図書情報館にきいてみよう
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このコーナーでは、過去にいただいた質問をもとに、どのような調べ方や回答をしたのかご紹介します。
奈良に関するレファレンス事例
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過去の事例
Q.36-40
Q.31-35
Q.26-30
Q.21-25
Q.16-20
Q.11-15
Q.6-10
Q.1-5
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Q.54 第60回正倉院展に出展されていた白瑠璃碗(はくるりのわん)がこの回以前に出展されたのは、第何回であったのかを知りたい。 A.54 白瑠璃碗(はくるりのわん)とは、ガラス製の切子碗(きりこわん)。ササン朝ペルシアよりシルクロードを通じて伝わったとされる厚手のグラス碗です。 世界各地のコレションに類似品があるが、当初の輝きと透明度を保っているものは正倉院のこの椀が唯一とされています。 シルクロードの交流を象徴し、古代ガラスの美しさを現在に伝える貴重な宝物とされています。
当館所蔵の正倉院展の図録で確認致しましたところ、『正倉院展』平成七年(第四十七回)図録の「ごあいさつ」によると、 平成七年は、正倉院展としては、第四十七回にあたるが、戦後開催された正倉院宝物の展覧会としては、五十回目の節目の年であったので、 第一回正倉院展(昭和二十一年)で公開された三十三件の宝物も出陳されたとの記載がありました。 これにより、白瑠璃碗は、『正倉院特別展觀目録』(昭和二十一年)、第四十七回『正倉院展』(平成七年)(p.86)と、 その後の第六十回『正倉院展』(平成二十年)(p.26)にも掲載されており、出展されたことが確認出来ました。
◆出典・参考資料
『正倉院特別展觀目録』 [1946] 私製 吉川弘文館 (709-25-1)
『正倉院展』 平成7年(第47回) 奈良国立博物館, 1995.10 (709-25-47)
『正倉院展』 平成20年(第60回) 奈良国立博物館, 2008.10 (709-25-60)
Q.53 太安万侶(多安万侶)の住居がどこにあったか、今のどこにあたるか知りたい。 A.53 昭和54年に奈良市此瀬町で発見された、太安万侶の墓の墓誌には「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之書養老七年(七二三年)十二月乙巳」と書かれており、 太安万侶は左京の四條四坊に住んでいたことがわかります。
『大和国条理復元図 no.20』で左京四條四坊を確認すると、現在の三条添川町あたり、三条通と四条大路にはさまれた区域です。
『平城京街とくらし』p120に、「住所と名前のわかる平城京の住民」というページがあり、116名の名前および、平城京の簡単な地図に印があるものがあります。
◆出典・参考資料
『日本古代氏族人名辞典』 吉川弘文館 (288.1-39)
『大和国条里復原図』 奈良県立橿原考古学研究所編 奈良県教育委員会 (611.22-38〜F)
『平城京街とくらし』 田辺征夫著 東京堂出版 (210.35-88)
Q.52 天武天皇の肖像画が載っている資料があるか。 A.52 天武天皇の肖像は江戸期の博物図録集『集古十種』に掲載されており、これを典拠資料として『日本肖像大事典 中巻 : さ-は』p119、『日本の肖像画:集古十種より』p2にも 掲載されています。
また、薬師寺には画家小倉遊亀が描いた「天武天皇像」が奉納されており、例年天武忌(10月9日)に公開されていますが、この「天武天皇像」を収録しているものに 『小倉遊亀:現代の日本画』『小倉遊亀展』などがあります。
このほか天皇即位前の大海人皇子を画家大亦観風が描いた絵が『万葉集画撰』に収録されています。
