爆撃の中の逃避行 須藤ヨシエ氏の「サイパン島戦争体験記」を読む2

解題

前回に引き続き、須藤ヨシエ氏の「サイパン島戦争体験記」を紹介する。昭和19年6-7月のサイパン島攻防戦は、戦争の帰趨にも大きな影響を与えた。こうした点や背景については、おいおい見ていくこととして、まずは、今回紹介する手記の部分に即して、「私は16日と思っていましたが、11日と言う人もあり」とある、須藤氏が今回紹介部分冒頭で記すサイパン島への大爆撃が、昭和19年6月の11日か16日か検討してみよう。

爆撃後、須藤氏は、急きょ島北端のバナデルから帰ってきた夫と南洋興発の社宅で一晩を過ごす。未明に夫の予知夢があり、バナデル行きを決意するのだが、夜が明けても爆撃がひどくて行動に移せない。そして、「墨色になって来た」時分に、燃える社宅を自転車で後にしている。

須藤氏の夫MATUZO(松蔵?)の上司として、バナデルで飛行場建設の事務責任者をしていた、南洋興発社員篠塚吉太郎の回顧録が出版されている(『サイパン最後の記録』1951、東和社)。大きな爆撃があった11日晩、爆撃から救助した子会社の漁船の乗組員を送った帰りにもらったカツオで杯を傾ける。翌12日に、妻子を製糖所などのあるチャランカノアに残しているもののために、2台のトラックを手配してチャランカノアへ向かったという。同書には、直接須藤氏の夫は登場しないが、手記に記された状況から見ても、このトラックの中に乗り組んでいた可能性は高い。

また、戦局から見ても、16日説は成り立ちにくい。爆撃が16日だとすると、北への逃避行は17日の夕方以降となる。戦史叢書の『中部太平洋作戦1』等によれば、米軍は、6月15日の朝からチャランカノアとその北方で上陸作戦を開始した。水際撃退作戦をとった日本軍と激しい戦闘になり、多くの犠牲を出しつつも、18日にはアスリート飛行場など島の南半分を占領し、カラパンに迫っていた。爆撃が16日だとすると、須藤氏夫妻は、米軍の激戦地となったチャランカノア-ガラパン間を、上陸後に移動したことになるが、手記の記載にはそうした形跡はうかがえない。

こうした点を考えると、やはり冒頭に記された大爆撃が11日で、夫の帰宅が12日、13日の晩、2日後に米軍が上陸する地点を抜け、ガラパンを経由して、バナデルへ向かったとみるべきだろう。

日本軍主力は、ガラパン東方のタッポーチョ山付近に後退し、ここで22日から激戦が繰り広げられることになる。在留邦人も、米軍の上陸とともに、タッポーチョ山方面へ避難誘導されていた。これは、日本軍の擁護下に彼らを置く意図だったにせよ、結果的には戦闘に巻き込む結果をもたらした。その後、在留邦人の多くが、山岳地帯を日本軍と共にじりじりと追い詰められ、辛酸をなめることとなる。篠塚も前掲書で、その後の過程で幼い娘2人を失ったことを記している。手記に登場する須藤氏らの仲人、「美斉津先生」も、軍の医療関係者とともに野戦病院を組織していたが、7月8日戦車の攻撃を受けて死亡したという(『肉弾サイパンテニアン戦』274頁)。7月18日、サイパン島での陸海軍将兵の玉砕を発表した大本営発表では、在留邦人は「概ね将兵と運命を共にせるものの如し」とされた。「概ね」は大げさだか、約2万人いた在留邦人のうち、約半分が死亡したといわれている(『万歳岬の虹』)。篠崎氏の著書では、泣き声で米軍に存在を察知されるのを恐れて、乳児が殺されたといった、後の沖縄戦を想起させるエピソードも多い。また、この民間人の死亡者には、追い詰められ、米軍による投降呼びかけを無視して、断崖の上から万歳を叫んで身を投げたことで著名なバンザイ岬(マッピ岬)での死亡者も含まれている。

バンザイ岬周辺には、最後まで米軍の手が及ばなかったため、在留邦人が集まったわけだが、須藤氏たちが避難したバナデルとは目と鼻の先である。「逃げよう、あの穴に。あの穴に入ったらきっと俺達は助かるかも」という夫の予知夢は、須藤氏たちを、結果的にいちはやく最も安全な場所へ導き、戦闘に巻き込まれることを避けさせた。もっとも、次回以降で見ていくように、その分退避壕での須藤氏の生活は長引くことになる。

図書リストでは、サイパンでの陸戦を扱った体験記等を中心に、前回取り上げられなかった本を掲げた。軍人のものが多いが、民間人の体験記としては、篠塚のものほかに、菅野静子『戦火と死の島に生きる』と、奥山良子『玉砕の島に生き残って』があり、菅野は軍人の兄を、奥山は両親と弟・妹を失っている。