反省批評し合う。たとえ上司であろうと。年月を重ねるに従ってお互いの交流もできるように、私共もこのころから協力するようになっていた。

みせしめ

ある時司令部より、車が移動中にもかかわらず、日本人看護婦集合がかかった。それは銃殺の見学(搾取して大地主になった人)にと、運動場のような広場の堤に連れて行かれた。ややあって後手に縛られた搾取した人5、6人。背中には罪状が書きつけられ町中を歩かせ、広場に連行され、ある位置に止められた。前に大きな穴が掘られていた。銃声一発その人は頭から穴に落ち込んだ。同情すれば反動派と見なされる。複雑な気持ちで無言で帰った。

中国内戦の必要に応じ、看護技術者として8年間の抑留。青春の大半が過ぎた。戦争の悲惨さみじめさを眼のあたりにみて、平和のありがたさをしみじみと思う。こんな苦しみ悲しみは私達だけで充分である。

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戦争と私たち

安場 アヤ子

はじめに

昭和20年11月、停戦後列車で旧満州国錦州省錦県から、列車で朝鮮方面に移動中、安東駅で下車させられ、中共軍に抑留された。その時の第一条件に、交通が開通すれば、帰国してよいとの事であった。このことについては、旧満州の通化に移動した際、目前に復員列車の通過を眼のあたりに見て、早速意見を申し入れたにもかかわらず、残留一般人のことであって、当時の私共には適用されなかった。第二の条件、生命財産の保証、財産らしき財産はなかったが、生命の危険に曝されることもなかった。それから8年を経て、私共日赤奈良班第459救護班の抑留者7名全員、昭和28年3、5、7月の三次に亘り無事帰国した。国交正常化しつつあった折から、日本赤十字社、中国側のただならぬご尽力に感謝している。

思うに、戦勝に次ぐ戦勝の日本の報道、南京陥落に提灯行列、喜びに皇軍をたたえ、応召兵士を栄誉と戦地に送り続けた。けれども当時の戦争の終結を、望まない者はいなかったのではないか。昭和20年8月15日終戦。それも思いもよらぬ、日本の敗戦に終わった。

私は応召、抑留と長かった10年、その分考える事柄も多かった。この間、日本軍傷病軍人との会話の中から、抑留八路軍に従事する人達との会話から、現地住民の声から、日本軍が残虐非道な行いをした事を聞かされ、帰国後南京大虐殺の事実を知った。この度、日中友好協会等の協力のもとに、南京城壁の修復が行われたと聞く。形あるものはこのように修復は可能であるが、心の傷(いた)みは癒ゆることはないであろう。あれこれ思う時、戦争にかき立てられたのは何であったのだろうか。戦争の悲惨さ、愚かさを伝え、ふたたび戦争への道を歩まないためにと思い、文をしたためた。

安場 アヤ子 平成11年3月

慈父沢村栄美(しげみ)院長の教え

先生には、和歌山赤十字病院救護看護婦養成所入学当初より、昭和16年7月院長が退任されるまでの期間、赤十字精神、看護婦としての心構えの基礎を学んだ。先輩から聞くところによると、「私共に何か落度があった時は『奈良支部は、和歌山日赤養成で沢村院長に教育を受けている筈だが、こんな教育を受けたのか』とお叱りを受けたりとか、また『あんた達はどこの卒業生かね』と聞かれ、私共お答えするだけで『ああ、あの沢村院長の処か。それなら大丈夫だ』と太鼓判を押して下さる程の、看護婦教育に熱心な事で知られる院長だった。

先生の訓話は毎週2時間続いた。机と胸、背と椅子の間の間隔はいずれも握りこぶし一つ、不動の姿勢であった。勿論のこと、机の整列も特に整然としていて、こんなこともあった。先生は「看護婦が走る時は、患者がご臨終の時だけであり、患者に心身共安らかに過ごしていただくためには、看護婦自身の落付いた言動が条件です」と。この時間には言葉づかいは勿論のこと、静か歩く訓練もあった。それは一同目を閉じ、1人ずつ教室を1周する。当時教室は板張りであり、音を立てないで歩くことは案外むつかしい。「あなた上手に歩けたねえ、まったく音がしなかったもの」と言うと、彼女曰く「私、靴を脱いで歩いたのよ」と要領のよい友もいた。勿論先生も目を閉じ、耳をすませておられたのだろう。

電話の応対  前線の救護にあっては、電話電報の対応の必要性から、この特訓も行われた。院長室への電話の取次ぎには、一層神経を使った。緊張の余り対応が不充分な場合には、早速2階の院長室から降りてこられ、「今の対応は誰だね、もう少し落付いて、言葉づかいを丁寧に、もう一度やってごらんなさい」と先生の納得ゆかれるまで繰返すのである。お蔭でイロハのイ、キッテのキ等と打電の方法も一応習得するまでになった。

勿汚名(名を汚す勿れ)  昭和16年12月8日、戦局は大東亜戦争として激化をたどり、先輩卒業生は南方に、北方にと応召救護班が編成され、任地に向かはれる。私共生徒は和歌山駅に見送りを繰り返し、武運を祈ると共に、凛々しい制服姿にすっかり魅せられていた。先生は、この召された看護婦全員に「勿汚名」と揮毫をした紙片を贈られ、皆んなの心に深く刻み込まれていたようである。

救護看護婦には卒業後12年間、召集に応ずることが義務づけられていた。手薄になった病院の看護婦業務は、この方達により充して下さっていて、中には少し長めの白衣をつけて、「早う暖かくなってほしいねー」等とつぶやいて居られた事なども今になって思い出される。

昭和16年10月、1年先輩の方は6ヶ月繰上げ卒業となり、その翌日には応召、制服に赤襷をかけての挨拶まわり、召集解除になった先輩が再び南方派遣、病院には緊迫した空気が流れる。翌年、期待していた私共の繰上げ卒業はなく、卒業生代理を命ぜられ、昭和18年3月日卒業、和歌山支部の同期生は早や任地に向かった。同年8月奈良支部の私共にも、やっと念願かなってお召しを受けた。

