レファレンス・あれこれ(12)




□閲覧室□

Q 「さくら花ちる ひとひらの ひるがえり 落ちはつるほどを 目にとめてみつ」
  この歌の作者と出典が知りたい。

A 短歌の作者や出典について、あるいは一部しかわからない短歌の全文を調べる場合、よく知られた歌であれば総合的な辞典類で検索できますが一般に知られていないものであれば、より網羅性の高い短歌辞典を調べることになります。
 質問の短歌は明治以降の作と思われるので、明治初年から現在までに発表された短歌60万首を収録する『現代短歌分類辞典158巻、新装版61巻一』(津端亨編纂 現代短歌分類辞典刊行所 昭和43年一統刊中)を検索、142巻に該当作「さくら花散る一ひらの翻り落ちはつるほどを眼にとめて見き」とあり、作者は窪田空穂であることが確認できます。
 『窪田空穂全集』全28巻 別冊(角川書店昭和40−43年)によれば、この歌は大正10年、日本評論社から出版された空穂の9冊日の歌集「青水沫」(あおみなわ)に収められています。
 空穂が大正8年9月から10年1月にかけて加賀、越前、京都、奈良、伊豆半島などへの旅の途次に詠んだ歌を中心に790首が収録されており、「さくら花散る…」は「櫻さく」と超する13首のうちの一首ですo
 「青水沫」は『窪田空穂全集』(上記)に全編が収録されているほか、抄録しているものに、
『日本詩人全集 6』(新潮社 昭和43年)
『日本の詩歌11』(中央公論社 昭和49年)
『現代短歌大系 2』(三一書房 昭和48年)
などがあります。

《参考文献》
『日本近代文学事典』(講談社 昭和53年)
『詩歌全集・作家名綜覧』(日外アソシエーツ 昭和63年)

(井上はるみ)


□児童室□

Q お正月のしめなわや鏡餅の由来について、子どもに説明してやりたいのだが。

A 子ども達から直接、年中行事について聞かれた場合、それが小学校の低学年から中学年くらいの子どもであれば『こどものカレンダー』(かこさとし作 偕成社刊)という本を紹介しています。
「1月のまき」から「12月のまき」まで、全12巻の本の中で、その月に関わる行事やそれにまつわる話、その日生まれた有名人の紹介や、「きょうはどんなひ」のコーナーなど、なかなか盛り沢山の情報です。
 お正月に関しても色々と説明がありますが、質問の答えとしては少し物足りなさを感じましたので、今回は『もののはじまり物語』(実業之日本社刊)という本と共に、見ていただきました。
 そもそも、正月とはイネの神である年神さまを家々にお迎えし、一年の幸と豊作を祈った行事。その年神さまが居られる清らかな場所だから、入ってけがしてはいけませんよと、しめかざりで表しています。
 しめかざりは、西暦900年頃から用いられているとのこと。しめなわは、アマテラスオオミカミが再び天の岩戸に戻られないようにと、天の岩戸に縄を引き渡したのが始まりといわれています。
 また鏡餅ですが、これは尊いものとされていた昔の丸い鏡をかたどったもので、その形から円満を表し、二つ重ねて日と月を意味しているとのことです。

(小西雅子)


□郷土資料室□

Q 橿原市今井町に代官屋敷があったと聞くが、これに関する文献があるか。

A 今井は高市郡今井の荘(いまいのしょう)付近にあった興福寺一乗院領の荘園。今井を歴史的に位置付けたのは、天文年間(1532〜55)に石山本願寺家衆今井兵部により称念寺の前身である道場が建てられ、そこに一向宗門徒が集住して「今井寺内町」が形成されてからであろう。
 この町場の形成とその後の発展のなかで、代官屋敷もおかれているが、これについては代官屋敷そのものに関する史料が乏しいこともあってふれたものが少ない。管見の限りでは、
①『今井町史』(今井町史編纂委員会編 今井町1957年)と、
②『今井町絵図集成』(森本育寛編 森本順子刊1980年)、
③亀井伸雄「近世今井町の研究〜御役屋敷地の変遷について〜」(『日本建築学会近畿支部研究報告集』昭和55年6月)

 があるが、このうち②と③では、橿原市上品寺町上田家文書「今井町御陣屋大概間数」などが紹介されており、③の亀井論文は最もまとまった研究である。この亀井論文によると、江戸期の今井町は郡山藩であった一時期(元和5年〜廷宝7年)を除いて幕府領であった。しかもその支配形態は、桜田御料(延宝8年〜宝永元年)、芝村藩預り(元文元年〜寛政6年)、高取藩領り(寛政6年〜明治2年)と変遷するが、この間、延宝8年から南大和の幕府領支配のために、今井町の環濠西側の一部に御役屋敷と呼ばれる代官所が設けられたという。これが代官屋敷のことで、この屋敷はのちに御同心屋敷とも呼ばれ、現在でも字名として残っている。ちなみにそれ以前、即ち、慶長12年(1607)頃の代官松村弥右衛門は太閤本陣跡と伝えられる御茶屋屋敷に居住していたし、郡山藩領時代は今井兵部に町の支配を任せており、陣屋はなかったという。

(山上 豊)

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