◆出典・参考資料
『集古十種 肖像之部』 [出版者不明] (049-7)
『集古十種:85巻 総目録全』 松平定信編 郁文舎 (708.7-シユウ)
『日本肖像大事典 中巻 さ-は』 山口昌男監修 日本図書センター (281.038-2)
『日本の肖像画:集古十種より (双書美術の泉:79) 』 中里義夫解説 岩崎美術社 (708-60-79)
『小倉遊亀展 』 日本経済新聞社編 日本経済新聞社 (721.9-93)
『小倉遊亀 : 現代の日本画 』(朝日美術館:日本編4) 小倉遊亀 [画] 朝日新聞社 (705-26-4)
『現代の日本画 4 小倉遊亀』 小倉遊亀著 橋秀文責任編集 学習研究社 (721.9-107-4)
『万葉集画撰 』 大亦観風著 再編版 奈良新聞社 (911.12-123)
Q.51 「葛城川」の源流はどこか知りたい。 A.51 『奈良県の地名』p.27に、「「葛城川」は御所市の金剛山中に発して御所市→新庄町→大和高田市→広陵町で曾我川と合流して大和川に注ぐ。 主な支流に金剛葛城山中から発する水越川・柳田川・安位川がある。」と掲載されていますが、源流が金剛山中のどこあたりかという事になると、 明確に記載された資料は見つかりません。 『河川大事典』には、「上流端は御所市鴨神の前ブケ・上野」、「水源地は御所市南西部金剛山地の金剛山麓」と記載されています。 Web検索では、個人のサイトのようですが、源流地域の写真が掲載されています。
◆出典・参考資料
『奈良県の地名 日本歴史地名大系:30 』 平凡社 [編] 平凡社(291.034-11-30)
『角川日本地名大辞典 29奈良県 』「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店(291.03-62-29)
『奈良県史 1 地理 : 地域史・景観 』 藤田佳久編 名著出版 (216.5-439-1)
『河川大事典 』 日本アソシエーツ編 紀伊国屋書店 (517.2-17)
Webサイト
《AGUA》葛城川 (最終アクセス:2009/01/23)
Q.50 県内の民俗的な踊り、特に「なもで踊り」や「太鼓踊り」に関する資料を紹介してほしい。 A.50 『奈良県総合文化調査報告書-都介野地区』の「吐山の太鼓踊」の項に詳しい解説があります。 また、『奈良県総合文化調査報告書-吉野川流域龍門地区』に、ナモデ踊りは「歌詞から見ると、山辺郡吐山の太鼓踊り、添上郡大柳生のガトー踊りも、別のものではなかろう。 結局、近世相当広い地域に亘って行なわれた踊りだったのである。」 という記述が見られます。 『やまとまつり旅 : 奈良の民俗と芸能』の「大和の太鼓踊りについて」では、太鼓踊りは、「風流踊り」の一つで、県内でも「ナモデ踊り・イサミ踊り・など、 いろいろな呼び方がされてきた」と書かれています。『奈良市史民俗編』の「太鼓踊」・「太鼓踊歌詞」、『改訂都祁村史下巻』(都祁村 2005) 「伝来された「太鼓踊り」歌本」の項、『吐山の太鼓おどり 』(都祁村教育委員会編 1984)などにも記述があります。 なお、現存する太鼓踊りとして「大柳生(奈良市)」「吐山(奈良市)」、「国栖(吉野郡吉野町)」、「丹生(吉野郡下市町)」の地域などで今も踊りが伝承されています。
◆出典・参考資料
『奈良県総合文化調査報告書-都介野地区 』 奈良県教育委員会 (216.5-57-1)
『奈良県総合文化調査報告書-吉野川流域龍門地区 』 奈良県教育委員会 (216.5-57-2)
『やまとまつり旅 : 奈良の民俗と芸能 』 鹿谷勲著 やまと崑崙企画 (386.165-シカタ-2001)
『大和の祭り 』 高田健一郎著 向陽書房 (386.2-2)
『奈良市史 民俗編 』 奈良市 (216.5-240-2)
『改訂都祁村史 下巻』 都祁村 (216.5-ツケソ-2005)
『吐山の太鼓おどり』 都祁村教育委員会編 (385.7-14)