先生の風呂敷包み  誰が日本の敗戦を思うていたであろうか。先生はこうして救護要員として召された数多くの看護婦たちの安否を気遣い、一刻たりともお心を離れたことはなかったであろう。終戦後消息を得た範囲内でその労をねぎらい、また情況をお聞きになったようで、関係する会合には、必ず資料を入れた風呂敷包みを携えてのご出席であった。私は抑留期間が長かったのでご心配をおかけした方で、昭和28年5月、帰国後はじめての日赤看護婦同窓会に出席した時も同様、その風呂敷包みが机上にあった。先生は安堵されたのか、慈顔あふれる表情で迎えて下さり、「今までの情況を話してみなさい」と。私も報告したのを覚えている。

日赤応召回顧録   先生はこのようにして看護婦の口述、手記により収集された記録を、3篇の日赤応召看護婦回想録として編集された。昭和30年奈良日赤病院に在職中の私にも、1、3編をご恵送下さった。先生は序説のはじめに「私の心から敬愛していた日赤の婦長、看護婦」と記されていた。私共看護婦にとって最高のことばであった。収録の内容は涙なくして読めないとは、このことかと思う程に悲痛な極まりないものだった。ここに一部を掲げる。ビルマに派遣された私の同期生の口述は、婦長と班員の自決、終戦も伝わらずビルマのジャングルの中、病を冒して死の行軍の果て、帰らぬ人となったもう1人の同期生の情況など、詳細に記されている。私は長い眉睫毛の、あのやさしかった彼女を憶うと、胸の痛むのを覚える。

先生はこの回想録のあとがきに、「私は独り瞑目してあれを思い、これを考え、追懐また追懐、誠に悲嘆の情があります」と記されており、教え子を憶うご心情がよく伺われた。また、末筆に、避難中にビルマ一般地方人に接した班の看護婦(私の同期生)が、すぐ赤十字人と認められ、大体において、赤十字条約相応の親愛と敬意を以て待遇された、と記されているのを拝読し終えた私は、何か一つ救われたような気がした。先生のこのご努力の回想録がなかったならば、赤十字看護婦の偉大な業績も、海の藻屑となり、また山野に草むして埋もれてしまったかも知れない。

昭和48年、先生は東京で93歳の天寿を全うされた。哀悼の念、一入であった。今に先生を語る時、身を正すような気持ちになるのは何であろうか。不思議なことである。先生は何時の場合にも、見守って下さっていると信じている。またこの戦争体験を記す上に、先生をさしおいては書けないと思った。

第459救護班

昭和18年8月12日待ちに待ったお召を受けて、日赤奈良県支部第459救護班が編成された。私共の班名であった。

救護班の構成 婦長1名、看護婦20名、使丁1名、書記のいない班で婦長が兼務した。

婦長 西山ハツエ

看護婦 首藤澄江(旧上西)、居場花枝(旧植田)、松岡喜美子(旧本田)、安場アヤ子、平岩好子(旧山野)、佐田延子、桜井トシ子(旧森本)、工門亭雅子、福本裕照(旧西田智津子)、多田フサエ、中井トシ子(旧土田)、中尾登美(旧北村)、喜多梅子(旧植田)、今田好(旧三浦)、福岡喜美子(旧中辻)、吉村キヨヱ(旧斧田)、佐藤ヨシエ(旧堀田)、木谷輝子(旧桑原)、今西明(旧山田)、北川フジエ(旧大庭)

使丁 永野芳(かおる)

婦長 山中久子 西山婦長の交代要員。昭和20年5月着任。

看護婦 米田きよゑ(旧山田)、高橋カズエ(旧猪上) 三浦好の交代要員。昭和20年5月着任。

任地に赴く   行く先は明されていなかった。翌日大阪日赤に集合、全国から20個班400余名正装勢揃い、緊張の一時。「大日本帝国軍人として天皇陛下に忠誠を誓います」との宣誓式を終え、夜蔭に乗じて大阪港を出発、1週間を船底で送る。ある1日を演芸大会で過ごした。逢うと別れの会になっていたのであろうか。

 

期待と不安   大連埠頭に到着した私共には、待ち受けた救護班配属部隊の将校の案内で、それぞれ任地に向った。和歌山班の同期生さえにも、ことばを交わすことも、別れを惜しむ時間もなく、秘密の臭いがした。後で伝わったところによるとソ連国境近く虎林に、和歌山班の任地は熊岳城であった。私共の班は関東州柳樹屯陸軍病院に配属される事になり、三重県支部救護班と同勤であった。大連より船で僅かなところに位置し、到着すると対岸に先程の大連港がぼんやり見えていた。そう言えば和歌山日赤病院から、平田眼科医が大連に赴任しておられることを思い出し、大連も近しいように思えた。

大木のアカシア並木が海辺に沿ってトンネルをなしていた。宿舎は日露戦争当時のもののようで、二重窓のがっちりした明るい建物で、部屋の真中には3人かかえでもあるような大きなペチカが、でんとかまえていた。

三重班と共に重症病棟を受持った。勿論1人夜勤、そんな時死亡患者も少なくなく、経験の少ない私はまだまだ不安が多かった。「風邪気味のようだから交代を出そうか」と婦長が言って下さったにもかかわらず、これしきの事と押して夜勤もつづけ、疲れも知らなかった。廊下の掃除ともなれば、苦力(くーりー)に水を運ばせ、「ソレー」と婦長の一声に、板張りの廊下に水を撒く。満州の冬の到来は早く、足指を真赤にして、デッキブラシでジャリジャリ音を立てながら洗い上げる。その頃の私共はまだ若さに気合がかかっていた。三重班とは表面は穏やかでも、何かと競争意識があり、朝礼なども先を争って整列したものである。

