写真集 「時がゆったりながれていた頃の南葛城」 より 写真:前田恭利氏
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○昔の御所まち
昭和4年に落成して名建築と言われた御所小学校の講堂が昭和45年に解体され体育館に変わりました。
この建物も木造で、広い講堂内に柱をなくすため、外壁柱の内側にもう一列柱を立て、二列の柱の上に、組んだトラスを乗せ、荷重の関係でこけら葺きだったらしく、傷みかけるともろく、惜しまれながら僅か41年でその役目を終えたのでした。 |
御所小学校旧講堂正面
昭和45年(1970) |
御所小学校旧講堂側面
昭和45年(1970) |
御所小学校旧講堂側面
昭和45年(1970) |
講堂
昭和45年(1970) |
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昔の面影を残す米蔵
御所市御国通り 西尾邸 |
葛城川 学美の橋より旧大橋を見る 昭和43年(1968) |
旧豊年橋より機関車と玉手山遠望 昭和44年(1969) |
旧豊年橋より葛城川鉄橋を見る 昭和44年(1969) |
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柳田川堤
昭和43年(1968)頃 |
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○えき
今のJR和歌山線の王寺・高田間に蒸気機関車が走り始め 。その5年後の明治29年に高田・御所・五条間が開通しています。引っ込み線の貨物列車の荷物を 仲仕達が大八車に積み替え活気のある駅でした。その後、戦場への見送り場となり、敗戦後和歌山港から高田・王寺・奈良方面への帰還兵の乗継場、通過駅であった。その後ディーゼル、電化と変わっていった。 |
御所駅 SLさよなら運転
ワカヤマラインC576
昭和47年(1972)_3_12 |
御所駅北の東松本踏切の下り列車昭和47年(1972) |
新地踏切から御所駅に入る上り列車 昭和43年(1968) |
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御所駅を出て柳田川堤に向かう下り列車C5828 昭和43年(1968) |
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御所駅
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葛城川鉄橋付近
昭和54年頃 |
和歌山線玉手付近を行く上りディーゼルカー昭和54年(1979)-11-30 |
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○いわのひめ(磐之媛)
徳天皇を恋いこがれ、深く愛したがゆえに、天皇の浮気は断じて許せなかった磐之媛皇后は、天皇の 迎えを拒みつつも、何度か故郷・葛城の高宮(森脇)に帰ろうと歌姫峠まで来て、現在の 京田辺市普賢寺付近にあった筒城宮(つつきのみや)に籠ったきり、天皇の待つ難波の高津の宮に帰られることは ありませんでした。この歌姫街道の東、葛城高宮を望める奈良山の麓で、 悠久の時の流れの中、情熱の皇后は眠り続けておられます。 |
葛城高宮 一言主神社より森脇遠望昭和44年(1969)_6_1 |
磐之姫皇后陵(右遠方)と
水上池(奈良市佐紀町)
昭和44年(1969) |
磐之姫皇后の故郷森脇より
左上の葛城山天神の森遠望
昭和44年(1969) |
金剛山をバックに磐之姫皇后の故郷森脇の集落
昭和44年(1969 ) |
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櫛羅地蔵 |
くじらの滝( 葛城山中腹)
昭和44年(1969)頃
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朝妻の民家
昭和44年(1969)頃
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朝妻の農家付近
昭和44年(1969)頃
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森脇の村
昭和44年(1969)頃
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森脇付近
昭和44年(1969)頃
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森脇付近
昭和44年(1969)頃
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三室付近
昭和44年(1969)頃
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僧堂付近
昭和44年(1969)頃
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○いちこんじさん(一言主神社) |
一言だけの願いを聞いてくれるという神を『いちこんじさん』『いちごんさん』と親しく呼んで、多くの人から敬われている一言主(ひとことぬし)神社があります。境内に、樹齢千年から千二百年、高さ二十メートルの銀杏(いちょう)の大木があり、根元から人間の背丈までは直径一・五メートル位なのに、幹の上部で枝がまとまって張り出しているところは直径三メートルもあろうかと思われます。
その部分から、乳房状のふくらみが無数に垂れ下がっていることから、『宿り木』『乳銀杏(ちちいちょう)』と呼ばれ、健康な子供が授かり、豊富な母乳を与えてくれるという御神木なのです。 |
一言主神社参道の並木は松だった昭和44年(1969)_6_1 |
参道の松並木より一言主神社遠望1969 |
乳銀杏と一言主神社 |
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森脇 一言主神社付近にて昭和44年(1969) |
昭和35年(1960)頃の田植風景 |
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森脇より宮戸方面を望む
昭和44年(1969) |
一言主神社参道左坂道
昭和44年(1969)頃
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一言主神社 境内社
