資料展示「高度経済成長期の奈良」---昭和の東京オリンピック・大阪万博の時代を知る --- 
   展示 令和2年1月5日~2月16日  奈良県立図書情報館 3Fブリッジ

上記展示を参考に写真関係を示します
    「展示概要」より

日本は、昭和30年(1955)から昭和48年(1973)まで年平均10%以上の経済成長を遂げ、経済大国に発展しました。この間には、昭和39年(1964)の東京オリンピックや、昭和45年(1970)の日本万国博覧会といった国際的なイベントの開催もあり、東海道新幹線や名神高速道路・東名高速道路といった大都市間の高速交通網も整備されていきました。
 ここに、日本経済が飛躍的に成長した高度経済成長期(昭和30年代~40年代)の奈良を撮影した写真を展示します。
 1 都市化する奈良
  (1)人口増加と住宅地開発
  大阪都市圏のベッドタウン化
    
  (2)都市機能の整備
    道路網の整備
    上下水道の整備
 2 観光施設
   (1)観光客の誘致
     奈良公園整備
     遊園地
   (2)自動車対策
 3 学校教育
    児童・生徒数の変化
 4 公共施設の整備
   (1)県庁舎の建て替え
   (2)文化会館と奈良図書館
 【参考文献】※出版年順
●大和タイムス編『奈良遷都千二百五十年祭記念記録冩眞集』 大和タイムス社 1960年
●片山光生「奈良県庁舎の設計に従事して」(『公共建設』5(4)(19) 1963年2月)
●片山光生「奈良県文化会館について」(『公共建築 = Public buildings』 14(4)(58) 1972年12月)
●奥田良三著『燦々菁々滾々 : 私の県政史』 ぎょうせい 1980年
●中本宏明編 『奈良の近代史年表』 1981年
●奈良公園史編集委員会編『奈良公園史』 1982年
●鈴木良編『奈良県の百年』 山川出版社 1985年
 
1 都市化する奈良
  (1)人口増加と住宅地開発
   大阪都市圏のベッドタウン化


 
奈良県における宅地開発は、昭和25(1950)年に近鉄が学園前に住宅建設を進め、分譲を開始したところから始まります。

その後、昭和35(1960)年に学園前エリアから続く登美ケ丘住宅地、さらに昭和45(1970)年には東生駒住宅地の分譲を開始します。

一方で近鉄は奈良線の大阪方面への輸送力増強をはかり、新生駒トンネルを建設し(昭和39年完成)、さらに東生駒駅(昭和43年開業)・高の原駅(昭和47年開業)などを新設しました。

 また、昭和30(1955)年に日本住宅公団法が施行され、住宅不足を解消するために団地の建設が全国的に盛んに行われました。県内では、昭和34(1959)年に学園前団地、昭和35(1960)年に紀寺団地、昭和37(1962)年に鶴舞団地などの公団住宅が次々と誕生しました。 

   
 学園前の開発造成工事
昭和30年代 


写真提供:昭和30年代 吉田守氏
鶴舞団地
奈良市鶴舞東町

近鉄奈良線学園前駅徒歩10分)の団地。

昭和37年(1962) から入居開始。

昭和40年(1965)11月
写真撮影:吉田守氏
 近鉄奈良線 生駒駅
新生駒トンネル開通




撮影:昭和39年(1964)7月23日天白逸郎氏
  
近鉄京都線 高の原駅
平城ニュータウン建設にともない
昭和47年(1972)11月に開業。

撮影:昭和48年(1973)6月木村守男氏
平城第二団地 20号付近
奈良市山稜町

(近鉄京都線高の原駅徒歩5分)の団地。
昭和47年(1972)11月から入居開始。

撮影:昭和47年(1972)山本公弘氏
現在、学園前駅前にショッピングセンター・パラディー(パラディーⅠは昭和59年オープン)があります。学園前ショッピングセンターはその前身で、学園前初の大規模小売店舗です。学園前第1ショッピングセンター(昭和35年設置)と学園前第2ショッピングセンタ(昭和38年設置)から構成されていました。学園前第1ショッピングセンターは全国でも珍しい円形の建物でした。 