憩の一刻(ひととき)   休日ともなれば庭も同然の海に出て天然の牡蠣とり、菜園ではさつま芋掘りと出来ばえもよく、故郷を思いつつ賞味した。

転属   昭和19年4月19日、錦州省錦県錦州陸軍病院に転属命令あり、拉々屯分院勤務となる。

開設間もないと言われるこの病院は、畑の真ん中に立つ急造バラック建ての施設で、敷地は広かった。宿舎ともなる部屋の床はアンペラで、片隅に1人宛6~7枚の毛布が軍隊式にきちんと重ねられていて私共を待っていてくれたが、私共何かと柳樹屯をなつかしかしんだ。

病室はここも満杯で6946部隊の衛生兵で守っておられ、病室のドアには○○氏(冷し)と白墨で記されていて、多分発熱患者で水枕を必要とすることを表しているのだろう。何とも殺風景であった。最初の救護班とあって、何かと重宝がられた。重症患者も例外でなく夜勤中、栄養失調で下痢が続き蝋人形のような患者が弱々しく『看護婦さん、寒くって寒くってやり切れないや』と。特に夜間の冷えは格別で、この患者の訴えにもかかわらず、配給のペチカ用石炭は底をつき、夜勤の相棒と2人して、ほど遠い集積所まで取り(盗み)に行って暖をとった。

聖戦    当時の陸軍病院では、臨時の病衣汚染の洗濯も私共の手にかかっており、とくに冬用の病衣は手で絞ることは一苦労であった。そんな時「手伝おうか」と、必ず手を貸してくれるのは原隊復帰前の体格のがっちりした上等兵で、私共にとっては大助かりであった。時に話してくれるのは前線のことである。「安場さんこんなこと信じられるかい。俺達掃蕩と言えば、住民の家屋を焼き掃い、それも家人を中に閉じ込めてのこと。耐えきれず出て来る人達を銃剣でブスリと。若い娘でも墨で顔を真黒くして命乞いすることがあっても」と。まだ続く「妊婦を見れば二頭の馬を連れてきては、妊婦の右足を一匹の馬脚に、左足を他の一匹の馬脚につなぎ、同時に馬の臀部を叩く。あとはご想像に任せるよ」と空しそうに語る。私は一瞬手を止め、信じられない聖戦の内なるもの、皇軍、聖戦?何だろう。私は言葉もなく複雑な気持であった。病癒えた兵士はどのような気持ちで原隊復帰していったのだろうか。

黄塵   ここに着任した当時、悩まされたのはひどい黄塵である。窓と言う窓全部目張りが施してあっても、ひどい風の日はまるで砂時計のように、見る見るうちに枠だけではなく、部屋一面に積もって行くのである。一度外出ともなれば皆泥人形、恰幅のある西山婦長などは見事なものだった。

不思議   そのうち誰が見つけたのか、誰言うともなく、周囲の畑には瑪瑙(めのう)が落ちているとの噂が広がり、柵を越えて私共も出かけた。ある、ある、あまり大きいものはないがポツ、ポツと畝の上にも。私は小さな印鑑にでもなるかと2、3個持ち帰った。

不穏な空気 

昭和20年5月 突然日本の国土防衛のためと、勤務を同じくしていた第6946部隊に移動命令があり、全員武装し夜陰に乗じて三三五五出発されるのを柵越しに見送り、別れを惜しんだ。詳細な情報も伝わることなく不安がよぎる。さっそく本院から496部隊が転属して業務継続される。このようなことがあった頃から、ソ連軍が侵入して来ている、それも承徳までもと噂が流れる。ソ連が参戦したのだろうか、承徳を地図で見定める。信じられない。病院の上空高く、爆撃機B29が編隊で毎日通過し、不穏な状態が続く。大陸の夕日は真赤で大きい。あの時もいつもと変わりなく、ゆっくりと沈んでいった。

終戦   その日も暑い日であった。私は同勤者と共に、亡くなられた患者落合さんを担架で霊安室にお運びしての帰りであった。同僚が「戦争は終わったよ、日本が負けたのよ」と聞かせてくれた。私はガタガタと全身の力が、全身の血液が抜け落ちる様に感じた。信じようにも信じられなかった。どうして皇軍が、これからどうなるのだろう。私はとっさに鎖でつながれた奴隷のことを想像した。それとも女性であることの弱味も頭をよぎり、不安がまた不安に拡大していく。

大移動  8月17日午後関東軍司令部より、496部隊は救護班を編成して前線へ出動命令を受けたようであったが、その後連絡が途絶え、入院患者、部隊、救護班、軍医、軍属、家族等、所持品最小限と制限され、貨車にて同日錦県駅を出発。一般残留邦人の不安気な様子が心に残る。翌18日奉天着、患者のみ奉天陸軍病院に転送、その他は全員朝鮮方向に向い、列車移動した。

断髪  ゴトン、と列車は止った。どの辺だろうと思って窓から見ると川の上であった。「ここは鴨緑江の橋の上だよ」と誰かが教えてくれた。そう言われて前方を見ると、機関車は向う岸に着いているようにも思えた。私共はこのまま朝鮮を通過して、帰国できるのでないかと一途の期待をかけていたところであった。ややあって列車は意に反し安東に戻され、安東大和在満国民学校に収容された。看護婦は陸軍看護婦、日赤救護班は奈良、帝都班他に挺身隊もいて、軍人軍属と大所帯だった。毎朝隊長から婦長に伝達があり、その日はいつもより長いように思った。ややあって戻ってこられた婦長は「心して聞いて下さい。今日は念入りにお化粧してもよろしい、思いっきり話をしてもよろしい。今日の伝達は悲しすぎますが、世相を考えて、身の安全を守る為の命令で、黒髪を切って軍服を着用することになった」との事で、一瞬しーんとなり、皆無言で動こうともしなかった。聞くところによると、奉天のソ連兵は暴動を起し、日本居留民の財産等を略奪、婦女に対する辱しめに余る事態が連日発生し、このような情報に、若い将校の意見では、いっそ足手纏いになる婦女子、子供の薬殺など話題になったが、結果的に早まる必要はなく、総合意見でもこのような結論になったとのことであった。