『石打太鼓踊り : 月ケ瀬村石打地区伝統民俗芸能 』 石打太鼓踊保存会編 石打太鼓踊保存会 (385.7-21)
Q.49 奈良の茶粥に関する資料。東大寺の修二会でも茶粥が食されていると聞くが、関係の資料があれば教えてほしい。 A.49 奈良の茶粥については、『奈良茶粥』に起源について、『聞き書奈良の食事』、『郷土大和の味』などにはその作り方などが紹介されています。
茶粥の起源は古く、東大寺修二会(お水取り)にも食されていたという記述があります。修二会に食される茶粥については、『東大寺辞典』に詳しい解説が記載されています。 修二会で練行衆が毎日晨朝を終えて宿所に戻り食す粥食が茶粥で、その中の上澄みと米とを区別して、上澄みを「ゴボ」、下の茶飯を「下茶(げちゃ)」と言うようです。 「ゴボ」の項には「汁ととけた米を鍋に残すので、これをすくうとき「ゴボゴボ」と音がするからゴボといわれている」と記載されています。
また、清水公照氏が『お水取修中絵日記』に「ごぼ・げちゃ」について書かれていますし、今西祐行氏の「大和茶粥」と題したエッセイや雑誌『あかい奈良』にも 起源などについての記述があります。
◆出典・参考資料
『聞き書奈良の食事 』 「日本の食生活全集奈良」編集委員会編 農山漁村文化協会 (383.8-61-29)
『奈良茶粥 』 宮武正道著 山本書店 (914.6-518)
『郷土大和の味 』 奈良県学校給食栄養研究会出版 (596.1-81)
『東大寺辞典;新装版 』 平岡定海著 東京堂出版 (188.35-51)
『お水取修中絵日記 』 清水公照著 研光社 (186.1-16)
『大和茶粥 : エッセイ'93』 日本文芸家協会編 楡出版 (914.6-ニ-19)
『あかい奈良 : total landscape magazine 』通卷6号 1999年冬号 特集:やまと菜食館:茶粥の旅
Q.48 五条付近の流し雛について知りたい。 A.48 『五條市史 新修』によると、「四月三日五條市の南阿田では、竹の皮の両端を折り曲げてとめ、長さ一五糎(センチメートル)ぐらいの舟をつくり、それに千代紙や色紙で五糎から十糎 ぐらいの大きさの人形を家族の女の数だけつくって乗せて、吉野川に流す。」という風習が今なおおこなわれているようです。前日から女性たちが集まって人形を作って雛壇に飾り、 当日はそれぞれが雛を手に河原に集まり、代表が危難除けの願文を読み上げいっせいに雛を流すその様子は、きらめく川面に百余の雛舟がゆらゆら流れてまことにゆかしい とも書かれています。『金陽雑誌 7号』所収の「“雛祭り”―五條の流しビナについて―」には、山の神をむかえる行事で四月三日に吉野川原へ老若男女がうちつれて出かけてゆき 会食をする「レンゾ」という祭りが、五條の流し雛とも関連があると説明があり、イラストも掲載されています。 『奈良縣宇智郡誌』にもこれと同様の記述があります。
◆出典・参考資料
『五條市史 新修 』 五條市史調査委員会編 五條 : 五條市史刊行会 (216.5-462-1)
『金陽雑誌 』7号 1972年3月15日 玉村禎祥 (291.65-429)
『奈良縣宇智郡誌 』 [奈良県] : 奈良県宇智郡役所 (216.5-22)
Q.47 吉野地方に伝わる「つるべずし」について知りたい。 A.47 「つるべずし」は、「つるべのかたちの曲げ物に、吉野川特産のアユを使ったアユずしを詰め、なれさせたもの」で、「曲げ物のすし桶に笹の葉をしき、アユをしき詰め、 なお笹の葉でおおい、上から重石をかけると、板ではさんで藤づるで固くしめ」て作られています。
文治年間、吉野・下市村の宅田弥左衛門の家に弥助と名乗り潜んでいた平維盛と娘お里の恋に、兄いがみの権太がからんで織りなす歌舞伎「義経千本桜鮨屋の段」に登場し 有名になったのが、今も下市に五十代近く続いて在る鮨屋「弥助」です。同家の鮎鮨は釣瓶形曲桶につけて作るので一名「釣瓶鮨」とも呼ばれています。 『近江・奈良四季の味 : 洛南・滋賀・奈良』に、釣瓶桶、アユずしの工程などがカラー写真で紹介されています。
