教会  

 
  奈良市史 通史第4節 教育と文化によると
大正3年のキリスト教会は奈良市に4つあり  大正3年「奈良姿勢」による。
 教会名  教派  位置  創立年月  教会員数 筆者追記 
 奈良基督教会  日本聖公会  東向南町  明治20年  272  プロテスタント
 奈良浸礼講義所  日本浸礼基督教  東城戸町  明治35年  31  プロテスタント(パプテスト教会)
 聖ベトロポーロ教会  天守公教  阿宇万字町  明治39年  55  カトリック
 平城基督教会  日本組合協会  今御門町  明治23年  5  プロテスタント

昭和16年(1941)戦時体制への適応と宗教団体法施行のため日本のプロテスタント諸派は解散し、日本基督教団に合同した。
戦後の宗教団体法廃止に伴い、日本基督教団は自主的な教会組織として再編された。

奈良県公文書1946作成 旧宗教法人台帳(キリスト、神道、諸派)による
   教会名  住所  創立  登記
 1  日本天守公教奈良教会  奈良市登大路町  明治39年  昭和17年登記(カトリック)
 2  奈良高畑教会  奈良市上高畑町  昭和11年  
 3  奈良佐保教会  奈良市佐保川町  明治41年  昭和6年登記
 8  奈良基督教会  奈良市登大路  昭和5年  

 日本聖公会 奈良基督教会     奈良市 なら町(北部) 奈良市登大路町45-44-2

日本聖公会奈良基督教会は、明治18年(1885)に大阪の聖公会宣教師がアメリカ人伝道者ジョン・マキム牧師を派遣したことに始まります。その2年後明治20年(1887)創立。説教所はその後東向中町、花芝町と移り、大正元年(1912)に東向南町に教会堂が建てられた。
 日本聖公会奈良基督教会会堂(礼拝堂)は、昭和3年(1928)に工事に着手し、昭和5年(1930)に竣工しました。
設計及び施工は、奈良県内で古社寺修理の経験をもつ宮大工大木吉太郎(おおききちたろう)氏(明治20~昭和46年)の手によって行われております。
隣接する親愛幼稚園舎は、当初は教会の会館として計画されておりましたが、竣工間際に幼稚園舎として使用することとなりました。
昭和4年(1929)12月に竣工し。翌4月から親愛幼稚園として開園いたしました。


教会会堂は昭和5年(1930)建築。純粋な和風意匠を採用、瓦屋根に十字架がある。昭和初期の近代和風建築として高い価値がある

    新築の奈良基督教会  昭和5年4月29日聖別式の日
日本聖公会奈良基督発行
絵はがき提供:成瀬匡章氏
 №4518 畳紙(№4506~4517)
「新築の奈良基督教會」
 №4518裏面
昭和5年4月29日聖別式の日
日本聖公会奈良基督発行
 №4506 奈良基督教會正門
 Front view of Christ Chureh,Nara
 №4507 奈良基督教會定礎式
 Laying the foundation of Christ Chureh,Nara

参考:定礎式は昭和3年(1928)7月1日
 №4508 奈良基督教會の内部
 Interior of Christ Chureh,Nara
 №4509 奈良基督教會北門 
Christ Chureh,Nara
 №4510 奈良基督教會及會館
 Christ Chureh and the parish house,Nara
 
 №4511 奈良基督教會 
Christ Chureh,Nara
 №4512 奈良基督教會
 Christ Chureh,Nara 
 №4513 奈良基督教會及會館 
Christ Chureh and the parish house,Nara
 №4514 奈良基督教會及會館 
Christ Chureh and the parish house,Nara
 №4515 奈良基督教會 
Christ Chureh,Nara
 №4516 奈良基督教會
 Christ Chureh,Nara
 
 №4517 奈良基督教會 
Christ Chureh,Nara 
 №4506~4517宛名面
 
   登大路町日本聖公会 奈良基督教会    昭和5年(1930)建築  
平成19年(2007) 3月11日撮影 撮影:河本勝氏
 内観は吉野檜の素木の柱も清々しい神社風に聚楽壁
  
