『わたしを空腹にしないほうがいい』改訂版

作成者
くどうれいん 著
出版者
BOOKNERD
刊年
2018.8

 心を揺さぶられる出来事に遭遇した時、人はどのようにして気持ちを落ち着かせるのでしょうか。感情の針が大きくプラスに振れれば地に足がつかなくなり、逆にマイナスに振れれば心が闇に包まれてしまいます。それでも時間は刻々と過ぎ生活は続いてゆくわけで、日常を過ごすために私たちはニュートラルな状態に立ち戻らねばなりません。
 自分が起点に帰ることのできる心のよりどころ、趣味だけにとどまらない何か。園芸、楽器、掃除など人それぞれに違った自分への戻り方を持ち得ますが、著者にとってそれは料理であり、たとえ「ながい恋を終わらせても」菜箸を握り続けます。
 収載されているエッセイは、著者が大学4年生の時に俳句のウェブマガジンに連載していたもので、たとえば「てんと虫よ星屑背負うほどの罪はなに」など、各エッセイのタイトルが俳句になっています。そこに綴られる身近な出来事は、多少風変わりな人たちが登場するものの、それほど珍しいものではありません。その日常をありきたりでない特別なものにしているのは、歌人であり作詞も手がける著者の豊富な語彙と、高校時代に全国文芸コンクール3部門(小説・詩・短歌)で優秀賞を受賞した表現力。そして必ず登場する料理の記述が、情景に奥行きを持たせています。その描写は時に豪快で、小気味よい文章と相まって心地よく、思わず吹き出してしまうこともしばしば。しかし読み進めるにつれて気づかされるのは、著者が実はとても繊細な心の持ち主であることです。
 薪風呂に黒電話という「ものすごい田舎」にある祖母の家で育った著者は、やがて祖母の認知症に直面します。自分のことを忘れられてしまいショックで涙してしまうものの、事実を見つめる著者の視線は、料理を支えにして冷静さを取り戻します。かつて給食のおばちゃんだった祖母がラディッシュの酢漬けの作り方を覚えていたことをきっかけに、“老い”を「恐ろしく切なくかなしいこと」としながらも肯定的に受け止め、自らの人生の先に思いをはせるのです。「忘却の巨大なひかりに呑みこまれたとき、それでもわたしが語りつづけることはいったい何だろう」と。
 改訂版である本書は、社会人になってからのエピソードや対談などを加えて再編集されたもので、著者の魅力ある人柄がさらにわかる内容となっています。散文家としても大きな才能を感じさせる著者の、今後の作品が楽しみです。