ここから本文です

−子どもたちが見た満州3−
満蒙開拓青少年義勇軍

1936年5月、日本政府は「満州農業移民百万戸移住計画」を発表し、戸数100万、人数500万人の農業移民入植計画を打ち立てました。しかし、その翌年、日中戦争が勃発したため、軍隊要員として不可欠な成人男性の移民が困難になりました。そこで、政府は15歳から19歳までの少年の移民を計画したのです。

1938年1月政府は、「片手に鍬、片手に銃」をキャッチフレーズにして、満蒙開拓青少年義勇軍の応募を行いました。貧困のため活路を満州に求めざるをえない農村の少年たちは、満州で地主になることを夢みて、義勇軍に応募、8万6530人の少年が満州へと送り出されました。

しかし、政府にとっての彼らの位置づけは「兵士予備軍」であり、彼らは農業実習とともに軍事教練を受けてから、ソ連との国境近くに開拓地を与えられました。そして20歳になると、結婚したばかりの妻や生まれたばかりの子どもと別れて、軍に入隊。残された家族は、日本の敗戦とともにソ連軍や、日本人に土地を奪われ恨みに思っていた中国人に襲われ、多くの人が命を落としました(1945年5月の時点で既に日本軍はソ満国境付近から撤退を開始しており、開拓民は置き去りにされていました)。満州から日本へ引揚げるまでに17万6000人の方が亡くなったとされていますが、その半数近くが開拓民であったといわれています。また、引揚げの際、親とはぐれたり、中国人にあずけられた子どもたちは、中国残留孤児として戦後、大変な困難に逢い、現在に至るまでその保障が問題となっています。

義勇軍の少年たちは、茨城県下中妻村字内原の内地訓練所で三ヶ月、満州の現地訓練所で三年間の訓練を受けた後、政府の補助金を受け、建国農民として、入植した。一戸当たりの耕地規模は十町歩、平均300名で一開拓団を形成。昭和16〜20年の間に総計251の開拓団が入植した。

義勇軍は、ソ連との国境近くに開拓地を割り振られた。その土地は中国人の耕作地を日本政府が強権的に安い値段で買い上げたものであった。また、少年たちの中には、食糧が足りない時に、中国人の家から盗む者もあり、恨みをかっていた。このことが、後の引揚げ時の悲劇を生んだ。

満蒙開拓義勇軍絵葉書(日輪兵舎)
日輪兵舎
内地訓練所での宿舎。一棟あたり60人の少年が暮した。満州の現地訓練所も場所によって、自分たちで宿舎を建てなければならなかったところもあり、煉瓦造りに失敗した訓練所では、気温マイナス3〜40℃になる冬場に、宿舎の中で凍死する者もでたという。

満蒙開拓義勇軍絵葉書(軍事教練の様子1) 満蒙開拓義勇軍絵葉書(軍事教練の様子2)
軍事教練の様子

満蒙開拓義勇軍絵葉書(食事風景)
食事は自炊。主食は高粱を大量に炊き込んだ高粱飯。副食はかぼちゃなどだが、冬になって野菜がとれなくなると「太平洋汁」 という名の具なしの塩汁を飲んだ。

ページの先頭に戻る