崇峻天皇は、蘇我馬子の後ろ盾により即位したが、後に蘇我氏との関係が悪化し、最終的に、馬子の差し向けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺され、その日のうちに倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬られたと古事記に記されている。
崇峻天皇の宮・倉梯柴垣宮と考えられている桜井市倉橋付近に、位牌(いはい)を祭る寺があったことから、明治時代に宮内庁が、この地の円墳を崇峻天皇の倉梯岡陵に比定した。
しかし、現在では、近くの天王山古墳を崇峻天皇陵とする説が有力となっている。
所在地:奈良県桜井市倉橋
参拝自由