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戰陣訓かるた

解題

日中戦争の長期化の中で、ややもすれば乱れがちな軍規を正すために、昭和16年1月陸軍大臣訓示として「戦陣訓」が出され、明治期の軍事勅諭につぐ陸軍軍人の行動規範とされた。井上哲次郎、島崎藤村なども加わって美文調に仕上げられた戦陣訓は、日米開戦前夜という緊迫した時代状況の中で、映画化、演劇化、レコード化されるなど反響を呼んだ。

解説本も数多く出版され、これらでは、必ずと言っていいほど陸軍軍人のみではなく、広く国民が戦陣訓の精神を汲むべきことを強調していた。また、戦陣訓の精神が「国漢・国史・公民の教科と重大関連ある点に思いを致し」「受験準備の立場から、右学科の背景資料となるうえ、口頭試問・作文・書取の必須資料であるから再読三読して全文の精神を体得し、全語句を習熟」することを求めたものもあった(大串兎代夫『臣民の道精講戦陣訓精講』1941、旺文社)。本書で並んで取り上げられた文部省による『臣民の道』(1941)や『国体の本義』(1937)などもあったものの、戦陣訓は4000字弱と、よりコンパクトであった。その点において、受験対策用の材料としてもとっつきやすかったのだろう。おそらくは、小学生を対象にしたいろはがるたに取り上げられたのも、こうした延長線上にとらえることができる。

戦陣訓は戦後、「生きて虜囚の辱を受けず」の句とともに記憶されることになるが、戦陣訓本文から、50の語句を選び出して作成された「戦陣訓がるた」(1941.11)はこの章句をかるた化していない。直前の「名を惜しむ」「恥を知る者は強し」はかるた化されているが、家門を染めた旗を立てて出陣する武士や、敵に弓を拾われるのを恐れた源義経のエピソードが紹介されるにとどまっている。解説書の類でも、「生きて虜囚の辱を受けず」については触れていないものすらあり、少なくとも、制定当初の段階において、特に強調されたり、問題視される個所ではなかったことがわかる。

暗黙に捕虜となることを忌避する風潮は、それ以前から日本軍に存在しており、そうした観念が、一般的な軍規、軍律とともに、特に意識されることなく、記されたといってよい。

しかし一般国民にも一定程度浸透した戦陣訓に、この語句が明文化されたことは、戦局が極度に悪化していくなかで、民間人ですら敵に降ることは恥辱とする様な風潮を生み出す一因ともなった。

かるたの絵札の内容を見ると、軍隊や軍人の姿を描いたものが約20と多い。訓練の重要性を説いた「ひ」の絵札では艦隊が書かれているが、明らかに海軍を描いたものは、これと「ゐ」の絵札だけで、やや例外的である。これは、戦陣訓自体が、あくまでも陸軍軍人に向けられた陸軍大臣訓示である以上当然ともいえる。しかし、軍歌「月月火水木金金」(昭和15)で歌われたように、猛訓練は海軍(連合艦隊)と結びついて意識されており、陸軍省報道局の検閲を経たかるたでも、無視しえなかったのであろう。

戦陣訓の語句を、歴史上の人物や出来事を引き合いに出して解説を加えている札も多い。人物としては、和気清麻呂、菅原道真、平重盛、源義経、河野道有、楠正成・正行、木下藤吉郎(豊臣秀吉)、山内一豊の妻、高山彦九郎、東郷平八郎、乃木希典(絵札「す」)が取り上げられている。加えて、赤穂浪士の討ち入りと維新時の官軍が取り上げられている。戦陣訓本文では、あまり歴史的事項を取り上げていないが、個々の徳目や行動規範を説明するのに、戦前期の教科書などでよく知られたエピソードを選んで、解説するという手法をとっている。こうした手法は解説本でもしばしば使われるものであった。ただ、本文の順に並べると楠正成・正行を絵札化した「忠孝一本は我が国道義の精粋」「父母の志を体し、克く尽忠の大義に徹し」は、同内容であり、絵札(桜井の別れと正行の最期)が入れ替わっても、通用してしまうという点では、やや構成に難がある。

また、少年が柴を背負い、戦死者が出たことを示す「名誉の家」に帰宅する絵札「や」は、絵札の中で唯一この時代の銃後を描いたものである。「学生生徒に到るまで味独心誦」する必要があるという割には意外と少ないと言える。

なお、編者の川口貞一については、箱の裏に京都市中京区二条東の住所があり、かるた業者と思われるがはっきりしたことはわからない。

戰陣訓かるた 箱表 戰陣訓かるた 箱裏

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