近鉄西大寺駅前にダイアモンドシティー(現:イオンモール)と近鉄百貨店との共同出資で日本初の2核郊外型ショッピングセンター「奈良ファミリー」を昭和47年(1972)3月14日開業。

  
学園前ショッピングセンター
 建設中

学園前発の大規模小売店舗。昭和35年(1960)6月1日オープン。
撮影:昭和35年(1960)吉田 守氏 
学園前ショッピングセンター 
 開業中




撮影:昭和40年(1965)11月吉田 守氏
  奈良ファミリー付近
近鉄大和西大寺駅前に昭和47年(1972)に開業。
平成4年(1992)にならファミリーとしてリニューアルオープン。  

撮影:昭和47年(1972)城之内善信氏
 
 
   (2)都市機能の整備
    
道路網の整備
 高度経済成長期の象徴としてマイカーの普及による交通量の増大があり道路網整備が急がれた。
   
阪奈道路
大阪と奈良を結ぶ幹線である阪奈道路は、昭和33(1958)年に二車線の有料道路として開通し、三条通りと接続していました。その後、渋滞解消と昭和45(1970)年の大阪万博開催にあわせて四車線に拡幅され、大宮通りと接続されました。

名阪国道
名阪国道は、昭和38(1963)年に着工し、昭和40(1965)年に暫定二車線で開通しました。ルートの決定から、用地買収、トンネルや橋の建設なども含めて1,000日以内に完成し、「千日道路」と称されました。
 

 

 二車線の阪奈道路
生駒付近


撮影:昭和37年(1962)岡田庄三氏 
 阪奈道路  4車線
学園前インター付近。

 
撮影:昭和50年頃 城之内善信氏
 名阪国道
 天理東インター東の米谷橋付近
昭和40年(1965)開通

撮影:昭和40年(1965)頃 城之内善信氏
 三条通りは阪奈道路からの交通量を処理しきれず、大阪万博に向けた整備一環として
近鉄奈良線の地下化、登大路の拡幅、大宮通りが開通しました。




奈良公園表玄関口の奈良国立博物館前から県庁前・近鉄奈良駅を経て油阪に至る道路(登大路)は奈良市内で最も交通量が多い反面、幅員が狭く、拡幅整備に迫られていました。さらに近鉄奈良線の奈良・油阪間が路面電車となっており、道の両側には人家・店舗が密集して混雑し、鉄道と道路の平面交差は人や車の流れを妨げるなどといった課題を抱えていました。


そこで昭和35年(1960)2月近鉄奈良駅付近の整備が表明され、近鉄奈良駅の地下移設が動き出します。大阪万博開催前年の昭和44年(1969)に新奈良駅の開通式が行われ、登大路の拡張と大宮通りも完成しました。 
 登大路
現県庁東交差点付近の拡幅工事

拡幅工事は昭和44年(1969)に完成。

撮影:昭和38年(1963)3月 小城一郎氏
 近鉄奈良駅 地上仮設駅
大阪万博開催に関連して奈良駅の地下移設が実施される。
昭和44年1969)12月9日に
地下駅が開業。

撮影:昭和44年(1969)12月8日木村守男氏
 高天交差点付近(東方面)


撮影昭和38年(1963)頃小城一郎氏
 近鉄奈良線 油阪駅ガード付近
奈良駅の地下移設、線路の地下化にともない油阪駅は廃止。

写真撮影:昭和40年11月 吉田守氏  
  2 観光施策
    (1)観光客の誘致
       奈良公園整備
 奈良公園への観光誘致に力を入れ昭和42年(1967)度には荒池周辺の民有地を買収して公園地の拡大、昭和43年(1968)度は浅茅ヶ原・春日野一帯の園地整備や遊歩道の新設、公園の照明灯増設など行い、昭和44年度(1969)は春日野・茶山付近の整備を行い観光客誘致を図った

