シリーズ近代文学と奈良 5

堀辰雄・古代びとの心を求めて




 堀辰雄の文学風土といえば、まず最初に軽井沢が思い起こされるであろう。「ルウベンスの偽画」「恢復期」「美しい村」など、数多くの作品の舞台として使われているし、実生活でも生涯の多くの時間をこの地で過ごしている。ラデイゲ、プル−ストやリルケなどの西欧作家から大きな影響を受けた堀にとって、異国情緒漂う軽井沢は、自身の文学表現を行う上で最もふさわしい土地であったのだろう。
 しかしその一方で、堀は昭和12年頃からしだいに大和に心をひかれるようになり、度々訪れるようになる。最初に訪れたのは昭和12年6月、京都に1カ月滞在した折であった。その後昭和14年に10日間、太平洋戦争直前の昭和16年10月には20日間滞在し、一時帰京した後12月に再訪している。そして戦時下の昭和18年春にも2度訪ねている。
 堀は、宿あとなった肺結核のために生涯死と向きあうことを強いられた。後に「不安でない旅などしたことがない。いつ、どこで、寝こむかも分らないやうな心細さで旅に出てくる」(「死者の書」)とも述べている。しかし大和での彼は、病弱な体をおしてまるで憑かれたかのように各地を巡り歩いている。昭和14年の旅では飛鳥、当麻・二上山の辺りまで、昭和16年の旅では高安や法隆寺、さらには橿原、三輪山麓辺りまで足をのばし大和への感慨を深めている。   それでは、堀辰雄の眼を大和へと向けさせるきっかけとなったのは何であったのか。どのような心境の変化があったのだろうか。昭和10年、堀は婚約者矢野綾子を肺結核で喪う。「われわれの生はわれわれの運命より以上のものである」(「七つの手紙」)というリルケの運命観に大きな影響を受けていた堀は、後に彼女への鎮魂歌ともいえる「風立ちぬ」を結実させている。昭和12年、堀はこの作品の終章執筆のため一冬を信濃追分で過ごしたが、結局果たすことは出来なかった。その直後から堀の心に変化が起こり始める。
 「春になり、それまで張りつめてゐた自分の気もちが急に弛むと、私は何かいひしれぬ空虚な気もちに襲はれ、それから脱れるために、ひたすら心を日本の古い美しさに向けだした。」(『角川版作品集3・風立ちぬ』あとがき)
 この頃を境に、堀は『伊勢物語』などの王朝物語や『万葉集』挽歌など、日本の古典に眼をむけ始めていく。なかでも、万葉集挽歌にリルケの「レクヰエム」に相通じる「鎮魂性」があることを発見し、「あゝ此処にもかういうものがあつたのかとおもひながら、なんだかぢっとしてゐられないやうな気もちがし出し」、(「古墳」)傾倒していくとともに、いつしか大和にも「切ないほど心を誘われるやうに」なるのである。   こうして堀は日本の古い美しさへの接近を深めていくが、彼が古典研究を深めていくなかで大きな影響を受けたのが、折口信夫(釈超空)であった。
 堀が折口に初めて会ったのは昭和12年晩秋、折口門下の小谷恒に連れられて国学院へ行き折口の「王朝文学史」を聴講した折であった。その頃堀の書斎には、『古代研究』3冊がすでに座右の書として机上にあったというし、彼は後に慶応義塾へも折口の講義を聴きに行っている。このような折口との交流はその後も続き、堀は終生師と仰いでいたようだ。
 堀は折口の思想、中でも『古代研究』や『死者の書』などに大きな影響を受けた。折口は、古代人の霊魂観や他界観を独自の民俗学的方法により解釈しているが、堀はリルケによって開眼された鎮魂観に相通じる考え方が古代人にも見られたことをここから学びとる。その最初の成果が「伊勢物語など」(原題「魂を鎮める歌-いかに日本の古典を読むかとの問に答えて」・昭和15年) であり、ここで自身が「人々に魂の静安をもたらす何かレクヰエム的な、心にしみ入るやうなものが一切のよき文学の底には厳としてあるべきだ」と述べているように、堀の文学はしだいに鎮魂歌的な要素を深めていく。それは、大和へ行き古代のイメ−ジを捉えてみたいという熱望へとつながっていく。