しばらくして廊下から「早くしないか」と隊長のきびしい声、婦長が「私から」と女性の魂である黒髪に、ザクッと鋏を入れられる。みんな悲しかったが、涙を流している場合ではない。婦長に続いた。この儀式の済むのを待ち構えていたように、衛生兵が入って来て、みな丸刈りに仕上げてくれて、軍服が支給された。また婦長の伝達は続く。「部隊から青酸カリの配分を受けたが、私が責任を持って預っておきます」と。私の心はもう決まっていた。誰しもがそうであったと思う。

このことがあってからその翌日鴨緑江製紙会社に移動があり、女性は同会社の社宅に分散しお世話になった。ここではまだ剣銃を持った門衛が居て、「何んだ、腰砕けの兵隊と思ったら、女性だったのか」とあっさり見破られてしまっていた。

武装解除   8月下旬、ソ連軍の命令で武装解除のあったのもここであった。兵器類そのほか貴重品まで提出、皆んな口惜しく思った。その時私は80のおばあさんになっても、今後日本が勝ったなら是非出てくるからと歯をくいしばった。

9月になって再びソ連軍の命令により、軍人をソ連領に送るため、安東駅に集合の指示が出て、年配の軍医を残して全部出発された。4、5日して危険を冒して安東に戻ってこられた方が何人かあった。安東駅では、捕虜列車第何号と記されていたようであった。

しおん花  「ほほー、いいもんだよなぁ」と低音の速水軍医の声に振りむくと、京都班の山田看護婦がどこで手に入れたのか、紫のしおん花を、空瓶を利用してみごとに活けてくれていたのであった。心なごむ一刻さえなかった。まして花を活けることなど、すっかり忘れてしまっていたあの頃、10月だったと思う。軍人のいない部隊に、心細いながらも残りの医療品で社宅内に診療所が開設され、老軍医と看護婦で、現地住民と軍属その家族の診察に従事していたのであった。もう私共の丸坊主に軍服姿も気にならない程であったが、秋風が吹く頃になると不安と郷愁の念を、どうすることもできなかった。そんな折のしおん花は、居合わせた軍医、私共看護婦の心をどれほどなごませてくれたことか。軍医のほほーと感嘆させられた気持ちもよく分る。山田看護婦の心がけのよさを感じる。やはり毎年秋になると、しおん花の感激が思い出されると共に、今はその紫の花がやさしく語りかけているかのように思う。

抑留(中国解放戦争に従って) 

鴨緑江製糸会社での不穏な毎日が続くうち、11月乾いた地面を秋風がカサカサと木の葉を追いやる頃になって、八路軍(中共軍)から看護業務に協力してほしい、との要求が出た。どうやら中国の内戦(中共軍と国民党との)にまきこまれた様子であった。その時の条件として一、生命財産を保証する。二、交通が開通すれば帰国してよい、三、一度来てみて、意に沿わなければここに帰ってよい。この3条件で、職員60名全員でなく、2分の1の人員でよいとの事であった。交渉に来た人は、一見温厚そうな老人幹部で山東省出身の曲所長と聞いた。2名の少年通訳がついていた。この要求を拒んではすまされない。希望者とて更になく、私共は話し合いの末、悲しい運命のくじ引きとなった。私はくじ運に弱いほうで、こんな時に当たってしまった側である。誰かが応じなければ納まるはずもなく、3条件を正直に受け止めて覚悟はできていた。この問題は一度中止になったが再燃し、頼みの部隊の人たち、婦長や友人とも別れる日が来た。当日になって何か理由の生じたのか、荷物だけ届けられ、来ない者もあった。後日他の2人が補充員として来て、奈良班では7名となった。

最初集合させられたのは、安東市から遠くない岫厳と言う所であった。私共に安心感を与える為にか、どこかで徴収して来たのであろう、新品の日本製のふとんの支給があったり、また日本人はお風呂が好きだから入りなさいと案内された。それはプールのような大きな浴槽であった。私共にとっては何もかも不安につながり、しばらくためらっていたが、勇気を出して一斉に入った。何事もなく過ぎ、何日ぶりかで洗髪もすませひとまずはすっきりした。

食事、特に副食については油っこいものが多く、汁物の上にはすき間がない位油がギラギラ浮いていて、友人の西田さん(現在東大阪市在住)はどうしても口に合わず梅干しばかりで済ませていた。

移動のはじまり   ここで日本人の医師もおられ、講義を受けたり勉強会が行われたが、いつまでものんびりしているわけではなく、緊迫した空気が漂い移動がはじまった。と同時にそれぞれ薬室、病室、処置室と勤務の分担がきめられた。日本人ばかりではなく、中国人(主に山東省の人が多かった)を交えての班だった。私は処置室の業務を受け持つことになり、他の2人は中国人であった。穏やかな顔立ちであり実のところホッとしていた。病室係には各班長がいて、最初日本人は3、4人含まれていた。資格のないものもいてそれぞれ分担があった。中には「よしよし泣かないでネ」と流暢に日本語を話す女性の護士もいた。私の業務は処置室に来る人達の処理、各班で用いる器械の準備であった。病室で用いる消毒器、と言っても電気のない所がほとんどで、薪を用いて煮沸させるのであって、消毒器は真黒であった。業務に取り組む姿勢はよく分かるが、医療看護の水準は想像もつかない程低いものであった。

ことばの問題はたびたび通訳が来るわけでもないが、身ぶり手ぶりと漢字で書けばほとんど通じた。私はそのころから中国語を学ぶことに興味を持ち始めていた。

いつまでも同一場所で待機しているのではなく、絶えず移動があり、所持品は薄いふとんにくるんで、背嚢のようにして背負う(日本人の荷物は暗黙のうちに薬局、処置室の車に便乗させてくれていた)。そして戦況に応じて前進後退を繰返し、夜中に起こされただちに出発した。(たぶん後退していたのであろう)

