シリーズ近代文学と奈良 7

武者小路実篤と奈良


 「友情」「真理先生」「お目出たき人」などの小説で知られる白樺派の文学者武者小路実篤が提唱、実践した「新しき村」は<村民自らの労働によって、自らの生活を支えたうえで、自由を楽しみ、個性を生かせる生活を全うすること>を目指して、大正7年宮崎県日向に建設された。その理想主義は大正デモクラシ−を背景に当時多くの青年の心をとらえたという。
 その武者小路実篤は大正末の一時期を奈良で暮らしている。年譜によれば大正14年12月、実篤は開設以来7年間生活をした宮崎県日向の新しき村を離れて奈良に居を移した。この間の事情について最近刊行された『検証新しき村』(奥脇賢三著 農文協)では、兄の外地赴任により病身の母に近づきたいと考えたこと、ふたりの幼い娘の教育のこと、さらに誰でも平等であるはずの村の中で「先生」と敬われて特権階級のように労働を免除されて執筆に専念していることへの思いをあげている。「もう少し本当のことを云うと、僕は少し芸術家すぎたようです。実際の仕事には頭が十分に働かず、畑へ出ても、何かもっと自分にはぴったりした仕事があるような気がしたのでした。(「A先生の遺稿」昭和7年8月『中央公論』)という述懐も紹介している。
 ではなぜ奈良の地を選んだのか。このことについては離村当時の新聞談話によれば、雑誌『白樺』を共に創刊し交流のあった志賀直哉や浜田葆光らの友人の存在が理由のひとつとしてあげられている。転居にあたっては実篤の依頼によるものか、奈良に住んでいた志賀直哉が家を用意して実篤に「大体こんな家だ、手入れはきれいにしてある。とに角ここにきめては如何か」と手紙を送っている。
 大正14年12月実篤は奈良に転居したが、その旧宅は水門町の依水園から戒壇院へ向かう道ぞいにあり、現在もそのままの姿を残している。
 武者小路実篤が奈良に来て間もない頃、新しき村の友人に書き送った「奈良通信」には『一言で云ふと奈良は気に入っている。実際散歩の好きな自分には奈良はいい処だ。川も海もないが、なんとなく落ち着いている。(略)奈良でいいのはなんといっても古美術であろう。博物館は僕の処から五六町だ。(略)矢張りいい。くわしいことは今かく気にならないが、東洋的な内面的な沈黙的な深さでは之以上ゆくのはむづかしいと思ふ。』と記している。自然が美しく古い文化財の多い奈良は武者小路の気に入るところであったが、実生活においては新しき村の村外会員として京都、大阪、神戸、和歌山などの支部の集会に足しげく出席して村外会員の増加に努める一方、書きものに追われ「奈良に来ても方々見物して歩く暇はない」といった状況のようであった。新しき村の理想像を追い続けると同時に、村の人々の生活と活動を支える資金を日向の村に送り続けたのである。
 実篤の来寧を機に新しき村奈良支部が創設されることになった。この運動に参画した大和日報の記者北村信昭氏は支部創設前後について『大和百年の歩み 文化編』(大和タイムス社 昭和46)に書きとどめている。支部発会前に水門町の実篤の新居を訪問した印象を「逢った当初から何か暖かい親愛感と、安心感といったものを素直に感じた。(略)弱冠二十歳の小心な文学青年だった私が、四十二歳の文壇の巨匠と相対しているのに、緊張感というものを全く覚えず(略)」と述べている。新しき村奈良支部の事務所は『野天に歌ふ』などの著書のある詩人松村又一氏が主宰していた関西詩人協会の事務所に合わせて置かれ、大正15年3月7日に第1回例会が開催された。参加者は武者小路実篤をはじめ洋画家の浜田葆光、飛鳥園の小川晴暘、加納和弘、松村又一、北村信昭の各氏ら約25名でのちに仲川明氏、松本楢重氏らも参加している。支部創設は当時の新聞各紙に報道されており「大阪朝日大和版」(大正15年3月2日)は「古い因習と煮え切らない姑息とで固まっている奈良もその衝動で目覚めつつ彼の人らが希望する芸術の都となり得るであろう」と書き、奈良支部の仕事として例会のほかゲーテ祭、クリスマス、トルストイの祭、講演会、旅行、展覧会、朗読会など開くことなどが報じられている。
 1年に満たない実篤の奈良在住であったがその「自他共生」の思想と実践は新しい思想や芸術への関心をよせる当時の青年達に少なからぬ影響を与え、ひとつの文化運動を奈良にもたらしたといえよう。
 多作の人であった実篤は、奈良在住のこの年『愛慾』『自然・人生・社会』『文学を志す人に』など単行書10冊を上梓したほか、新聞、雑誌に数多くの作品を寄せている。奈良との関わりにおいて書かれたものは少ないが、東西の美術を自在に論じた『美術を語る』に「薬師寺の吉祥天図」について書かれたものがある。「吉祥天図」は日本の画の中で一番好きな画、と述べ藤原時代の絵画や西洋の油絵など縦横に比べながらその美しさを賛美してしており、実篤の美術への造詣の深さと愛着があらためて伝わってくる一文である。

<参考・引用文献>
大和タイムス社編『大和百年の歩み 文化編』
(大和タイムス社刊 1971)
『武者小路実篤全集』
(小学館 1988)
奥脇賢三著『検証新しき村』
(農文協 1998)
浦西和彦編『奈良近代文学事典』
(和泉書院 1989)
日本近代文学館編『日本近代文学事典』
(講談社 1977)
「近・現代文学に描かれた奈良の相貌」
(『奈良大学紀要』 第15号所収 1986・12)

(井上 はるみ)

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奈良県立奈良図書館「芸亭」