 信徒の育てた桐材を用いた繊細な欄間の透かし模様
  
   
 正倉院宝物の七宝技法を駆使した十字架や聖杯などの聖具
 
 パイプオルガン
 1987年には教会の建物に合わせ、西洋松材で建造されたパイプオルガン
   
 外観は入母屋破風と千鳥破風を組み合わせた和瓦葺きの屋根、真壁造りの壁面構成という寺院風 
   和風意匠を採用、屋根に十字架がある
 
 右奥に興福寺三重塔 
平城基督教会   日本組合教会 今御門町 
奈良市史 通史四 第3章第4節 教育と文化  376頁によると
大正3年「奈良市勢」による。
 教会名  教派  位置  創立年月  教会員数 筆者追記 
 平城基督教会  日本組合協会  今御門町  明治23年  5  プロテスタント
 
 「奈良いまは昔」  北村信昭著 奈良新聞発行 84頁による
「大正前期の日曜学校」に組合協会の日曜学校の記事が出ている
奈良の今御門町に、基督教の組合教会がって、そこの日曜学校に通い始めたのは、大正3,4年頃であった。
この教会の草創については全く知らないが、明治から大正へまたがって存在したもののようである。ただ教会が閉鎖されたのは割合はやく、大正も一けたの間だったと思う。
猿沢池西南隅から南へ、小橋を渡ると左側が魚佐旅館。その並びといっても、ずっと南で、勝南院に接する十字路から五、六軒位手前にあった。
簡単な門があって小庭を残し、丸柱にグリーンのペンキを塗った、平屋建て木造の明治調洋館で、三角形の白壁の破風が正面にみえる建物だったと記憶する。(以下略)
日本キリスト教団  奈良高畑教会    奈良市高畑町1330-3
大正11年(1922)秋にリンドストロム宣教師夫妻が奈良の地に足を踏み入れたところから始まる。
 
翌年に奥村要平牧師が加わって、本格的な伝道が開始され、大正12年(1923)アライアンス教会として正式に発足した。
昭和11年(1936)に現在地(上高畑)に日本奈良協同教会として献堂式が行われた。
 
昭和16年(1941)に日本基督教団奈良高畑教会となる。
平成3年(1991)現在の会堂献堂された
 
 

日本キリスト教団  奈良教会   (プロテスタントの合同教会」  奈良市北半田西町11
大正12年(1923)「奈良ホーリネスト教会」として誕生(奈良市西笹鉾町24番地)
昭和8年(1933)1月会堂・牧師館竣工(奈良市北半田西町11番地(現在地)
昭和8年(1933)10月日本ホーリネス教会分裂(監督派(後のきよめ教会)と委員会派(後の日本聖教会)に分離
昭和11年(1936)「日本聖教会奈良教会」と改称
昭和16年(1941)日本基督教団創立 「日本基督教団奈良教会」と改称 
パンフレットより
 
パンフレットより
 
   
   
 
 奈良基督聖堂  (場所 奈良市法蓮町697-3)  
      奈良高等師範学校の女高生を中心に布教されたが昭和40年ごろになくなり、一般住宅となった。建物はアトリエとして残っている。
≪概略≫
 ◎奈良女子高等師範学校(現奈良女子大)の越智キヨ教授(家政学)が大正9年~12年欧州視察
        アメリカ留学中キリスト教洗礼を受ける。
 ◎大正後期から昭和初期にかけて奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の越智キヨ教授が女高師学生に福音を伝えていた。
       (私立育英女学校にて)

 ◎昭和元年6月4日 土地文筆697-3(後の教会敷地に該当)
 ◎昭和6年頃 越智キヨ教授が土地を提供し、芦屋キリスト教会の長谷川牧師夫婦(敞,初音)とで聖堂と牧師館を当地に建てた。
 ◎昭和9年(1934)6月5日  長谷川初音の所有権登記
 ◎長谷川牧師夫妻は交互に芦屋キリスト教会から通いで女高師生に伝道していたが、
  奈良市民に直接訴える事少なく女高師生の卒業と共に各地に散り行く学生伝道は戦争末期には学徒動員等で数を減じて行った。