◆出典・参考資料
『大和下市史 』 下市町史編纂委員会編 下市町教育委員会 (216.5-183-1)
『わたしの大和路』 奈良新聞社編. 奈良新聞社 (291.65-515)
『近江・奈良四季の味 : 洛南・滋賀・奈良 』 東京 : 集英社 (596.1-76)
『大和の味 』 田中敏子著 改訂版 奈良 : 奈良新聞社 (596.21-タナカ-2001)
Q.46 「登美ヶ丘」の地名の歴史的な由来を教えてほしい。。 A.46 登美ヶ丘・東登美ヶ丘・西登美ヶ丘・南登美ヶ丘の地域は行政町名として押熊(おしくま)・中山・二名(にみょう)・三碓(みつがらす)町と呼ばれていましたが、 昭和38年の宅地開発のおり、この地域が丘陵地帯であったところから登美ヶ丘と命名されました。『奈良町風土記 続編』によりますと、 「登美というのは神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)との戦いに金鵄(きんし)の飛来によって皇軍が大勝を得たので、この地を鵄邑(とびのむら)と称したと 『日本書紀』に記されているところから生まれたと伝えている。その後、鵄邑が鳥見郷となり鳥見庄と変わり、鳥見の鳥を忌んで佳字登美をあてた。」と記されています。
『地名伝承学論 補訂』の「登美―三碓伝説」には『神武紀』『万葉集古義』等から文章を引用し詳しく書かれていますが、内容的には『奈良町風土記 続編』と同じです。
◆出典・参考資料
『奈良町風土記 続編 』 山田熊夫著 豊住書店 (291.65-458-2)
『地名伝承学論 補訂 』池田末則著 クレス出版 (291.65-イケタ-2004)
Q.45 奈良の「法論味噌(ほうろみそ)」について書かれてある資料を紹介してほしい。 A.45 法論味噌は、護命味噌とも飛鳥味噌(明日香味噌)ともいい、護命(ごみょう)僧正が初めて作って法論の間に粥に添えて出したと伝えられています。 建長6年(1254)に成った『古今著聞集』に、南都の僧の持参した土産として書かれているので、相当早い時代からあったものと思われ、元興寺の土産から、 広く南都の土産品となっていたようです。飛鳥味噌(明日香味噌)といわれるのは、飛鳥寺(元興寺の別名)の産物だからとか飛鳥川のほとりだからその名があるといわれています。
法論味噌に関して詳しい資料はありませんが、下記の資料が参考になります。
◆出典・参考資料
『元興寺の歴史』 岩城隆利著 吉川弘文館 (188.35-56)
『奈良市史 通史2、3 』 (奈良市 1994、1988年) (216.5-240-10.2〜10.3)
『南都名所記』 繪圖屋庄八(291.65-カイセ)
『南都名産文集 』 ( 『青須我波良 』 第3号 1971年5月) (910.5-21)
「法論味噌考」 『大和志 』第4巻第10号 1937年10月)
Q.44 奈良町における貸座敷制度について資料や概要を知りたい。 A.44 奈良町の色街としては、木辻と元林院が有名でした。木辻は江戸寛永年間頃から知られているのに対し、元林院は明治5年(1872)10月の「芸娼妓解放令」で芸妓の置屋・席貸の町 となったところです。奈良県ではこの翌年1月、遊女芸妓飯盛女などの年季奉公解放によって席貸業開店許可がおりています。この根拠については今のところ、 「奈良県布達」では確認出来ていませんが、『ならの女性生活史 花ひらく』(奈良県発行)の「奈良県女性のあゆみ」年表に記述があります。
その後、奈良県は、明治9年(1876)4月に堺県に合併され、さらに明治14年(1881)2月に大阪府となりましたが、明治20年(1887)11月、奈良県は大阪府から分離されました。 『奈良県警察史 明治・大正編』によりますと、大阪府から分離独立後の奈良県では、明治16年(1883)12月に大阪府が制定した「貸座敷娼妓取締規則」を適用していましたが、 明治25年(1892)6月独自に「貸座敷娼妓営業取締規則」を制定し、営業区域を奈良町の木辻・元林院、郡山町の洞泉寺・東岡町の4ヵ所に限定したといわれています。