昭和44年(1969)頃
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一言主神社 境内社
昭和44年(1969)頃
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一言主神社 参道より神社
昭和44年(1969)頃
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一言主神社参道
昭和44年(1969)頃
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一言主神社より東方
昭和44年(1969)頃
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一言主神社より東方
昭和44年(1969)頃
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一言主神社境内の蜘蛛塚
昭和44年(1969)頃
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一言主神社の石垣 坂道の上
昭和44年(1969)頃
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一言主神社参道付近
昭和44年(1969)頃
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一言主神社境内の乳垂れ銀杏 |
一言主神社の北側の紅葉 |
一言主神社の乳たれ銀杏 |
一言主神社の乳たれ銀杏 |
一言主神社の境内社の一つ |
一言主神社の境内社の一つ |
一言主神社の銀杏
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葛城山上付近 |
葛城山上より 畝傍山方向 |
大豆を干している |
南郷付近 |
南郷付近 |
南郷付近 |
一言主神社参道付近 |
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鴨神付近 |
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○葛城氏の南郷安田遺蹟 |
葛城氏の祖は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)で、父は応神王朝誕生に尽力した武内宿禰(たけのうちのすくね)です。水越峠の入口付近、御所市南郷安田遺跡から葛城氏が氏神を祭った巨大神殿跡が最近見つかりました。 一帯からは鍛冶やガラス工房、首長級の高級住宅、民衆の住居跡など生産、生活、行政を機能分化した遺跡が以前に出土している。 |
南郷の民家
昭和44年(1969)-6-1 |
御所市三室
孝昭天皇陵より南西 金剛山麓遠望 左遠方の山裾寄り伏見-朝妻-極楽寺-南郷の各集落 手前は三室
昭和44年(1969)-4-3 |
御所市三室
孝昭天皇陵裏側の市民会館より北西を望む
左遠方に二上山が見える
昭和44年(1969)-6-1 |
御所市南郷より北西を望む
左金剛山-右葛城山
昭和44年(1969)-6-1 |
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南郷より東方を見る 遠くに畝傍山
昭和44年(1969)頃
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○極楽寺ヒビキ遺蹟 |
飛鳥から西を眺めると、金剛葛城連山のシルエットが釈迦涅槃像のように見えます。その山麓に朝妻の集落があり、付近一帯に五世紀以降、大和王権に匹敵する力があった有力豪族・葛城氏の本拠地がありました。 近年、農地整備に伴う発掘調査で、葛城氏の神殿跡とみられる南郷安田遺跡が発見され、続いて、それを見下ろせる高台から、政治・経済の中心となった拠点である『宮殿』と思われる建物跡・極楽寺ヒビキ遺跡が見つかって、襲津彦の実在性を高めています。 |
朝妻より高天方面金剛山遠望
昭和44年(1969)-6-1 |
御所市南郷より西を望む
後ろは金剛山
昭和44年(1969)-6-1 |
御所市僧堂より西方の朝妻を望む
後ろは金剛山
昭和44年(1969)-12-21 |
朝妻の集落より大和盆地を望む昭和44年(1969)-6-1 |
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○葛城川 周辺の風景 |
葛城川源流 の水車小屋の廃屋
昭和42年(1967) |
葛城川堤より今城の集落と畝傍山
昭和44年(1969)-5-18 |
葛城川堤 今城より越智野方面遠望昭和44年(1969)-5-18 |
葛城川の東
笙宮春日神社参道の並木
御所市出屋敷
昭和44年(1969)-5-18 |
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葛城山山頂より天神の森と大和盆地展望
撮影昭和42年(1967)10月
ロープウエー開業は同年3月
中央の畝傍山を中心に遠方が桜井長谷
左に耳成山、後方に三輪山・山の辺、右が飛鳥 |
1980―3―3電化完成 御所市今住を行く下り電車 |
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御所市 今城(いまんじょう)付近
昭和44年(1969)頃 |
御所市 柳原付近
昭和44年(1969)頃 |
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昭和54年頃
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玉手付近
昭和54年頃
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蛇穴(さらぎ)付近 国鉄和歌山線
昭和54年頃
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忍海付近
昭和54年頃
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柳原付近から畝傍山
昭和44年(1969)頃 |
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