    
(2)自動車対策
昭和30年代に入ると、自家用車や観光バスを収容する駐車場の整備が急務となりました。
奈良公園内では昭和27年(1952)に観光バスの駐車場として設置された高畑観光自動車駐車場(高畑駐車場)がありましたが、収納能力が限界に達しており、昭和33年(1958)に依水園の東側に春日野駐車場(のちに大仏駐車場)を開設しました。昭和36年(1961)に春日野運動場の一部を利用して春日野駐車場(昭和43年11月閉鎖)が開設されました。
 昭和37年(1962)興福寺本坊東側の野外音楽堂を改修し一の鳥居前駐車場(昭和63年のなら・シールクロード博開催にともない閉鎖),昭和42年登大路駐車場を開設。
 鷺池(さぎいけ)と
浮見堂
(うきみどう)

浮見堂は大正5年(1916)に建造、昭和41年(1966)に修復作業実施。老朽化のため平成6年(1994)に再建。
写真撮影:昭和40年(1965)ごろ 吉田守氏
 
 行楽客で賑わう若草山
若草山に登る行楽客、春日大社から二月堂に抜ける若草山の麓を行く道の人々。
観光に使う自転車。料亭旅館:春日野傍。
  

撮影昭和32年(1957)4月福川美佐男氏
   奈良観光の生徒たち
昭和38年頃の登大路の風景
近鉄奈良駅が地上駅の時。
見学を終えて駅に向かう修学旅行生。駅前の有明食堂、春日家が見える。道路は登大路


写真撮影昭和38年(1963)頃:小城一郎氏

春日野駐車場と春日野グランド
昭和36年(1961)春日野運動場の一部を利用して春日野駐車場開設。昭和43年(1968)閉鎖。


 写真撮影  昭和40年11月 吉田 守氏
 大型遊園地
 
 あやめ池遊園地
 「世界の楽園 南太平洋博」開催中

あやめ池遊園地は大正15年(1926)開園、平成16年(2004)閉園。
撮影;昭和40年(1965)5月5日岡田庄三氏
 奈良ドリームランド
昭和36年(1961)に開業。1970年代には年間150万~160万人が訪れ、県を代表する遊園地として人気を集めた。平成16年(2006)に閉園。


写真撮影:昭和41年(1966)3月20日 木村守男氏
 
 3 学校教育
    児童・生徒数の変化

昭和22年(1947)から始まる戦後出生児の急増(第一次ベビーブーム)により、小学校児童数は昭和33年(1958)に最大となり、その後は減少から増加に転じて昭和50年代中盤には第二次ベビーブームを迎えました。
奈良市立 鶴舞小学校の運動会
鶴舞小学校は人口の急増にともない昭和40年(1965)に開校。
右奥は中登美団地。

写真撮影:昭和40年代初頭 木村守男氏
 奈良市立あやめ池小学校開設
昭和40年(1965)4月1日、奈良市立伏見小学校・奈良市立富雄北小学校より分離、合体し開校。 

写真撮影:昭和40年(1955)4月 木村守男氏 
4 公共施設の整備
   (1)県庁舎の建て替え
   (2)文化会館と奈良図書館


現在の県庁舎は昭和40(1965)年に完成したものです。3月18日に落成式が行われ、業務を開始、4月1日から開庁しました。それ以前の旧県庁舎は明治28(1895)年に建築され、現県庁舎の西側に位置していました。
 県庁舎の建設と並行して、県庁舎を中心とした奈良公園の玄関口の整備が計画されます。昭和40(1965)年9月には奈良地方裁判所庁舎(奈良家庭裁判所・奈良簡易裁判所を含む合同庁舎)が改築され、昭和43(1968)3月には政府出先機関を収容する合同庁舎も建設されました。次いで文化会館、美術館といった文化施設も建築されます。


 昭和43(1968)6月、文化会館が開館しました。県民の文化活動の向上を図る目的として計画され、県庁舎の西側、旧県庁舎敷地の奥に建てられました。大ホール・集合室・図書館の3部より構成された建築物で、この図書館部が奈良県立奈良図書館、奈良県立図書情報館の前身となる図書館です。
 
 新奈良県庁舎(現県庁舎)落成


写真撮影:昭和40年(1965)3月22日木村守男氏
 新奈良県庁舎(現県庁舎)屋上より見る旧県庁庁舎
旧県庁舎は明治28年(1895)の建築。
新県庁舎の西側に位置していた。