戦後、昭和21年1月21日にGHQが「日本ニオケル公娼廃止ニ関スル覚書」を出し、日本の公娼制度の廃止を指令しました。奈良県も同年3月1日「貸座敷業」を廃止させ、 新たに料理営業許可を与えています。こうして明治からの「貸座敷制度」は廃止されました。
◆出典・参考資料
『花ひらく : ならの女性生活史 』 ならの女性生活史編さん委員会編著 奈良県 (367.21-75)
『奈良県警察史 』 明治・大正編、昭和編 奈良県警察史編集委員会編 奈良県警察本部 (317.7-25-1〜2)
Q.43 「般若の芝」に関する文献はないか。 A.43 毎年薪能が行われる興福寺南大門の跡地あたりが「般若の芝」といわれていたようです。由緒にふれた部分が『大和名所圖會,残2巻』にあります。 南大門の「石壇の下なるしばそこに、いにしへ大般若経 六百巻うづまれしゆゑに、般若の芝と号す。」伝承とはいえ般若心経との関わりが深そうです。
◆出典・参考資料
『大和名所圖會, 残2巻 』 秋里籬島著 竹原信繁画 出版者不明 (291.65-ヤマト-2)
『奈良名所八重桜 』 大久保秀興著 横山重監修 横山重、小川武彦解説 勉誠社 (291.65-454)
『奈良曝 巻二』 西村嘯月堂(291.65-ナラサ)
Q.42 芝村騒動について知りたい。 A.42 芝村騒動は、宝暦三年(1753)年に十市郡にあった芝村藩の天領の預地九ケ村が、貢租減免を求めて、芝村役所に訴えたが、取り上げられなかったので、 稲刈取りを拒否し、大挙して京都町奉行へ箱訴訟(目安箱へ投書)した事件です。
◆出典・参考資料
『日本民俗社会史研究』所収 木村博一「芝村騒動」覚書 肥後先生古稀記念論文刊行会編 弘文堂 (382.1-129)
『近世民衆運動の展開 』所収 谷山正道「享保改革の年貢増徴政策と大和国幕僚農村」谷山正道著 高科書店 (210.5-231)
『芝村騒動を探る』 近藤正俊著 浄教寺 (210.55-コント-2003)
『橿原市史 史料第三巻』所収 宝暦箱訴一件吟味次第 改訂橿原市史編纂委員会編 橿原市 (216.5-472-3.3)
『増補四訂八丈島流人銘々伝』 葛西重雄他著 第一書房
『会報「いこま」第五号 』生駒市生涯学習グループ 古文書を読む会(210-イコマ-Z)
Q.41 県内の柿についてまとめた文献はないか。 A.41 柿の収穫量は和歌山県、奈良県、福岡県が生産量1万t以上の柿生産御三家です。奈良は室町時代に柿の産地として名前が載っています。 あまりまとまった文献はありませんが、以下の参考文献があります。
◆出典・参考資料
『 優良早生柿の栽培安定対策 』 (新技術解説書:No.24) 奈良県農業試験場編 奈良県農業試験場 (615-14)
『 後継者就農の多い地域の農業経営構造と今後の後継者の動向 : 茶生産地帯及び柿生産地帯を中心として. 』(青年農業者育成確保推進事業資料:H6) 奈良県農業会議(611.7-68 )
『 奈良県柿出荷協議会資料』 奈良県経済部, 奈良県果実連編 奈良県経済部/奈良県果実連(625.4-ナラケ)
奈良特産品振興協会ホームページ (最終アクセス:2007/08/23)
柿博物館〜奈良吉野いしい〜ホームページ (最終アクセス:2007/08/23)
その他全般的なレファレンス事例
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過去の事例
Q.36-40
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Q.26-30
Q.21-25
Q.16-20
Q.11-15
Q.6-10
