レファレンス・あれこれ (13)

 

 
閲 覧 室
 

Q  1972年にオランジュール美術館で開催されたジョルジュ・ド・ラ・トゥールの回顧展についての関連資料が見たい。

A  『新潮世界美術事典』新潮社1985、『オックスフォード西洋美術事典』講談社1989によればジョルジュ・ド・ラ・トゥール(George de la Tour 1593−1652)はフランスの画家。終生ロレーヌ地方で制作をおこなった。ドラマティックな照明法を用いた「聖ヒエロニムス」などを描いたが、次第に深い精神性に満ちた宗教画の世界に向かい、特に生涯の後半において、蝋燭の光に照らし出された静謐な構図の作品によって17世紀フランスの古典主義の精神を代表する画家とみなされている。1930年代以後になって研究が進み画家としての全貌があきらかになった。
 パリのオランジュール美術館で開催された回顧展については雑誌『みずゑ』no.813(1972年11月)p80〜84「パリのラ・トゥール展」(田中英道)の記事がある。
 この展覧会は1972年5月10日から9月25日までオランジュール美術館で開催されたもので、ラ・トゥールに関する著作をもっ筆者による展示作品の解説と模索や流派の作品が数多く出展されていることについて具体的に作品を論評しながら真作選別の必要性について述べている。またラ・トゥール父子による全く同じ構図をもつ作品のことなど展覧会の概要がまとめられている。収録図版11点。
 このほかラ・トゥールに関連する資料として次のものがある。

  1. 『冬の闇 ラ・トゥールとの対話』田中英道著 新潮社 1972年
  2. 『ラ・トゥール夜の画家の作品世界』田中英道著 造形社 1972年
  3. 『フランス近世名画展』[図録]神奈川県立近代美術館編 毎日新聞社 1983年 p2
  4. 『世界美術大事典 6』小学館 1990年 p133
  5. 検索ツール:
    • 『芸術家索引西洋編』恵光院白編
    • 日外アソシエーツ 1992
    • NACSIS_CAT
    • 総合目録検索システム

(井上はるみ)


 
児 童 室
 

Q 「コン・チキ号」が当初めざした島は何島だったのか。

A 1947年、ノルウェーの科学者へイエルダールは、他の5人の仲間と共に、自分の学説を証明するために、バルサ材で作ったいかだで太平洋へ乗り出しました。その時のいかだの名前が「コン・チキ号」です。
 へイエルダールの学説とは、ポリネシア人の起源に関することで、ポリネシア人の祖先は南アメリカ人だというものでした。彼は当時のポリネシア人の航海技術をもってすれば太平洋横断も可能だと考え、古代インカ時代そっくりのいかだで航海に出たのです。その結果101日の航海の末、ついにいかだは無事にポリネシアの小さな無人島にたどり着きます。その時の航海の様子をへイエルダール自身が記したものが、『コン・チキ号探検記』もしくは『コン・チキ号漂流記』として知られる書物です。
 これは決して児童向に書かれたものではありませんが、冒険物語としても面白いため、児童書としても何冊か出版されています。質問者は大人の方でしたが、子ども時代にも読んだことがあるということで、児童室に電話をかけてこられました。
 さて、コン・チキ号は、果たして具体的にどこかの島をめざしていたのでしょうか? これはもう実際の資料を詳しく調べるしかありませんでした。結果として、コン・チキ号は「ポリネシアのどこかの島」へ出航したのであって特定の島を目指したのではないことが判りました。

参考資料
  1. 『コンチキ号漂流記』偕成社文庫1976年
  2. 『コン・ティキ号探検記』河出書房新社1978年
  3. 『コン・チキ号とわたし』エリク・へッセルベルグ著 文化出版局1980年

(小西 雅子)


 
郷 土 資 料 室
 

Q 奈良市内にある七福神を知りたい。

A 一般に「七福神」とは「恵比寿」・「大黒」・「弁財天」・「毘沙門天」・「布袋」・「福禄寿」・「寿老人」であり、室町時代中期から民間信仰の一つとして発達してきたという。
 大和では「大和七福神」があり、信貴山朝護孫子寺(毘沙門天)、布袋は當麻寺中之坊、寿老人は久米寺、大黒は子嶋寺、恵比寿は小房観音、弁財天は安倍文殊院、福禄寿は談山神社が有名である。
 奈良市内では近年、「七福神」という言葉は耳にしないし、それに関する文献も少ない。ただ、「エビス」については『奈良市史民俗編』で数社が挙げられ、「弁財天」は古くから興福寺の「窪の弁天」との関連で餅飯殿町のように弁財天を祭るところがた「大黒天」や「毘沙門天」については『奈良市の佛像』で確認する事ができたが、「福禄寿」「布袋」「寿老人」については文献の上では全く確認出来なかった。
 そこで、春日大社に問い合せたところ、同社所蔵の「社務日記」から昭和初期に奈良市内の七福神巡りが流行ったことが確認できるという。これによると昭和2年1月2日の頃に弁財天は興福寺(三重塔)のいわゆる「窪の弁天」を指し、恵比寿は南市の恵比須神社、大黒は春日大社(若宮)夫婦大黒社、毘沙門天は東大寺(三月堂)、福禄寿は興福寺(大湯屋)、布袋は東大寺(真言院)、寿老人は興福寺と記述されているようだ。

参考資料
  1. 『奈良市史 民俗編』奈良市史編集審議会編
    奈良sp;1968年
  2. 『仏像めぐりの旅2 奈良』毎日新聞社編
    毎日新聞社 1992年
  3. 『奈良市の佛像 奈良市彫刻調査報告書』
    奈良市教育委員会 1987年

(立川 慶子)

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奈良県立奈良図書館「芸亭」