だれかが「昨夜大きな音響があったので行って見よう」と言うので同行してみると、爆弾の投下で民家には支障がなかったものの、直径15メートル程の穴ができていた。昼間の移動には機銃掃射と言うのか、すぐ近くに弾玉が飛んでくると言う、危険極まりないものであった。

病院と言っても、到着したところの村落で学校又は公共施設を借り、ベッドもなくふとんのまま土間に寝かせることが多く、従事者の宿舎は民家の一部を借りての分宿であった。こんな時冷え冷えとした夜にオンドルはとても温かくありがたかった。

八路軍の教育方針であろうか、このような状況下でも皆民家の人達には丁重で親切、時間の許す限り水汲み、庭掃除等進んで手助けをしていた。決して私共には強要しなかった。

何時の程にか、日本人医師も加わるようになっていた。その方の奥様が「あの人達姉ちゃんやんね?おばちゃんやんね?って子供が聞くのですよ」と笑いながら話されるのである。それもその筈、私共の断髪後の髪ものびやらず、八路軍から支給の綿入れの上下の服、綿入れの帽子、靴下を一様に着用しているのであるから。この先生とご家族は帰国時までご一緒であった。

脱出計画   どうやら私共は鴨緑江を遡っているようにも思った。対岸には北朝鮮が見える時もあった。そこに到着すればもしや帰国できるのではなはないかと、一途の希望がでて来た。日本の医師を中心にここを脱出する計画を密かに立てていたが、どうしてばれたものか、翌日日本人のかかわった医師だけは、姿がもうなかった。私共にはその後警戒の目が一段と厳しくなったのを感じた。

そんなことがあってから急にあわただしく、早や医療チームの到着を待っている患者があったり、夜間に患者が運ばれて来たり不定で、しかもこの寒中遠い道程を牛、馬車で搬送されて来る。掛物からはみ出していたのであろうか、足の指先が全部黒ずみ凍傷を起し、一寸触れただけでもはや関節からダラリと垂れてしまう患者、または既に息断えている患者もあり、護送に有識者のいなかった事を気の毒に思う他なく、私共の想像もつかない事がよくあった。時には担架での護送もあった。担架要員は日本人であった。闇の中から日本人同志の会話が聞こえてくるが、ことばも交わす間もなく、いずれかへ連れ去られたようであった。看護員と言って食事介抱等をする資格のない中国人に交って、15、16歳の日本の少年が加わって来た。この少年は開拓団にいたとの事であった。勿論介助に対する教育を受けよう筈はなかったが、彼等は中国人に対し親切できれい好き、その上よく気が付き、患者には信頼があった。今日まで苦労の連続であったのか、または少年ながら人道主義に徹していたのであろうか。「僕があの患者の瓦斯壊疽を見つけてやったんだよ」と、衣服の下に隠れていた傷をよく観察していたのである。資格のある人で気付かなかったのに立派なものである。大きな目、紅顔の美少年でニコニコしていた九州出身の小浜少年を忘れない

患者の状況は後方に送られしばらく途絶えたり、戦傷もなまなましい患者に接することの繰り返しで、しかも移動が続いた。

かつて錦州陸軍病院拉々屯分院にて現地召集をうけた奈良班の使丁永野芳さんとの再会もあり(たしか臨江と言う地であったと思う)奇遇を喜び合ったのもこの間であった。

旧満州の厳寒の地での寒さの経験はないものの、このあたりの寒さも身にしみる。眼鏡の枠の金具でさえも冷たく頭に伝わる。ドアの金具を持てばビシャッと指がひっついてしまう。びっくりしてジャリ、ジャリと音を立てながら外す。寒中昼間の移動は飛行機からの標的にならないよう、服、帽子は裏返し白いほうを着るのである。このような雪原で落伍でもすれば雪に埋もれてしまいそうで必死に列に続く。もう何時間歩いただろうか、犬の遠吠えを耳にする。前方を見れば、うっすらこんもりと林が見える。ああ村落だな、そこで落付くかも知れないと一途の希望が出て来たものであった。望み通りの時もあれば、又もくもくと素通りする時もよくあった。

私の雑嚢   その日も雪の多い日だった。余程歩きづらくしていたのか、「安場(アンシャン)馬に乗りなさい」と、八路軍の人が余り高くない馬を連れて来てくれた。「乗った経験もないから」と私は拒んだが、「乗せて上げるから」と早やばやと2人して乗せてくれたのはよいが、5歩も進まないうちにドスンと落馬。もうこれ以上乗せようとはしなかった。漏れ来るところによると、けわしい山越えをするらしい。私は何か熱でも出たようで、しきりと雪を口にしながら、曲り曲りの道を列について懸命に登った。

私共は応召時、日赤から支給された雑嚢を掛け掛け、肌身離さず大事にしていた。私はもうこれさえも負担になり耐えられなかった。みかねたのか「安場荷物を車につけなさい」とまた気を遣ってくれる。少し不安があったが、車につけてもらった。不安通り目的地に着いた時は、どこを探しても見当たらなかった。紐がゆるんだのか、誰かが持って行ったのであろうか。残念至極であった。

一椀のお米  そんな気持ちも交え疲れが一度に出て、私の高熱は幾日も続き、食欲も全くなかった。こんな時友人の西さんが、どこで手に入れたのか、米飯の玉子ご飯をもって訪ねてくれ「私も発熱の時安場さんが冷たいりんご汁を持って来てくれた。あの時の喉ごしの味は一生忘れない。今度は私の番よ。これを食べて元気を出して」と親身になって案じてくれる。こんなやさしい友人と、何か月ぶりかの米飯の味を私は忘れることができない。