Q.1-5
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Q.50 水原秋桜子の「松と紅葉何ぞ障子の浄らなる」という句が、秋櫻子にとってメジャーな句と、言われているそうだが、どこで詠まれた句か、どの句集に出ているのか、知りたい。 A.50 「松と紅葉何ぞ障子の浄らなる」という句は、中宮寺で読まれたものと思われます。
『水原秋桜子全句集索引』で見ますと、『帰心』(昭和28)という句集に収録されていることがわかりました。また、『秋桜子俳句と奈良大和路』(石井庄司著 東京美術 1988)には 中宮寺の項にその句が挙げられています。前後の文章は、「戦後になって、句集『帰心』に二句。 松と紅葉何ぞ障子の浄(きよ)らなる 冬菊に厨子くらければひざまずく まだ、元のままのお堂である。南側の障子の明かるく浄らかなことに感嘆しておられる。そして、今回は、冬菊が供えてある。観音さまの前にひざまずいて拝したというのである。」 とあります。
◆出典・参考資料
『水原秋桜子全句集索引』 小野恵美子編 安楽城出版 (911.362-ミスハ)
『秋桜子俳句と奈良大和路』 石井庄司著 東京美術 (911.36-416)
Q.49 象鼻杯(ぞうびはい)について調べてほしい。1.中国で流行した年代 2.日本には、いつ頃渡来したか。それらについて書かれたものはあるか。 A.49 三世紀頃の中国で暑気払いとして親しまれていた飲酒方法です。ハスの葉の中心に小さな穴を開け、その葉にお酒を注いで茎を通して飲みます。 その姿が象の鼻に似ていることから象鼻杯と称されています。『酉陽雑俎』(ゆうようざっそ)p.25には三世紀の三国時代の曹魏(そうぎ)、 または六世紀の南北朝時代の北魏(ほくぎ)の正始年間のときに、鄭公愨(ていこうかく)が山東省へ避暑におとずれた時の酒宴のようすが書かれています。 『中国の酒書』p.152には、「象鼻杯の酒の味には蓮の香気が混じって風味もよく、その冷たさは水にも勝るものだったようだ」と書かれています。 2.については掲載されている資料が見つかりません。 『百人一酒』P.40「象鼻杯」で著者の俵万智さんが読者に情報を求める一文が掲載されています。
◆出典・参考資料
『酉陽雑俎 2』 段成式 [撰]今村与志雄訳注 平凡社 (080-6-389)
『中国の酒書』 中村喬編訳 平凡社 (080-6-528)
『百人一酒』 俵万智著 文藝春秋 (914.6-タ-182)
『中国の酒』 大谷彰著 柴田書店(588.5-8)
『中華名物考』 青木正児著 平凡社 (080-6-6479 )
Q.48 漢詩を作るので「平仄(ひょうそく)」について知りたい。辞典などは所蔵しているか。 A.48 平仄とは漢字を韻によって4つ、平声(ひょうしょう)、仄は上声(じょうしょう)・声(きょしょう)・入声(にっしょう)に区別したもので、平は平声(ひょうしょう)、 仄は後の3声をさします。また、漢詩の近体詩において、重視される発音上のルールで平声字と仄声字の規則的な配列を言います。
『漢詩の事典』には、漢詩の作り方や形式についての記述があります。その他に、平仄についての解説、作法、平仄一覧表、常用韻字表などが記載されているものを紹介します。
◆出典・参考資料
『漢詩入門韻引辞典』 飯田利行著 柏書房(919-28)
『平仄完備詩語・類語便覧』中野佳林著 中野佳林(919.07-ナカノ)
『字通』白川静著 平凡社(813.2-44)
『新釈禅林用語辞典 : 平仄付』 飯田利行著 柏美術出版(188.8-96)
『漢詩の事典』 松浦友久編著 ; 植木久行, 宇野直人, 松原朗著 大修館書店(921-154)
