極限の日々から 須藤ヨシエ氏の「サイパン島戦争体験記」を読む4

解題

日本軍がほぼ全滅し、上陸したアメリカ兵たちが近くに現れ、あまつさえ近くにテントまで構える中で、須藤氏たちの避難壕生活はいよいよ苦しいものになってゆく。同じ壕に避難してきた吉田氏は、いったん米軍への投降を決意する。しかし、死を選ぼうとし、実際に自殺未遂にまで至った須藤氏たちの姿を見る中、その意思はゆらいだようだ。米軍テントはなくなったものの、須藤氏本人が赤痢に感染する。

須藤氏たちが、ここまでかたくなに投降を拒んだのはなぜだろうか。客観的な情勢は全く不可能になっていながら、それが伝わらず、いつかは日本から援軍が来て島を奪還し、自分たちを救出してくれるはずという確信にも似た期待。「戦陣訓」などで民間人にも植えつけられた捕虜になることへの忌避感。そして、投降したら何をされるかわからないという恐怖と、まるでそれを裏打ちするように流れる悪いうわさ。

戦時国際法の古典的な考え方では、戦争は正式な交戦者(つまり兵士)同士で行われるもので、自国民であれ敵国民であれ、無防備な民間人は無条件に保護されるべきだという前提がある。だが、こうした前提は、第一次大戦の総力戦化などによって崩れつつあった。明治維新期に本格的に国際法秩序に組み込まれて以降、日本が行ってきた戦争は、常にその時点における領域外で行われてきた。しかし、日本の準領土というべき旧委任統治領サイパンで行われた戦闘は、ほぼはじめて、日本の民間人が近代の戦争に直接巻き込まれる事態となった。

大原朋子「戦後沖縄社会と南洋群島引揚者」(琉球大学『移民研究』6)が興味深い指摘をしている。戦後沖縄本島に帰還した旧マリアナ諸島移住者は、沖縄戦体験者と連なる地上戦体験者としての共通体験を持つがゆえに、沖縄社会への定着しやすかった側面があるという。以前にも記したように、須藤氏の手記を含め民間人の記したサイパン戦の記録を見ると、翌年の沖縄戦を彷彿させるエピソードが多い。

今回紹介部分でも、ゲリラ化していた日本兵から、須藤氏の夫がスパイ視されたという記載がある。沖縄でも、日本軍兵士が沖縄県民をスパイ視した事例が多かったが(『沖縄戦の「狂気」をたどる』沖縄探見社編・発行、2012等)、同時に須藤氏たちも、「島民」と記されるマリアナ群島の現地住民をしばしば、スパイ視していた。逃避行の途中、山の頂上から送られる信号を見て「スパイだな」「島民だろうか?」と決めつける記載があり(須藤氏手記を読む2で紹介、5.避難開始)、今回紹介部分でも、島民らしき「スパイ」から、夫と吉田氏が逃れてくる場面がある。直後の記載でも、現地住民は「島の一等国民日本人や、朝鮮人と別扱いになっていた」とあり、「戦争が始まった時すぐにアメリカに協力」と須藤氏らは認識していた。こうした認識がどこまで事実に即していたかは別にして、「日本」と一定の距離感を持つ現地住民の存在は、沖縄戦とサイパン・テニアン等マラリア群島での戦闘と性格を異にするものであろう。

最終的に、須藤氏夫妻は日本人による呼びかけを聞き、さらに、先に投降して迎えに来るのを約束した吉田さんの声を聴いて、避難壕を出ることを決意する。しかし、事前にアメリカ兵が一緒にいることを知っていたら、どんな判断をしたのだろうか。

最後に時系列を確認しておきたい。須藤氏たちが避難壕生活を始めたのが昭和19年6月中旬、日本軍の「総攻撃」による玉砕が7月7日である。今回紹介部分には「もうすぐ酉年だから」といった表現があるが、『サイパンテニアン収容所捕虜名簿』(『沖縄県史資料編』17別冊)には、「11月1日以降の投降者」とは区別された本編に、須藤氏夫妻の名がみえる。つまり、須藤氏夫妻が壕をあとにしたのは、実際には10月以前ということになる。手記を見ても、苦しい日々の中で、実際より時の経過を長く感じていたのではないかと思わせる部分がある。例えば、須藤氏が赤痢に感染した際に1週間絶水絶食したとあるが、人間の生理的に1週間の絶水は無理で、実際にはもう少し期間が短かったと考えられる。手記に「日本人村」とあるのは、米軍が朝鮮人を除くサイパン在住日本民間人を昭和21年まで収容した施設キャンプススッペで、昭和19年6月に島中部のチャランカノア東方に設けられた(『沖縄県史資料編18』)。