 
写真撮影:昭和40年(1965)3月22日木村守男氏 
 奈良県文化会館建設中
昭和43年(1968)完成
 
撮影:昭和43年(1968) 吉田守氏
 大台ケ原ドライブウエー開通
   (昭和36(1961)年7月)
      と環境被害


奈良県営大台ヶ原ドライブウェイが開通しました。これを契機に大台ヶ原の様相は一変します。
 それまで5、6時間を要した登山の行程は一挙に短縮され、大阪・京都・奈良方面からは日帰りも可能になりました。近鉄や奈良交通などの宣伝効果もあって、知名度も上がり、観光シーズンには1日3,000人もの観光客が訪れ、1年に3万台もの車が入り込むようになりました。
 ドライブウェイ工事による自然の改変、排気ガスの影響、流出土砂による斜面崩壊などにより多くの原生林が失われました。また登山客によるゴミの投棄や植物の採取、踏み荒らしなどの問題も発生しました。
 
 
  開発による大台ケ原の荒廃
 
撮影:昭和40年(1965)8月14日 岡田庄三氏
 
  大型イベント
奈良遷都千二百五十年祭
   昭和35(1960)年

和銅3(710)年の平城遷都から1250年を記念して、昭和35(1960)年3月10日から15日までの6日間にわたり奈良遷都千二百五十年祭が催されました。1250年にちなみ1250人が参加した風俗時代行列や、28台がくりだした太鼓台行列、1500人の仮装行列などがこの奉祝行事を彩り、のべ50万の人出で賑わいました。
 観光塔が国鉄奈良駅前広場に、アーチが三条通りのすべり坂と近鉄奈良駅前(登大路)の2ヶ所に設置されました。
 
 
 奈良平城遷都千二百五十年祭
国鉄奈良駅前奉祝塔
 
写真提供:昭和35年(1960)3月10日 谷井孝次氏
 奈良平城遷都千二百語十年祭
近鉄奈良駅前(登大路)アーチ

写真提供:昭和35年(1960)3月10日 谷井孝次氏
東京オリンピック昭和39年(1964)

 東京オリンピックの聖火は、8月21日にギリシャのオリンピアで採火され、アジア地域12ヶ国を経て9月7日に沖縄へ到着しました。鹿児島、宮崎、千歳へ空輸され、9月9・10日から日本全国を4コースにわかれてリレー、10月7日~9日に東京都庁に到着します。翌朝10月10日開会式当日、国立競技場へリレー、聖火台に点火されました。
奈良県は9月27日五條市から奈良市・28日奈良県庁から奈良坂町梅谷口で京都府へ引きつがれた。 
 
  東京オリンピック聖火リレー
三条通り

   
 写真撮影:昭和39 (1964)9月27日木村守男氏
 

大阪万博 昭和45年(1970)開催

 77ヶ国が参加、入場者は6,400万人を超えました。言わずと知れた太陽の塔は、芸術家の岡本太郎氏がデザインし、テーマ館の一部として建造、万博終了後も万博記念公園に残され、大阪のシンボルの一つとして平成30年(2018)からは内部公開もされています。
 大阪万博は、それに向けた都市基盤整備や観光施策など県下にも大きな影響をもたらしました。

 
 昭和45年
大阪万国博会場の中央駐車場に並ぶバス

  
写真提供:奈良交通 
 
   昭和44年頃の三条通りの風景
      三条通り:JR奈良駅から春日大社一の鳥居までの東西に走る道路。
      大正9年国道15号に認定。昭和27年国道24号となる。昭和47年奈良バイパスができ24号となり、三条通りは市道となった。
 やすらぎの道交差点

昭和44年頃長岡二朗氏撮影
奈良東映付近 

昭和44年頃長岡二朗氏撮影
 国鉄奈良駅舎

昭和44年頃長岡二朗氏撮影
三条通り 餅飯殿商店街の東  

昭和44年頃長岡二朗氏撮影
 奈良猿沢商店街

昭和44年頃長岡二朗氏撮影
興福寺前 五十二階段
 旅館 ならや

昭和44年頃長岡二朗氏撮影
興福寺五重塔南
  旅館 大文字 ・旅館大仏館 

昭和44年頃長岡二朗氏撮影
 
   
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