 ◎終戦後は田淵牧師が初音牧師に代わってきていたが、牧者の定住しない出張伝道では消長がはげしく、十分な結果を期待できなかった。
   小数の学生有志を相手に、会員の一人島田学長(奈良家庭学園)が十数年学制指導にあたられた。
 ◎昭和37年 これまで奈良聖堂は初音牧師が主管する単立教会でしたが、芦屋浜教会の第二事務所になりました。古川牧師が通い。

         昭和37年(1962)2月14日 日本基督教団 芦屋浜教会へ寄付
 ◎昭和42年一般住宅に売却された。

    牧師館は住宅に建て替えられ、聖堂部は画家権随弦氏(本名一也)のアトリエとして使用される。
    聖堂部建物は現存しています。

                
 奈良基督聖堂 繪はがき (場所 奈良市法蓮町697-3)    絵はがき提供:成瀬匡章氏
                
     絵はがき発行時期:絵葉書の書式から大正7年(1918)~昭和8年(1934)の間のいずれかの年に発行されたと思われる。
 №3619 奈良基督聖堂
 
 №3620 奈良基督聖堂 會堂・牧師館・内部
 №3621 畳紙(№3619~3620)「奈良基督教聖堂繪はがき」
 
   №3619~3620 宛名面
 
   
昭和10年(1935)3月 

越智キヨ教授(後列左端)
と奈良女子高等師範学校の卒業生
記念撮影

越智キヨの右隣り三谷久男(28歳私立育英女学校の先生)その右隣り藤井ショウ育英女学校校長)
その一人置いて右が卒業生の山本孝20歳
(後の岐阜済美学校の元片桐孝理事長)

この写真は当時、越智キヨが私立育英女学校で開いていた「聖書研究会」の皆さまだと思われます。

写真提供:岡原 剛氏
  
 昭和21年(1946)10月2日
航空写真
奈良市法蓮町

国土地理院 資料

USA M275-A-8-8-13
 
 昭和24年(1949)7月30日

奈良聖堂での結婚式

聖堂内


写真提供:岡原 剛氏
 
現在  令和 7年8月10日    アトリエとして使われている聖堂  

写真撮影:河本勝  撮影許可:権随聖典氏(お父さんの画家権随弦氏(本名一也)が使われていたアトリエ)
       
       
アトリエ内部(屋根裏)
 
アトリエ内部(正面方向) 
アトリエ内部(2階より)
 
アトリエ内部(2階より)
 アトリエ内部(東面) 
 
 アトリエ内部(東面)
 
   

 【芦屋キリスト教会の100年】  「芦屋打出教会三十年略史」(1955年(昭和30年)10月16日発行)より

 昭和6年(1931)
 奈良市において二宮誠之助氏宅(当教会員)を開放してもらって出張伝道を試みつつあった。時の奈良女高師教授越智キヨ女史が女高師学生に福音を伝えたいと祈りから、土地百坪を提供されたので、長谷川牧師夫妻(敞、初音)は全国の知己から三十円の前香典を貰って聖堂と牧師館を建てた。芦屋教会をそのまま小さくしたような、それでも百人を容れられる。敞、初音牧師が交互に出張し大きな成果を期待され、女高師生の清き明るい讃美と祈りがきかれたが、奈良市民に直接訴える事少なく卒業と共に各地に散り行く学生伝道は戦争末期には学徒動員等で数を減じて行った。終戦後は田淵牧師が初音牧師に代わって担当、今日に至っているが、前記のような事情と牧者の定住しない出張伝道では消長がはげしく、十分な結果を期待できず、小数の学生有志を相手に続けている。その会員の一人島田学園長*が十数年不動の熱心によって学生の教導にあたられているのは感激である。(*奈良家庭学園初代学園長:島田アサヲ氏と思われる)

 芦屋浜教会は昭和24年(1949)9月、長谷川初音牧師による開拓伝道により、芦屋浜方面在住者のための家庭集会として活動を開始し、打出教打出浜伝道所として発展。
    昭和27年(1952)2月11日芦屋浜教会として創立。

