※下記は、2010年に確認した内容でありますが、その後外観や記載内容が変更されている場合があります。

天誅組史跡(東吉野村)(てんちゅうぐみしせき/ひがしよしのむら)

概要

明治維新の先駆けといわれる天誅組が最期を遂げた東吉野村には、ゆかりの史跡がいくつもある。
文久3年(1863)8月、攘夷(じょうい)祈願のための孝明天皇の大和行幸に先立って、同17日、公卿・中山忠光を主将に数十人の志士たちで構成する天誅組は、大和国南部の幕府領を支配する五條代官所を襲撃。しかし、翌18日の政変で大和行幸は中止され、9月24日から28日にかけ、追討する幕府軍と東吉野村で激闘を繰り広げた。
3人の総裁のうち、吉村寅太郎は鷲家谷籠屋畑のまき小屋で、藤本鉄石は鷲家で、松本奎堂は伊豆尾笠松で戦死。
特に激戦だった鷲家口では、植村定七、那須信吾、山下佐吉ら7人が戦死している。
中山忠光は7人で東吉野村を脱出し、大阪や京都にたどり着いた。一方、これとは別に脱出した多くは、途中で捕まり処刑され、最後まで逃げ延びることができたのはわずか数人だった。
志半ばで散っていった志士たちは、村内の明治谷墓地、湯ノ谷墓地に祭られた。村内にある志士らの菩提寺の一つ、宝泉寺では、毎年11月5日、東吉野村天誅組顕彰会によって法要が営まれる。

参考

所在地:奈良県吉野郡東吉野村

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