こんな時にも容赦なく移動が続く。私にはいつの程やら雪橇が準備されていて、山坂を引張って行ってくれるのである。乗せられる時チラッと記憶がよみ返ったが、到着する迄のことは覚えていない。西田さんは「あの時部落では高熱者が多く、特に女性に多かったので『安場にも棺桶を準備せねば』と李軍医が話していた」と後日言ってくれた。ずいぶん心配をかけてしまった。病気と寿命は別のものだったのだろう。雑嚢が私の身代りになってくれたのかも知れない。

私は迂闊であった。引揚げ後あの時のお米の入手を西田さんに聞いてみた。「それは八路軍の1人が『日本人は病気の時お粥を食べるように聞いている。これで煮て上げて』と1椀持って来てくれたのよ」と意外な返事が返って来た。もっと早く尋ねておけばと後悔している。今になって遠い中国の方の心遣いをありがたく思っている。

望郷   終戦後私共の日常も180度大回転、いろいろなことがありすぎた。「彼我の別なく患者を救護する」の赤十字精神に支えられ、私共は看護処置をさせられると言うより、そこに負傷者がいるから、そこに病人がいるから救わねばならぬと厭はなかったし、厭ってはならない行為であって強制労働とは思わなかった。 />

病気のせいで感傷的になり勝ちであった。雪の止んだ空はあくまでも澄み、殊に夜ともなればしんしんと天高く、月もまた高く皓皓と輝き、見上げればやさしく私をつつんでくれているようで、抑留されていることを一刻忘れさせてくれる。また我にかえり、父や弟妹はどのようにしているだろうか、この月を見ているだろうか、写せるものならこの月に写してほしいと望郷の念切なるものがあった。もう帰国できないかも知れない、と諦のつく迄には随分と時間が必要であった

声、声、  八路軍に抑留当初接したのは中国山東省出身者が多く、この人達は指導者の立場であった。ある若い女性護士(看護婦)は「私の両親は私の泣き叫ぶ前で日本軍に殺された。それも川に投げ込まれたが浮き上がって来て、私は声を出せなかったがああよかった、と思うのも束の間再び銃で沈められてしまった」と悲しそうに語った。私は返すことばもなかった。親の仇敵とする日本人は、その人の前にいるのである。大変憎いであろう、どう扱われても致し方がないと覚悟をきめていた。緊張した空気が漂った。けれども、その女性護士の眼は何もかも昇華したように穏やかであった。「それはあなた達が悪いのではない、悪いのは日本の軍国主義であって、皆んなかり出されて来ただけなのでしょう。あなた達は私達と同じ人民で、これから先ず一緒に軍国主義と戦っていかねば、本当の幸は来ない」と、力説する。とは聞いても、頭の切り替えはそう簡単には出来なかった。このような洗脳教育が折にふれ、特に朝夕行われるようになった。

無言の長沙   内戦の情勢は共産軍の優位に進行し、1947年・・・・と勝利の歌を合唱しながら歩き続けた記憶が妙に鮮明に残っている。その頃は患者もなく、北京を目指して山海関あたりにいたように思う。朝の駆け足は長城の麓までであった。三大規律とよく歌うのでとよく歌うので調べてみるとこうだった。人民解放軍の最高の軍律ともいうべきもの。
  一、一切の行動は指揮に従う
  二、大衆のものは針1本糸1筋といえどもとらない
  三、一切の鹵獲品はおおやけのものとする
と言うもので、以上の規律を犯した者は厳重に処罰することも、噛んで含めるようにくり返されている。

八項目の注意事項は
  一、言葉の使いはおだやかに
  二、売買は公平に
   三、借りたものは必ず返す
  四、こわした物は弁償する
  五、人をなぐったり、ののしったりしない
  六、農作物を荒らさない
  七、婦女をからかわない
  八、捕虜を虐待しない
と言うもので、これ等はすべて軍隊内における日常生活の基本となるものであった。

1949年10月1日中華人民共和国成立。軍民共に喜び溢れていた。翌々年4月、八路軍の南下が始まり、ある時は船で長江を遡り広い湖に出た。そこは有名な洞庭湖であった。どうしてここに来たのだろうか不思議であった。かつて北京到着時「明日、万寿山の見学があるから希望者は申し出るように」との連絡があり、万寿山と言えば清朝の万寿山離のあったところで、今になって申し出なかった事を後悔しているが、北京の故宮は勿論のこと、名所旧蹟を見学させたいと言う、上級者の配慮があったかも知れない。

洞庭湖に下船するはずもなく、長江支流の長沙に到着、早速班長から「この地は元日本兵から非道な虐待を受け、抗日意識の高いところ故、日本人のあなた達は口をきかないように」との連絡をうけた。私はふと前記の旧陸軍病院勤務当時の上等兵の話してくれた事柄を思い出し小さくなっていた。

終戦直後、中国人から「眼鏡をかけているとは生意気だ、はずしなさい、日本鬼子、日本鬼子」と浴びせかけられたあの罵倒、今長沙で聞くこの連絡に、申し訳ないことをしたと虚心に受け止めるしかないと思った。

おりしも長沙は雨期。道理で、道路も屋内の土間も石畳作り、その上床も高く設備してあるのにひたひたと浸水し、住民も勿論私共も不自由な2階住いで、身も心も冷たい長沙であった。友人の体調は思わしくなく、折からのマラリアの再発に悩まされる事になってしまった。

再び南下が続き広州に到着したのは11月であった。もう筍が顔を出していた。ここで日本に手紙を出してよいと許可が出た。この事は帰国のことにもつながるのではないか、ともやもやとしていたものが薄れ、前途がパッと明るくなったように思えた。いずれ点検があるだろうと、とりあえず元気であることを伝えた。

1ヶ月程経過したと思われる頃に返信が届いた。私には妹からのもので封筒も便箋も日本の匂がした。友人との写真も入っていたが、残念なことに、どちらが妹であるか全く面影はなく、判断に困った。それもそのはず、10年の間にすっかり成人していたのである。みんなの話題も変わりつつあった。

