シリーズ近代文学と奈良 8

高 浜 虚 子 と 奈 良


  今年は当館が開館九十周年ということで、開館当時に奈良と関わりがあった高浜虚子にスポットを当ててみた。
  俳句の高浜虚子と言えば、全国にその名をとどめているが、当館が開館した当時は小説家虚子が誕生していた頃である。
  彼は明治七年に愛媛県の松山市で生まれている。本名を清という。
  河東碧梧桐とは、私立伊予尋常中学校で出会い、同人誌への協力を彼に求めたのが明治二十二年のことだった。その後、将来の師である正岡子規とは、碧梧桐を介して句作の指導を乞うようになった。この頃は「放子」と雅号をしていたが、子規に雅号の命名を依頼し、「虚子」と命名された。その命名の仕方が清という字と虚と言う字は殆ど同義であること、「きよし」を詰めていえば「きょし」となるということだったそうである。文字上の洒落であったらしい。
  明治二十八年十二月に虚子は子規の後継者になることを拒否した。その頃の虚子は小説家への道を目指していた。実は子規も小説家を目指していたが断念しているという事実もある。ただし、彼らは始めから小説家になることを目指したのではなく、元々は、「写生文」にみがきをかけることが主であった。
  明治三十三年六月に『ホトトギス』に、小説と銘打って、「丸の内」を発表している。その後、結局虚子は、『ホトトギス』を継承したが、俳句誌というより文芸誌として発展させようとして、明治三十八年には、漱石の「我が輩は猫である」を掲載したのを始めとして、寺田寅彦、碧梧桐、伊藤左千夫らが小説を発表した。その事で虚子はますます小説に傾いていった。
  その後、虚子が本格的に小説に身を傾けていくことになったきっかけとしては、明治四十一年秋から明治四十三年秋にかけて、吉野左衛門の勧めで一時国民新聞社へ入ったのがきっかけである。
  虚子は自伝の中で次のように回想している。「突然私に国民新聞の社会部長にならんか、といった(略)私は色々と考えた末、社会部の仕事は僕には出来ないが、文学に関する仕事ならば(略)」ということで、国民新聞に文学欄を新設してもらったという。
  なぜ、虚子が奈良を舞台に小説を書いたのかというと、明治三十八年四月に京都奈良を訪れ、その時に法隆寺界隈の風景が残っていたからのようである。
  明治四十一年一月に出版された初の短編小説集『鶏頭』に「斑鳩物語」がある。

  「斑鳩物語」は、法隆寺夢殿前の旅館大黒屋が舞台となっている。「余」という登場人物の視点から見た旅館の手伝いのお道と若い僧の了然との恋が菜の花の咲く春の斑鳩を舞台にして綴られている。
  明治四十二年十二月出版した小説集『凡人』に「興福寺の写真」を掲載している。
  「興福寺の写真」は、父親が娘に興福寺の写真を持っていないのかと聞かれて、かつて自分は、大和路に屍を埋めたいと思っていたことを思い出し、成長した子どもと歩く姿を想像して「名状し難い一種の満足と哀愁を覚える。」と記しており、虚子自身の複雑な心を表現しているのではないだろうか。
  明治四十五年に虚子は、休止していた『ホトトギス』の雑詠選を復活し、翌年、俳句界へ復帰した。
  虚子は、昭和十八年三月二十二日に阿波野青畝の案内で長谷寺を訪れた。青畝は、虚子が奈良を訪れたときは、いつも案内役を務めたという。この時に虚子が詠んだ句の中に「花の寺末寺一念三千寺」、「はな咲かば堂塔埋もれつくすべし」というのがある。
  後に虚子は俳句に花鳥諷詠詩と名づけたが、現在では、虚子の俳句の形を花鳥諷詠論としており、彼が俳句界に及ぼした影響は計り知れない。
  奈良に関する句は、『五百句』などにも掲載されている。

<参考・引用文献>
浦西和彦編『奈良近代文学事典』 (和泉書院 1989
高濱虚子『定本高濱虚子全集』 (毎日新聞社 1973~1975
清崎敏郎『高浜虚子』(俳句シリーズ人と作品5(桜楓社 1971
田中昭三編『俳人の大和路』(Shotor Travel)(小学館 1999

(立川 慶子)

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奈良県立奈良図書館「芸亭」