Q.47 「京都」と呼ばれるようになったのはいつ頃からか。 A.47 京都という呼称は元来この地だけのものではなく、一般の普通名詞として用いられていました。「京」は天子の居城のある土地の意味で、羅城・条坊を持つ儀礼的なものが考えられ、 「都」は天子の常居のある聚落という意味で宗廟などを伴った日常的なものが連想されます。従って、平安京が定まる以前にも難波、藤原、平城、恭仁の諸京は、 京都という呼称の対象となりました。特に平安京は長期の京都でしたが、それでも京都が普通名詞であったことには変わりなく、これが本格的な固有名詞となったのは、 応徳3年(1086)白河院が白川(現左京区)の地に院政を開き、当初「京・白川」が並称されるようになってから、両者の総称として京都の呼称がしだいに定着したもののようです。
◆出典・参考資料
『京都市の地名』 平凡社 (291.034-11-27)
『国史大辞典 4』国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館(210.03-71-4)
『角川日本地名大辞典 26』「角川日本地名大辞典」編纂委員会編. 角川書店(291.03-62-26.1)
『日本史大事典 2』 平凡社 (210.03-84-2)
Q.46 NHK「みんなのうた」の放送開始はいつか。 A.46 NHK「みんなのうた」は1961年4月3日から放送が開始されました。選曲は“子どもの歌”にとらわれず、広く一般に愛唱されている「おとなの歌」から、子どもが理解し、好むもの、 家族そろって歌えるもの、という新しい考え方のもとに行なわれました。初期に選曲されたものとして「おお牧場はみどり」「森へいきましょう」「かあさんの歌」「ドレミの歌」 「ちいさい秋みつけた」などがあり、これらは子どもたちの愛唱歌となって、後に音楽教科書にも掲載されるようになりました。 第1回放送は「おお牧場はみどり」歌唱は東京少年合唱隊です。
◆出典・参考資料
『20世紀放送史 年表』 日本放送協会編 日本放送協会 (699.2-ニホン)
『文芸春秋 』69巻8号(1991年7月号)所収「「みんなのうた」30年」』 (050-フンケ-Z)
Q.45 長崎県川棚の魚雷艇部隊、震洋隊に関する資料がありますか。 A.45 震洋特攻隊に関する図書は、本館の戦争体験文庫のコーナーにあります。それらの本の中には川棚臨時魚雷艇訓練所についての記述もあります。確認できたものは、以下のとおりです。
『消えない傷跡 第一〇六震洋 納谷部隊史』 鳴海宏編集責任 一〇六震洋会 (397.3-1202)
『回想薄部隊 : 海軍第二十震洋特別攻撃隊』 薄会編 薄会 (397.5-1602)
『青い航跡 香港の震洋隊』 桜井武著 桜井武 (396.7-4902)
『魚雷艇学生』 島尾敏雄著 新潮社 (913.6-1520)
『還らざる特攻艇』 益田善雄著 鱒書房 (391.2-1525)
『渡辺部隊の思い出集 : 第三六震洋特攻隊』 清瀧芳郎, 菅澤和泉編 出版者不明(916-1525)
『少年特攻震洋顛末記』 近松褒孝著 三重空廿期会(391.2-1625)
『魚雷艇の二人 : 若き同期の桜の生涯』 志賀博著 光人社(397.2-1527)
『黒潮にさく浜木綿の墓標 : 震洋特攻論』 竹澤勉編著「黒潮にさく浜木綿の墓標-震洋特攻論-」刊行会 (916-1900)
一般開架にも、以下の資料があります。
『日本特攻艇戦史 : 震洋・四式肉薄攻撃艇の開発と戦歴』 木俣滋郎著 光人社(393.2-123)
そのほかにも、「特攻隊」について書かれた本を、戦争体験文庫の124番書架に集めています。
Q.44 ハイポコースト(hypocaust)という、ローマ時代の床暖房について資料(構造図などを含め)を探している。 A.44 ハイポコーストは、カン(中国)やオンドル(韓国)とよく似ています。 相違点は、ヨーロッパの住宅に普及しなかったことと、カンやオンドルのように床下方に排ガスを回すだけでなく、周囲の壁の中を通してから煙突に出すことであると『ストーブ博物館』 (新穂栄蔵編)p.48〜50に説明がされています。さらに、3点の図版も掲載されています。