広州の滞在も僅かで日本人のみ南昌まで北上した。この地では外科、内科病院と専門化され、はじめての病院らしい病院であった。しばらく分散勤務した。ここで引揚げが決定的となり上海に集結したのは1953年(昭和28年)春になっていた

引揚げ  3月 福田裕照 工門亭雅子
        5月 多田フサエ 高橋カズエ(旧猪山)
           安場アヤ子
        7月 居場花枝(旧植田) 佐藤ヨシエ(旧堀田)

奈良班抑留者7名ほぼ行動を共にし、無事に経過したことをよろこび合い、日本赤十字社その他関係の方々に感謝しつつ、大船に乗るとはこのことであろうか抑留から解かれ、何の慮もなく故国へ運ばれて来たのである。

母たちの祈り

それは私の冬期休暇で帰郷していた、戦争たけなわのことである。母はご近所の方から長男の徴兵検査のため祈願してほしいと依頼され、毎朝私を連れ立って氏神様へ出かけて行った。私は母に「何んと言うておがんで来たの」と尋ねると意外な返事がかえって来て、「それが兵隊にかからないよう祈ってほしいと言われて」と。これは母との秘密の会話であることはその時私も承知していた。

昭和18年私の応召後に、3歳下の弟の徴兵検査があった。その時の母はご近所の母親達にお願いして、兵役を免れるよう一心に祈願していたのであろうか。その弟は昭和19年8月15日元中支で戦死、母はその20日前に病気のため他界している。外地の私と弟のことを案じていたに違いないが、息子の戦死の公報も知らず最大の悲しみから、のがれた事が少しでも救いであったかも知れない。

日本人は喜んで戦争に参加したとも、喜んで戦った日本人はいないとも論議があるが、どちらにしてもそうであったかも知れない。戦時中の教育、美化された報道に戦勝を信じ、私共女性でさえ、在学中早く卒業して先輩同様任地に赴きたい、内地よりも戦闘のはなばなしい南方の救護班でありたいと願っていたのである。私共の応召の時は、南方の防疫給水班とも噂を聞いて、心をときめかせたものであった。防疫給水班とは、培養した細菌を飛行機でばら撒いて生体実験をしていた細菌部隊であることを後程聞いたのである。もし南方に派遣されていたならば、どのような運命が待ち受けていたかは計り知れない。

もう日本の土を踏むことは不可能と諦めていた8年近い抑留は、国境を越えた友人との出会い、貴重な体験、当初から寛大な中国側の処遇に憶いを馳せている。今もって次々証言される日本軍の非道を謙虚に受けとめ、戦争のみじめさを次の世代に語りつぐと共に、現在日本のこの平和をもたらしたものは、多くの掛け替えのない命の犠牲の上に成り立っている事を今語り、母たちの祈りにもこたえて行きたいと思う。「今、大きな声で言えるのですよね、お母さん」

父の無念  戦時中、国民の皆が不幸な出来ごとに遭遇したように例外はなく、父の半生もその時から歯車が合わなくなって来た。平成6年になって私が自分史に父のことを書いていることを、妹が知っていた。ある日のこと、私の机の上にもう折り目もボロボロになりやぶれそうになった赤茶けた4枚の罫紙が置かれていた。それは、私が最も知りたいと思い、又知ることをおそれていたことであり、また聞き出す勇気もなかった。昭和18、9年頃の私の従軍と弟2人の応召中、母と末弟の病死、次弟の戦死の公報が入った時の情況をしたためた妹の回想録であった。私はおそるおそる読んだ。涙がとどめなく出て、一節読んでは想像し、又読み続ける。私は少し書き留めておきたいと思う。

妹の手記(昭和25、6年頃)妹の苦悩   昭和19年、私は14歳の時でした。姉と兄2人は戦地にあり、家では父母と末弟の4人の生活でした。母にあまえてばかりの頃でした。それなのに母は、ある日突然口もきけず、長く床についてしまいました。まだ3歳の弟を残して…(以下母の病状中略) … 母の死から数か月を経てからのこと、私が学校から帰ると多くの人達が来ておられました。私は又何があったのかと、思って尋ねてみましたが、みんなただ黙っているのです。私は無理に聞かなくてもよいと思ってみたものの、どうしても気になってしかたがないのでした。すると親戚の方が、「兄さんの公報が来たんだよ」と言われました。私はまだ公報の意味がよく分からなくて、ただぼんやりとしていました。すると父が近寄って来て「兄が戦死したのだよ」と言ってくれました。その声は悲痛な響を持っていました。私はびっくりしてしまいました。そして悪夢をみているようで、ただぼうぜんとして言葉も出ず、父の心情など考える余裕もなくドッと、泣きくずれました。長兄の戦死は昭和19年8月15日とのことでした。ちょうど母の死より1か月後のことであり、終戦1年前のことでした。…(以下末弟の死中略)…

長かった戦争が敗戦に終り、次兄が復員して帰って来ました。その時私はどんなに喜んだか分かりませんでした。これで今、私の一番の願いは外地にいる姉なのです。姉が早く帰ってくれたらとそればかり待っているのです…(以下妹の回想録を略する)

滅私奉公   私は母の亡くなった頃、元満州国錦州省錦県陸軍病院で任務についていました。応召2年目であった。私は前記の妹の手記を読み終えて、はっきりした時期は思い起こせないが、昭和19年母の意識不明になったその頃であろうか、何か胸さわぎがしてならなかった。しきりに夢に母が出て来て、その夢は悪い夢ばかりであった。私は父に母の安否を伺う便りをした。父からの返事はいずれも「皆元気だから、心配せんでご奉公するように」とのことのみであった。今思えばさぞ早く帰ってきてほしかっただろうに。私はまた後顧の憂いなく励んだ。その後、日赤奈良県支部より母の死を知らされ、一時帰国してもよし、交代要員を出してもよい、との連絡が入った。婦長が分隊長の許可を得て、隊長に許可申請を出して下さったが「すべて滅私奉公だ」の一言で許可は出なかった。私は家族を思い悲しかったが、私共は2年半で救護班全員の交代があるように聞いていたし、満期いくばくも無いとその時は考えた。

