出 | 版 | 余 | 話 | 「中央公論社と嶋中雄作」@ |
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バブル崩壊後の経済不況は出版業界にも大きな影を投げかけている。わが国の代表的な出版社である中央公論社も読売新聞社に譲渡され、本年2月から中央公論新社として再出発した。
中央公論社の歴史は雑誌『中央公論』の前身となる『反省会雑誌』創刊にまで溯る。この雑誌は明治20年(1887)8月、京都西本願寺普通教校の学生らが結成した禁酒団体「反省会」の機関誌として創刊された。『反省会雑誌』は、やがて拠点を東京へ移し、誌名も『中央公論』と改め、西本願寺から独立して麻田駒之助の経営へと転身していくことになる。その後明治末から大正にかけて滝田樗陰が編集主幹をつとめ、『中央公論』は大きく発展する。彼はその鋭い時代感覚により誌面を刷新し、志賀直哉、有島武郎や芥川龍之介、谷崎潤一郎らの新進作家を登用して文芸欄の充実を図るとともに、吉野作造や大山郁夫らの論説を掲載して「民本主義論」などの新しい政治・社会思想の紹介に努めた。こうした誌面内容はインテリ層を中心に大きな支持を得て、『中央公論』は当時の代表誌『太陽』(博文館)をしのぐオピニオン・リーダーの地位を確立していく。
嶋中雄作が中央公論社へ入社したのは大正元年(1911)10月で、樗陰が主幹と活躍していた時代であった。彼は明治20年(1887)2月、奈良県磯城郡三輪町(現桜井市)の医師島中雄碩の四男として生まれた。兄雄三は社会運動家で後に東京市会議員などをつとめている。雄作は畝傍中学から早稲田大学哲学科を卒業し、島村抱月、金子筑水の推薦で同社に入社した。当時『中央公論』には樗陰の他に編集者はなく、彼も樗陰の下で同誌の編集に携わった。雄作は入社直後から頭角を現し、抱月や兄雄三らの影響で以前から女性の権利拡張に関心を持っていたことから、翌年同誌で「婦人問題号」を増刊することを樗陰に提案する。時まさに社会の各方面で個人主義の風潮が高まり、平塚雷鳥らによる女性解放の動きも見られ、この企画は樗陰の受け容れるところとなった。同号は、樗陰の独壇場ともいえた当時の『中央公論』の中で異彩を放ち、雄作の個性が輝きを見せたものとなったという。
やがて雄作は、特集号の評判に自信を得て、女性向け雑誌の創刊を麻田に働きかける。この企画は、後に『婦人公論』の創刊となって実現し、雄作は樗陰の下から独立して『婦人公論』主幹となる。
『婦人公論』は大正5年(1916)1月に誕生した。巻頭には安部磯雄「現代婦人の行くべき道」が掲げられ、誌面には女学生論、職業問題など女性問題に関するさまざまな論説が取り上げられていた。後に雄作は部下の半沢成二に「『婦人公論』の使命は、あくまでも女権拡張である。それは僕の信念だ、理想だ」と語っているが、『婦女界』『婦人世界』など良妻賢母主義的な雑誌が多かった中で、全く新しい理念に基づいた雑誌の登場であった。
ところで、『婦人公論』は創刊からしばらく間、雄作が一人で企画を受け持っていた。その後編集部も増員され、大正8年(1919)には雄作の他、波多野秋子、半沢、阿部記者の4名となり、企画編集会議を開くなどチ−ムプレ−を重視するようになった。これは、『中央公論』の編集に絶大な権限を持ち一人で切り廻していた樗陰の方法とは大きく異なるものであった。近代大量出版時代に即したこの方法は、後に社長となる雄作によって既にこの時期から取り入れられていたのである。
(つづく)
<参考・引用文献> |
『中央公論の80年』 |
(中央公論社) |
『出版人の遺文 −中央公論社・嶋中雄作−』 |
(栗田書店) |
(森川博之)