また、『フォーブス古代の技術史 上巻 金属』p.616〜639に、「9.5ローマのハイポコースト」の項、「9.6ハイポコーストの考察と実験」の項があり、炉の構造、床、配管について かなり詳しい記述があります。
◆出典・参考資料
『ストーブ博物館』 新穂栄蔵著 (528.2-5)
『フォーブス古代の技術史 上』 R.J. Forbes著 朝倉書店 (502-フォフ)
Q.43 雅楽「胡蝶の舞」の衣装を見たい。カラーの写真があるとなお良い。 A.43 『雅楽壱具』のp.184〜187にカラー写真があります。前半の2ページに実際の舞姿のシーンを掲載し、後半の2ページで装束を掲載していて衣装がよくわかります。 他にも『雅楽 : 伝統とその意匠美』のp.81に袍と袴の写真、『雅楽』(別冊太陽)のp.66に舞姿、p.128に参考写真が、 『東儀秀樹の雅楽』p.29に舞姿、p.25にイラストが掲載されていて参考になります。
◆出典・参考資料
『雅楽壱具』 林陽一写真/東儀俊美[ほか]執筆 東京書籍 (768.2-ハヤシ)
『雅楽 : 伝統とその意匠美』 宮内庁三の丸尚蔵館編 宮内庁 (768.2-シハス)
『雅楽』 (別冊太陽) 平凡社 (768.2-カカク)
『東儀秀樹の雅楽』 小野幸恵著 岩崎書店 (768-トウキ)
Q.42 梅の木で作られた家具調度や建物を見たことがないが、梅材の用途を知りたい。 A.42 以下の文献に梅の利用についての記載があります。これらの文献によると、木の姿から大きい材はとれないが、紅褐色がかった堅い緻密な材なので細かい彫刻をする細工物の材料に用いられるとあり、 用途としては、床柱、櫛、念珠、そろばん玉、将棋の駒、箸、工具の柄、盆などの漆器木地、印材、根付けなどがあげられています。
◆出典・参考資料
『木の大百科』(解説編・写真編) 朝倉書店(652.7-20-1〜2)
『木と日本人 : 木の系譜と生かし方』 上村武著 学芸出版社(653.2-ウエム)
『原色木材大図鑑』貴島恒夫[ほか]著 保育社(657-3)
Q.41 江戸時代の歌舞伎役者、芳沢あやめの言ったことを集めた「あやめくさ」を探しています。 A.41 『歌舞伎事典』によりますと、「あやめぐさ」は元禄期の女方芳沢あやめ(初世1673-1729)の晩年の芸談二十九ヶ条を記録したもので、明和8年『新刻役者綱目』の付録として刊行され、 安永5年に『役者論語(やくしゃばなし)』に再録されたとあります。舞台と日常生活における女方の心得を説き、当時の歌舞伎の演技を知るうえでも貴重な文献とされています。 『歌舞伎事典』には収録文献として『日本古典文学大系 歌舞伎十八番集』が挙げられています。また『国書総目録』で調べますと分類:歌舞伎、著者:福岡弥五四郎、成立:享保頃とあり、 活字本では以下の図書が挙げられています。岩波文庫『役者論語』、『歌舞伎叢書 新刻役者綱目』、『新群書類従 三』『随筆文学選集 四』『役者論語』(守随憲治、昭和二九)。
Webcat Plus(国立情報学研究所データベース)で検索すると、『アジアの芸術論 : 演劇理論集』にも収録されており、本文に合わせ、解説が付され、成立、作者、内容、意義が記されています。
◆出典・参考資料
『役者論語』(別書名:やくしゃばなし)(岩波文庫) 八文舎自笑編 守隨憲治校訂 岩波書店2003(080-12-1.266.1)
『アジアの芸術論 : 演劇理論集』 永井啓夫, 宮尾慈良編 勉誠社 (770.4-ナカイ)
『日本古典文学大系 歌舞伎十八番集』郡司正勝校注 岩波書店(918-7-98)
『隨筆文學選集』楠瀬恂編輯 書齋社 (081-4-4)
『歌舞伎叢書』金港堂編輯部 [編] 金港堂 (774-18)
『新群書類従』國書刊行會 [編] 國書刊行會 (081.5-4-3)
『国書総目録』岩波書店 (025.1-33-1)
Webサイト
Webcat Plus(国立情報学研究所)