 【日本基督教団 芦屋浜教会にて調査】 昭和36年(1961)12月31日週報から
奈良聖堂は初音牧師が主管する単立教会でありましたが、この度、公的手続きが完了して芦屋浜教会の第二事務所になりました。土地111坪、礼拝堂、牧師館が当教会の財産になったわけです。これがすぐに浜教会のプラスになるとは限らないでしょうけれど、浜教会が西宮と奈良とに伝道地をもって活動できることは愉快なことです。当分は古河牧師に通ってもらいますが時に各部の遠征もよかろうかと思います。

 【桐が谷通信 第59号 2019年6月30日】「卒業記念礼拝「出会いから出会いへ」(マルコ1:16~12) 
           高木総平氏(岐阜済美学院 宗教総主事  ・中部学院大学総合研究センター所長))
前略~私は二年前まで奈良の教会で牧師をしていました。そこでOさんという熱心なメンバーの老夫婦と親しくさせていただきました。家にもたびたび訪ねさせていただき、その方のそれまでの人生の歩みを聞くことも良くありました。いつも言われていたのがキリスト教徒になったのは、伯母の影響がとても大きかったということでした。その伯母の方は、奈良女子高等師範学校(今の奈良女子大)家政学の先生で熱心なキリスト教徒で、学生さんに聖書やキリスト教のことを熱い思いで伝えていた、Oさんはその学生さん、お姉さんたちを見て育ったといつも言われていました。その伯母さんはついには教会を建てるようににもなったと言われ、その古い教会の建物がOさんの家のそばに残ていました。その伯母さんのことはとても印象に残っていましたが、過去の方としてそのような立派な方がいたのだなという認識でした。
中略~二年前に赴任してきた岐阜済美学校の元片桐孝理事長についての文に「孝先生は奈良女高師時代、寮生活を続けられ、キリスト者であった家政科長の越智キヨ先生の指導を受けて,有志とともに聖書研究会を開かれました。場所は近くの奈良育英高校でした。」この越智先生との出会いから決定的な影響を受けたのです。孝先生がキリスト教学校での歩みを始める原点となったのがこの越智キヨ先生だったのです。
先に述べた、このOさんの伯母さんが越智キヨ先生だったのです。
 運命の出会い、めぐり合いの素晴らしさを感じました。
 ≪追記≫
 越智キヨ
 (明治10年(1877)~昭和31年(1956)
本籍:山口県山口市上宇野
明治10年11月28日、元萩藩主毛利家の藩士河野鼎蔵の長女として萩市に生まれる。
山口町立鴻東尋常小学校卒業(4年)
明治28年3月30日、山口県尋常師範学校卒業、2年間山口県で小学校訓導。
明治36年3月30日、東京女子高等技芸科卒業、附属中学校教諭
明治37年、シャム国皇帝の招聘により、日本の女流教育者3名(安井哲子他)の1人として、シャム国クイーンスクール教授として3年間皇族子弟の教育に当たる。
帰国後、女子高等師範学校研究科に入学(3年間)、卒業。この間東京帝国大学にて衛生学、看護学および病理学を聴講し、また東京赤羽学園にて料理を勉強して、報告書を提出して合格認定の証明書を授与さる。(明治41年)
明治42年(1909)4月7日、奈良女子高等師範学校助教授、家政学(料理、医学、建築等)を担当する。
大正6年、奈良女子高等師範学校教授となる。
奈良6年6月4日、文部省視察委員になる。
大正9年3月7日、文部省留学生として、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア等にて主として家政学、医学を研究する。
この間、アメリカにてキリスト教洗礼を受ける。
大正12年5月5日、帰国。奈良女子師範学校教授に復職。
キリスト教者で聖書研究会を奈良育英高校で開催
昭和15年3月31日、奈良女子高等師範学校を依願退職。
教職を退いた後は特に信者としてキリスト教の布教や組織に貢献した。
阪府立大手前高等女学校・同志社女子専門学校・平安女学院などの講師を歴任。また、高等女学校用の教科書執筆も手がける
戦前の住所は西笹鉾町16,戦後は奈良市法蓮町697聖堂近くに住む。
昭和31年12月24日 79歳 奈良市内の実弟越智通治氏宅にて死亡
 
