出版余話 「中央公論社と嶋中雄作」A
昭和初期、経済不況により社会運動や労働運動が高まる中で、雑誌『改造』は社会主義や労働問題など時流に乗った記事を掲載し、急速に部数拡大をはかっていた。一方『中央公論』では、大正14(1925)年に滝田樗陰が亡くなり、その後高野敬録や木佐木勝らが編集に当ったが、「時代の空気をつかむ」ことが出来ないまま低迷を続けていた。嶋中雄作が主幹を務めていた『婦人公論』も、評判は良いが部数は伸びないという状況であったという。
昭和3(1928)年7月、当時嶋中雄作は『中央公論』、『婦人公論』の主幹として、「今月読まずにゐられない」雑誌にするべく誌面刷新に努めていた。そこへ、社長の麻田駒之助から突然経営譲渡の話が持ち掛けられた。雄作は、負債を抱える雑誌の継続に何日も悩んだ末、経営を引き継ぐことを決意する。
雄作の中央公論社社長就任は、『中央公論』昭和3年9月号で発表された。そこで彼は、「一般人の生活に即した雑誌」を目指す決意を述べている。
経営者となった雄作が会社再建のために最初に取り組んだのは、『婦人公論』の大衆化と出版部の創設であった。『婦人公論』は、すでに昭和2(1927)年、雄作が『中央公論』の主幹も兼ねるようになった時、『婦人世界』にいた高信峡水を編集長に招いて、昭和3年新年号から誌面の刷新をはかっていた。表紙には明るい色調の女性像が描かれ、口絵は写真となり、内容も同号では「恋愛売買時代」という特集を組み、室伏高信、山川菊栄、賀川豊彦や吉田絃二郎らの記事を掲載している。従来の女性解放をスロ−ガンとした方針は改善され、「女性の心をそそるよう(な)…明るく華やかな」雑誌へと変身を遂げていた。このような誌面の変化に加えて、昭和5(1930)年からは、読者開拓のために、「婦人公論愛読者訪問旅行」と銘打った文学講演会・座談会を全国各地で開催した。また普通号70銭を50銭にする値下げも断行している。
当時、各社では「円本」や文庫本に競って取り組んでいたが、中央公論社は参加していない。それは雑誌単業主義をとる麻田の考えによるものであった。昭和4(1929)年、雄作は経営打開のため、出版部の創設に踏み切るが、その創設に当っては、村松梢風の助言が大きな力になったという。
出版部の初代部長は歴史家の服部之総で、その後を改造社にいた牧野武夫が継いだ。第1回出版物は、E・M・レマルクの『西部戦線異常なし』で、訳者は後に帝劇の社長となる秦豊吉であった。第一次大戦中のドイツ軍兵士の眼を通して戦争の悲惨さやドイツ軍内部に漂う厭戦気分を描いたこの作品はたちまちベストセラ−となり、普及版と合わせて20万部が売れたという。その後出版部では、大宅壮一他訳『千夜一夜』、坪内逍遥訳『新修シェ−クスピア全集』、谷崎潤一郎訳『源氏物語』など多彩な作品を世に送り出していく。こうした出版部の成功は、中央公論社の経営基盤強化につながった。
昭和10(1935)年、雄作は『中央公論』創刊50周年という記念すべき年を社長として迎えた。10月、中央公論社では記念祝賀会を大々的に行い、記念出版物や『回顧五十年』も発行している。その時雄作は、これまでにない苦難の歳月がこの後訪れることを知るはずもなかった。(つづく)
【参考文献】
『中央公論社の八十年』中央公論社編 (中央公論社)
『出版人の遺文 中央公論社
嶋中雄作』栗田確也編 (栗田書店)ほか
(森川 博之)