父は終戦になっても私の消息も分らず、戦死した弟を誰よりも頼りにしていただろうに。名誉の戦死、英雄の父と最高にたたえられたが、心中ただただ歯を食いしばり涙をこらえていたのだと思う。そう考えるとたまらなく悲しく戦争の悲惨さを痛感する。

昭和28年5月、10年振りに中国から帰国、舞鶴港に引揚げて来た私を、一まわり小さくなった父は皺と涙で顔をくしゃくしゃにして桟橋で喜び迎えてくれた。ああ元気よかったと、私も涙で見る10年ぶりの父の顔であり、還暦を迎える年齢であった。

おわりに

今世界のどこかで争いごとが起り、考え方を誤れば細い針でついてさえも、戦争につながっても不思議ではない現状である。

「おとなはばかだ、どうして戦争なんかしてあたしをこんなに苦しめるんだろう」と言って、急性白血病でなくなった広島の一少女の訴えが、広島の原爆ドームの保存運動を、今から30年前に始めるきっかけの一つとなったようである。

日本は唯一の被爆国であり、原爆の恐ろしさを後世に伝えていく事は勿論必要なことである。が、何故戦争が起きたのか、誰が戦争を起こしたのか、何故原爆投下があったのか、その原点を究めることにこそ必要であって、被爆だけを強調するのは問題をすりかえているのではないかと。どちらが加害者なのか、語りたくない面もあろうが語り合ってはっきり認識しておくことである。

戦争は過去の物語りではない。風化させてはならない。核の威力は広島、長崎に投下された原爆の数十倍とも聞いた。平和を願って止まない。

日本も戦後50年残留孤児の問題等々、未だに多くの人を苦しめている。胸に弾丸を受け戦死した弟。私の従軍と時を同一にした時もあっただろう。中国大陸のどこかに交叉点があったかも知れない。今日の遺影は特に悲しげに写っている。

8.15で終わらなかった戦争 の先頭に戻る

解題にかえて

今回の展示では奈良班の看護婦で構成された日本赤十字社第459救護班の松岡喜美子・居場花枝・福本裕照・安場アヤ子各氏の手記を紹介した。終戦まで同じ救護班で過した4人だったが、運命は大きく分かれた。松岡氏は約1年後に帰国できたものの、居場・安場・福本の3氏は、抑留(留用)され、内戦のなか、昭和28年まで中国共産党による八路軍(通称、のちの人民解放軍)への従軍を余儀なくされたのである。

内戦中のあしどりは、必ずしもはっきりしないが、国共内戦たけなわの1946~49年をおおよそ東北(旧満州)や華北地域で従軍した。その後も各地の病院で勤務、中国共産党政府と日本との協定成立(手記中では国交正常化と記される)により帰国できるまで、足かけ8年間を中国で過ごすことになる。

一方、松岡氏は義兄を頼り、しばらく安東(現在の丹東。中国・北朝鮮国境中国側)で暮らした後、途中回虫に苦しめられ歩けなくなるといったアクシデントがあったものの、無事日本に引き揚げることになる。

3氏のように中国に抑留、留用され、内戦に巻き込まれた日本人は少なくない。山西省では、万を超える日本軍将兵が組織的に残留し、国民党政府側に立って交戦している。中国共産党側に立った日本人は、医療に従事した者が多い。鹿錫俊氏によれば、共産党軍の医療隊に7000人台の日本人が従軍していたという(「東北解放軍医療隊で活躍した日本人」『北東アジア研究』6)。本館で所蔵する資料を見ても、日赤救護看護婦では、秋田班の小谷ハルエ(『さらば、ナース人生四十年』1995)、岩手班の本田恭子(『牡丹河を越えて』光陽出版社、1997)や、高知班の十川八重子(『暁の星』文芸社、2003)、山崎近衛(『火筒のひびき』高知新聞社、1977)が同様の体験を手記にしている。また、看護未経験者でも、開拓団指導者だった親の意思で、14歳で八路軍に入って看護教育を受けたケース(川畑一子『大河の流れのように』光陽出版社、1999)や、協和会職員から病院の雑役夫とした従軍したケース(朝倉喜佑『知られざる抑留八年の記』朝倉文庫、1992)等もある。

まだ本格的に戦争状態に入っていない満州での病院勤務から、戦闘部隊を追っての移動につぐ移動の日々。肉体的にも相当こたえたと思われるが、加えて言葉も通じず、終戦までは「敵」であった人たちに囲まれての生活である。安場氏は「彼我の別なく患者を救護するの赤十字精神に支えられ、私共は看護処置をさせられると言うより、そこに負傷者がいるから、そこに病人がいるから救わねばならぬと厭はなかったし、厭ってはならない行為であって強制労働とは思わなかった」と記し、福本氏の手記にも同趣旨の記述がある。しかし、通常は「味方」の看護業務が大半である。また、安場氏の手記にも出てくる看護教育者沢田栄美氏を評して、別の看護婦が「忠君愛国とか博愛慈善の権化」とするように(松村百合子氏の手記)、必ずしも、愛国心と赤十字の精神は矛盾するものとは捉えられていなかった。3氏とも次第に中国人とも意思の疎通ができるようになっていったと記すが、それでも政治教育や公開処刑へは違和感を隠そうとしない。

本文では、原則的に手記をそのまま翻刻したが、横組みにしたため漢数字を算用数字に改めたり、「粁」を「キロ」とする等、原文を損なわない範囲で表記を改めた個所がある。

これらの手記は、平成16年に当時の日赤奈良支部同窓会長岡崎氏のお力添えもあって、本館に寄贈いただいたものである。貴重な力作をお寄せいただいた執筆者各位、ご協力を賜った岡崎氏、日赤奈良支部には、ご紹介が遅れたことをお詫びすると同時に、厚く御礼申し上げます。 

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