上記は下記より引用
 
(大阪教育大学紀要 第Ⅱ部門 第29巻 第2・3号(1980年12月)
「越智キヨ氏の台所設計について」 新福祐子 大阪教育大学家政学教室(昭和55年6月30日受付


 長谷川初音 
(明治23年(1890)~昭和54年(1979)
日本組合基督教会の最初の女性牧師。讃美歌作家でもある。
大正4年(1915)東京女子高等師範学校文科を卒業し、音学科の無試験検定を取り、神戸女学院で宗教主事を永く努めた。
牧師になるために、日本組合基督教会に嘆願書を提出し却下されたが昭和10年(1935)にようやく受理さtれ、牧師試験に合格。按手礼を受けた。
大正15年(1926)芦屋打出教会設立。昭和24年(1949)芦屋浜教会設立。
日本基督教団 大和キリスト教会   学園朝日町      写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会   

昭和33年(1958年)日本基督教団大阪地区総会はプロテスタント宣教百年記念行事として奈良に教会堂建設決定。昭和33年(1958)5月献地式
昭和34年5月献堂式が行われた。建物は当時大阪浜寺海岸にあったアメリカ駐留軍のチャペルを移築。
昭和34年(1959)12月日本基督教団に奈良大和教会として登録。   
明治16年(1883)全国基督教徒大親睦会幹部。
内村鑑三、新島襄 の姿も見える。

写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
 昭和33年(1958)5月献地式 

写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会
 昭和33年献地式当日
木製大十字架右の円形建物は帝塚山学園。駅まで建物はなかった。
 
写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会
 昭和33年献地式来賓
学園前駅にて 

写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会
 昭和35年(1960)当時の大和キリスト教会礼拝堂(外観)
十字架を掲げる丘の教会
 
写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会
朝夕教会の塔から鐘の音が流れた。 
写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
 旧礼拝堂と桜 

写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会
旧礼拝堂
 
写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
旧礼拝堂
 
写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
昭和38年(1963)あさつ混成合唱団
 
写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
昭和54年(1979)イブ礼拝にて
聖歌隊
 
写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
収穫感謝バザー
昭和57年(1982)
写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
 芋掘りパーティー
昭和58年(1983)

写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会
平成11年(1999)新教会堂第一期工事起工式
 
写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
平成12年(2000)教会学校小学科
クリスマスイブページェント

 写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
新礼拝堂 聖別式
平成13年(2001)7月
 写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
平成21年(2009)大和キリスト教会礼拝堂・教育館(外観)
(2002年に新会堂竣工) 
写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
朝の光の中に大礼拝堂
平成21年(2009)
 
写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
 黙想と祈り小礼拝堂
平成21年(2009)

写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
 平成14年(2002)新礼拝堂玄関と回廊
 
写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会
 平成20年(2008)秋のバザー 
写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会
平成20年(2008)イブ礼拝
写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
平成20年(2008)イブ 聖歌隊

 写真提供:日本基督教団 大和キリスト教会 
 
日本基督教団 高の原教会    昭和60年(1985)3月15日設立      

1975年西大寺YMCAにて第一回礼拝が行われ、1980年新大宮に移り、昭和60年(1985年)3月17日高の原の新会堂で第一回礼拝が行われた。  
 昭和50年(1975)4月6日
第一回礼拝
於:西大寺YMCA
 
昭和50年(1945)4月29日
開所式
 
  昭和55年(1980)新大宮プレハブ仮会堂
 
 高の原新会堂建設はじめ
 起工式は昭和59年(1984)9月16日
 昭和59年
高の原新会堂建設中
  
 高の原新会堂建設中 
 昭和60年
高の原新会堂建設完直前
 昭和60年(1985)3月21日
高の原教会献堂記念
  
昭和60年頃の高の原教会   昭和60年頃の高の原教会
 
 昭和60年頃の高の原教会       
  昭和60年頃の高の原教会      
  昭和60年頃の高の原教会      
  昭和60年頃の高の原教会      
平成10年(1998)頃
野外礼拝
於:カトリック野外礼拝センター  
平成14年(2004)10月31日
野外礼拝
於:カトリック野外礼拝センター
 
 平成17年(2005)
 奈良市北部会館から見た教会