シリーズ近代文学と奈良9   織田文学の中の「西鶴と奈良」


 織田作之助は大阪で生まれ育った作家で、大阪の風俗や大衆の世相、人々の人生・心情を多くの小説に描いた。しかし彼の発表したエッセイの中に奈良を描いた作品があることはあまり知られていない。それには現代語訳した井原西鶴作『近年諸国ばなし』の冒頭「奈良の寺中にありし事」(初出「西日本新聞」昭和17年)や『世間胸算用』の巻四「奈良の庭竈(にわかまど)(同紙 昭和1617)等がある。
 まず「奈良の寺中にありし事」の話を紹介する。昔、藤原鎌足が讃岐房崎の浦で竜宮へ奪われた名玉を取り返すために、都の楽人を呼び召して雅楽を奏せしめた。その際に用いた二つの唐太鼓があったが、うち一つは後に南都東大寺に納められた。江戸期に入って毎年興福寺が法要の際にこの太鼓を借りにきていたが、ある年東大寺が貸さず、神主の口添えでやっと借りることができた。この一件で興福寺の僧達は激怒するが、学頭の老法師が太鼓を当寺の物にしてしまえる分別があると言い、太鼓の筒の中に書き付けてあった「東大寺」の文字を削って新しい墨で「東大寺」と書き、素知らぬ顔で東大寺へ返した。翌年も興福寺は太鼓を借りに行くが、立腹した東大寺側は使僧を追い返した。興福寺はすぐにこのことを奉行所に訴え出たため検議することとなり、太鼓を改めたところ「東大寺」と新しい墨の跡が出てきた。興福寺の仕業にしても、元の古い文字が判読できないため東大寺のものという証拠がない。その後太鼓は興福寺のものとなって東大寺で預かり、入用のときは自由に興福寺が受け取って打ったという話である。(「公事は破らずに勝つ」副題:「奈良の寺中にありし事」)
 稿者はこの話の事実を確かめようと当館が所蔵する「興福寺叢書」の記録を探してみた。興福寺と東大寺や他の寺との間にはかねてから幾多の争いが存在したようで、叢書中の「細々要記抜書」「寺記類集」からもその様子を窺い知ることができるが、残念ながら件の部分は見出せなかった。織田はともかく、商才にも長けていた西鶴はこの話をどこから「仕入れ」たのだろう。
 この『近年諸国ばなし』は諸国の珍しい出来事を紹介しているが、西鶴が冒頭にこの奈良の話を
出しているところから、いかに気に入っている話かがわかると織田は述べている。しかし織田自身はこの話よりも「ちょうちんに朝顔」(副題:「大和国春日の里にありし事」奈良に住む茶人と風流を解せぬ人とのやりとりの話)の方が優れているとも述べている。さらに織田は西鶴の作中奈良を描いた作品で最も優れた傑作といえば『世間胸算用』の巻四「奈良の庭竈」であると結論づけている。この話の粗筋は次の通りである。
 長年奈良で蛸を売り歩く「蛸売の八助」という我欲の強く恥知らずの魚屋がいた。年の暮れに蛸の足を二本ずつ切って六本にして売っていたところ買った客からその悪事を指摘された。八助は「大晦日に碁を打つような家に売るものか。」と文句を並べて帰った。後にこれが世間の知るところとなり「足切り八助」と呼ばれるようになってしまうが、これも自業自得であろう。
 (この後半には奈良の大晦日が描かれている。)
 奈良では大晦日になるとたとえ借金取りでも断れば来ることなく、家々では「庭いろり」といって釜をかけて焼火(たきび)をし、家中の者が胡座をかき、金輪に入れた丸餅を庭火で焼いて食べるのが風習である。行商は元日から三日にかけて大黒、恵比寿などの「福の神」の版画を売り歩く。奈良特産の晒布(さらしぬの)は京都の呉服屋へ売られ、奈良の商人は大晦日に上京して集金をするが、その金銀を道中で狙う浪人達もいる。ある浪人達は酒代でもよいからと暗峠で待ち伏せていると大阪から帰りの小男が軽そうな荷物を持っていたので「隠し銀」と確信し、襲ったところ荷物は数の子だった。

 これらの話には奈良の生活の様子が鮮やかにユーモアを交えて描かれており、当時の流行であった「因果応報」「勧善懲悪」物の話としても評価が高い。織田は庶民の日常への視点が西鶴の話の魅力であると述べているが、これは同時に織田文学の根底をもなしている。西鶴の描いた奈良を絶賛している織田も奈良を熟知していたのではないだろうか。

<参考文献>
『定本織田作之助全集』文泉堂書店
『定本西鶴全集』中央公論社

『大日本仏教全集興福寺叢書』仏書刊行会
『織田作之助文芸辞典』浦西和彦編和泉書院
『小説織田作之助』青山光二著現代社

               (高川 和英)

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奈良県立奈良図書館「芸亭」