 大和への数度にわたる旅から堀辰雄が残した作品は、『大和路・信濃路』に収められている4編の小品と『曠野』、「黒髪山」などにすぎないが、これらの作品は私たちに大和での彼の躍動と彼の苦悩を彷彿とさせ、心を揺り動かさずにはおかない。『大和路・・・』の作品は、『婦人公論』(昭和18年1〜8月号)に同名で連載されたのが初出である。後に(昭和21年)大和路の小品だけが集められ、著者の好んだ花である『花あしび』と名づけられ単行本となっている(青磁社)。
 『大和路』連作のうち、「十月」は、昭和16年滞在の折、妻多恵子に宛てた便りをもとにした書簡体の随想。王朝小説『曠野』の成立過程を知る上でも重要な作品である。堀はこの旅では、『改造』の求めに応えるべく、「大和の古い村を背景にして、Idyll(小さき絵)風なものが書いてみたい。そして・・・それに万葉集的な気分を漂はせたい」(「十月」)と意図し、奈良公園周辺、佐保路から西の京、遠くは斑鳩、高安まで足をのばしている。しかし構想は定まらず、クロオデルの「マリアへのお告げ」を読み返したりする。この戯曲の感動を下地に、折口の「古代研究」の中にあった「葛の葉といふ狐の話」に触発され手にした『今昔物語』の一編に出会い「自分を与へれば与へるほどいよいよはかない境涯に墜ちてゆかなければならなかつた一人の女の、世にもさみしい身の上話」(「十月」)の構想が急に生み出された。この『曠野』は当初堀が意図したものとは異なり、京を舞台とした王朝小説となってしまったが、この旅で眼にした西の京、海龍王寺や高畑などの風物が舞台装置として活かされている。
 『大和路』には他に、かって神西清との旅で訪れた菖蒲池古墳を再訪して古代人の他界観に想いを馳せる「古墳」。妻と訪れた浄瑠璃寺での馬酔木の印象や廃亡の後に生まれた「第二の自然」を述べる「浄瑠璃寺の春」。堀の折口への傾倒ぶりを物語る「死者の書」などの小品がある。
 堀辰雄が万葉人を主人公とした古代小説を構想していたことは、「十月」や「死者の書」などの作品や遺された数多くのノオトからうかがうことが出来る。しかし、敗戦の前年から療養生活を強いられた彼にとって「大和ともおもはずに、ただ何んとない小さな古国だとおもふくらいの云知れぬなつかしさで一ぱいになりながら、歩けるやうになりたい」(「死者の書」)といった大和への旅も「森厳なレクヰエム」の完成も、叶わぬ夢となってしまうのである。
(森川博之)

《参考・引用文献》  ※文中掲載以外

(1) 浅田隆ほか『奈良近代文学辞典』和泉書院 1989年
(2) 谷田昌平「堀辰雄論ノート」(『文芸読本 堀辰雄』)河出書房新社 1977年
(3) 杉野要吉「堀辰雄における日本古典接近の問題」(『国語と国文学』 1968年7月号)
(4) 小谷恒「堀辰雄の折口信夫」小久保実「古典ノオトの解説」(『日本文学研究資料叢書 堀辰雄』)有精堂 1973年
(5) 石内徹「堀辰雄と折口信夫受容」(『論集・堀辰雄』)風信社 1985年
(6) 福永武彦『意中の文士たち 下』人文書院 1973年
(7) 『堀辰雄全集2』筑摩書房 1980年『全集8』1978年
(8) 中村眞一郎ほか『カラーブックス名作の旅・堀辰雄』保育社 1972年


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