『「つながり」の戦後文化誌:労音、そして宝塚、万博』

作成者
長崎励朗
出版者
河出書房新社
刊年
2013.12

 「労音」とは勤労者音楽協議会の略称で、会費を払って会員になると、定例音楽会(例会)に無料で参加できるシステムの音楽愛好者団体である。本書は、労音の中でも特に興隆を誇った大阪の労音について、ふたりの人物を軸に考察している。
 ひとりは須藤五郎。戦前から終戦後にかけて宝塚歌劇団の作曲家、指揮者として活躍しつつも争議で退職し、大阪労音を創設した。もうひとりは浅野翼。須藤とともに全盛期の大阪労音を支えた。浅野は労音をやめて大阪万博のパビリオンプロデューサーになったという。
 会の名称や「安くて良い音楽を」といった理念からは、左翼系の文化運動が想像され、実際そうした側面にも分析が及んでいる。しかし著者は、竹内洋が展開している大正―昭和中期の教養主義をめぐる議論を重視して、大阪労音の歩みを振り返っている。
 1949年、須藤が設立した大阪労音は、当初クラシックのみを扱って、多くの会員を獲得したという。これはもともと旧制大学生の教養の一環として受容されていたクラシックが、背伸びをして教養を渇望する20歳前後のホワイトカラー層に受容されたためと分析する。しかし、その後会員数が頭打ちとなり停滞する中で、大阪労音では、1953年「ポピュラーミュージック部会(PM)」を立ち上げる。「ポピュラー」といっても、歌謡曲や邦楽ではなくタンゴやジャズであり、論争や試行錯誤があったことが成功を収め、1960年代前半には会員数もピークを迎えた。著者はここに、高級文化が通俗化され薄められた「中間文化」を見出している。これは、「イメージとしての西洋文化」を大衆化した宝塚歌劇や、多くの芸術家が関わった大阪万博にも相通じるものがあるという。
 また、一般にテレビの普及などに原因が求められるその後の労音の衰退についても、大学進学率の急上昇が「教養」の価値そのものを逆に相対化していったことが背景にあると解釈している。
 本書は、博士論文を加筆修正したものということだが、そうした来歴から想像される文章の硬さとも無縁で非常に読みやすく、かつ示唆に富む提起をしているように思えた。