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1940年(昭和15年) ある小学生(10歳)の日記

1/8
いよいよ第三学期が始まった。僕は三学期がおちるので、教室を戦場と思ひ、えんぴつを軍刀と思ふ心がまへで勉強をしようと思ふ。
2/11
今日はうれしい紀元節、殊に今年は皇紀二千六百年といふ意味の深い紀元節です。宮中では、おごそかな紀元節の御儀式があるそうです。皇紀二千六百年は僕等の誇りだ。…青年団、婦人会、在郷軍人会の人たちが行列をした。
2/28
子供の時間を聞いて、子供の新聞を聞いて居ると、ものいわぬ勇士、軍用犬が僕等の為に、壮烈な戦死をとげた話を聞いて、大へん感激した。
3/2
十一時から英霊を迎ひに行った。七台の電車にたくさんの英霊が白い箱にいれられてしずしずと通った。僕は何だか神々しくなってしぜんと頭が下りました。
4/21
昼から奥谷君、父と西宮で近代機械か部隊の攻防戦争を見に行った。入り口に模型大戦車が作ってあって、吉丸戦車隊長が壮烈な戦死をなさった。戦車がもえたらしくまっかになっておいてあった。それを見てしみじみと兵たいさんに感しゃをした。攻防えん習もおもしろかった。
4/28
朝、大へんよいてんきだったので武庫川へ兵隊さんの演習を奥谷君とみに行った。…兵隊さんは、水の中と草の中と、隊長さんのいふとほりにしてゐます。戦車もみました。空中せんもみました。
7/6
満洲国皇帝陛下をお送りするので昭和通に集りお送りした。お送りの時、本校で数人倒れた。僕の組は誰も倒れなかった。皇帝陛下のお顔をはっきり見た。
10/1
今日は興亜奉公日、そして、昭和十五年度第三次防空訓練がある。今度の訓練は本式で、飛行機から爆弾がおち、子供は外へでたらいかんし、水運を見てゐる。大人はみな、水運にひっぱり出されるのである。学校からかへりに、砂と水が用意した家や消火器の入れてあるはこもある。宿題してゐても、何べんも何べんもぶうぶうとなって父も母も忙しそうにしてゐた。
11/10
紀元二千六百年を奉祝する日は遂にきた。町を通っても「紀元二千六百年」の文字がよくみかける。僕等は学校で式があった。二千六百年唱歌は、宮城へひびけと大声で歌った。
11/19
一日入営のことを先生に告げた。六人も友ができてうれしかった。

…4年後の1944年(昭和19年) 彼は14歳で海軍甲種飛行予科練習生(予科練)として海軍航空隊に入隊する…

敵既に沖縄に迫る。原壽満夫大兄この地で奮戦。我等何ぞ漠然と一日を過してよかるべきか。吾先輩北に南に防人として厳として在り。天地草木春一色に染れり。先生もお元気で何よりです。西船場の国民学校は健在ですか。私の家も全焼しましたが、次から空襲に心配なしと張り切ってゐます。敵愾心のことよく知ってゐます。お互に全力を出し合って、この最難関を突破しようではありませんか。

(1945年(昭和20年)3月29日 小学校の時の担任の先生に宛てた手紙より)

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