『死者という在りし日の生者のために、そして生者という名の来る日の死者のため に』という二行にひかれて読み出した詩集であるが、世界的なモデル、山口さよ子へ 書かれたと思われる『小夜曲 サヨコのために』を、私は夢中で読んだ。あの無表情の 有名なモデルが、『たんねんに粧って、軽やかに着て』何を想い、ステージを歩いたの か。詩人のことばが、死者という在りし日の生者に語りかける。ことばのもつ力が死 者という見えない相手に届いていく。 詩人は自身のことを、『死を喰う不吉な者』と して、祝福されなかったその出生詩を冒頭に書く。 母、祖母、関わりのあった人たち、 そして中国の旅を詠み、中国では4月にまた地震があったが、四川地震の理不尽な「死」 を受けた犠牲者のために思いつづける。『着ては脱ぎ 脱いでは着ながら気付いた 着て は脱ぐ私も一種の服で 本当は着られているのだと 私にも本当は 顔も体もないのだと』 モデルが服を着るように、詩人はことばを着ては脱ぐのであろうか。 「ことばの力」 ということがよく言われるが、この詩集を読みながら服を脱いだ裸の詩人の震えが、顔 も体もない詩人のことばが、どんな力を届けるのだろうと思う。冒頭の出生詩は読む者 にある種の怖さを感じさせるが、詩集を最後まで読み終えると「生」は確実に「死」の 続きで、そして「死」は決して終わりではなく「生」を越えて永遠であり再生していく という事に気付かされる。みずみずしい新緑の季節がまぶしい。