『近代日本の偽史言説 : 歴史語りのインテレクチャル・ヒストリー』

作成者
小澤実編
出版者
勉誠出版 
刊年
2017.11

 漢字から作られた仮名より以前に成立した、日本独自の文字というふれこみの神代文字・源義経が大陸に逃れてジンギスカンになったという説・ユダヤ人が世界の転覆を企んでいるというユダヤ陰謀論や日本とユダヤ(等)は ルーツが同じという説・太平洋や大西洋にあったが沈んだというアトランテ ィス大陸やムー大陸の伝説。また、以上の諸説を集大成した感もある天津教の竹内文献。  

 こうした偽史はどういった背景で生まれ、主張され、展開してきたか。2 015年に行われたシンポジウムのパネラーらが執筆者となって、論文集の形でまとめられたのが本書です。  

 三ツ村誠による第二章「神代文字と平田国学」では、本居宣長と平田篤胤 の古代観を比較して、平田には「外国の伝説や学知を本来皇国のものであったと付会」する傾向が強く、その延長線上に、神代文字実在論を展開したとしています。そのうえで平田説が明治の神道家与えた影響を指摘します。永岡崇による第三章「近代竹内文献という出来事」は、竹内文献の内容を肯定する立場からも、全否定する立場からも距離を置いて、昭和戦前期日本においてどのように受容・弾圧されたかを追っています。その神代文字や竹内文献の戦時中の展開を追ったのが、長谷川亮一による第四章「「日本古代史」 を語るということ」です。戦時中、「非常時局に際し・・・国体を明徴にし ますます国民精神を昂揚」するための内閣の諮問委委員会、肇国聖蹟調査委員会で、神代文字や竹内文献を好意的に取り上げる委員がいて、記紀の尊厳を損ねるとして、学者の委員から一蹴された際の議論を紹介します。しかし、記紀から肇国聖蹟、つまり国の始まりの場所を明らかにしようとする学者の立場(皇国史観)自体が、極めて危うい基盤に立っていたことを指摘しています。  

 石川巧による第五章「戦時下の英雄伝説」は、小谷部全一郎『成吉思汗ハ 源義経也』(冨山房、1924)から、小谷部がとった方法論や思想を検討すると同時に、従来あまり注目されてこなかった1932~39年刊行の 『満洲と源九郎義経』『義経と満洲』『成吉思汗は義経なり』(いずれも厚 生閣書店)の叙述を、時局との関連で検討しています。  

 高尾千津子による第六章「ユダヤ陰謀説」は、欧米ではまず陰謀説があり、それに沿って偽書「シオン議定書」が生まれたのに対し、日本では、シベリア出兵を機に陰謀説と議定書が同時に流入したとして、当時の議論を紹介しています。山本伸一による第七章「酒井勝軍の歴史叙述と日猶同祖論」は、著名な同祖論者酒井(1874-1940)の論理の形成、その構造を分析しています。津城寛文による第八章「日猶同祖論の射程」は、同祖論の日本での展開、世界各地にみられるユダヤとの同祖論、その要素や問題点を俯瞰します。  

 齋藤桂による第九章「「日本の」芸能・音楽とは何か」では、白柳秀湖が展開したヨーロッパのジプシーと日本の傀儡子の同一説を検討しています。 前島礼子による第一〇章「原田敬吾の「日本人=バビロン起源説」とバビロ ン学会」では、一般には日本における古代オリエント研究の草分け、バビロン学会設立者として紹介される原田(1867-1936)が、この奇説に学会設立前後から、一貫してはまっていたことを明らかにしています。そしてその原因として、「アメリカ留学中に経験した人種差別からくる白人コン プレックス」を挙げています。庄子大亮による第一一章「失われた大陸の系 譜」では、アトランティス大陸やムー大陸説の日本への紹介や、他の偽史との関連、近年に至るこれらを扱った著作の動向を述べています。  

 第二~一一章で扱われた偽史は、その方面の雑誌や出版社から、大真面目に、あるいは偽りであることを知りつつも、わりきったうえでの商売として 主張・紹介する記事、書籍が、しばしばみられる程度には著名です。一方、 馬部隆弘による第一章「偽文書「椿井文書」が受容される理由」は無名な偽史を扱います。椿井文書とは、南山城の椿井政隆(1770-1837)が巧妙に作成した偽文書、偽絵図類のことで、同時代の本人による頒布、明治期の質入先からの流出で広まったものといいます。中には指定文化財となったり、自治体史や論文でこれを典拠とした叙述がされる、といった状況が今もあるとします。  

 本書のもととなったシンポジウムは立ち見が出るほどの大盛況だったといい、当時の反響は https://togetter.com/li/897515 で読むことができますが、これを眺めていると、特に椿井文書に関する報告が注目を浴びたようで、感嘆する書き込みが随所に見られます。なお、これら偽文書論は、最近馬部の単著『由緒・偽文書と地域社会』(勉誠出版、2019.2)にまとめられました。  

 本書で取り上げられる様々な偽史とも問題点が通底する、いわゆる「歴史 修正」主義的な言説~たとえば、近代の大虐殺が「なかった」と主張する類 ~がはびこっています。また、横行する陰謀論の現代における危険性は、第八章でも触れられています。こうした問題を考えると気が重くなってしまうにも関わらず、本書を読んでいると逆に実に楽しい気分になってしまうのは、なぜでしょうか。