西洋人の日本観 Ⅱ シーボルトの図書コレクションより 展示資料リスト

シーボルトの生涯

    アジア政策を検討していたオランダ東インド会社が1823年に長崎へ派遣した若き医師・博物学者シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796 - 1866)は、通常の医療活動のほかに、日本についての総合的な調査を課せられていた。出島の阿蘭陀通詞、国中の医師、蘭学者、「蘭癖大名」らとの親交を通じて、シーボルトは自然界から文化、社会、経済関連に至るまでおびただしい数の標本、見本、書籍、情報などを収集することができた。
    ヨーロッパへ帰郷後は、1832年から20年余をかけ、蝦夷地、琉球、朝鮮半島にも力を注いだ名著『NIPPON』を出版し、近代日本研究への道を切り開いた。シーボルトは一人の研究者として日本の総合的研究を行った最後の代表的ヨーロッパ人でもある。

 

 
1796年
シーボルト、神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルクに、数々の学者を輩出している家の長男として生まれる。父が早世したため、母方の叔父に育てられる。
1815年
ヴュルツブルク大学に入学。医学、植物学、地理学を学ぶ。
1820年
国家試験を受け、ハイディングスフェルト村で医者として開業する。
1822年
オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐として採用される。
1823年文政6年ジャワ島到着(4月)。6月に来日。
1824年文政7年シーボルト、長崎郊外に私塾兼診療所を設ける。高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、戸塚静海など50人以上の門下生がここで西洋医学や自然科学などを学びながらシーボルトの日本研究に協力する。
1826年文政9年シーボルト、オランダ商館長の江戸参府に随行し、数々の蘭学者、大名などと交流する。ケンペル、ツンベリなど研究熱心な以前の商館医と同様にシーボルトは、この旅で資料及び情報の収集を行う。
1827年文政10年楠本滝とシーボルトの娘イネ(1827-1903)誕生。後に日本人初の、女性で西洋医学を学んだ産科医となる。
1828年文政11年帰国する直前、シーボルトの所持品の中に幕府禁制の日本地図などが見つかり、いわゆるシーボルト事件が勃発。高橋景保ほか日本人関係者十数名が厳しく処分された。
1829年文政12年10月22日: シーボルトは国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受ける。
1830年
『日本』の分冊出版を開始。1850年まで続く。
1835年
『日本植物誌』の分冊出版を開始。1870年まで続く。
1845年
ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚する。
1846年弘化3年長男アレクサンダー(1846-1911)誕生。
1852年嘉永5年次男ハインリッヒ(1852-1908)誕生。
1858年安政5年日蘭通商条約の締結によりシーボルトの追放が解除となる。
1859年安政6年シーボルト、オランダ貿易会社顧問として再来日。長男アレクサンダーと17才の次男ハインリッヒを同伴。
1860年
シーボルト、鳴滝の旧宅を買い戻す。
1861年文久1年シーボルト、対外交渉のための幕府顧問となる。
1862年文久2年後にシーボルトの孫娘の婿となる三瀬諸淵(1839-1877)が、シーボルトのために日本の歴史書を翻訳した罪で逮捕される。
1862年文久2年シーボルトが持参した文献に日本で入手した文献を加え、出島で蔵書目録を出版する。
1863年文久3年シーボルト、オランダの公職を辞して帰国。
1866年慶応2年ドイツ・ミュンヘンで死去、享年70。

シーボルト蔵書の2つの目録

 

No.書誌事項(邦訳)書誌事項(原書)サイズ(cm)解説
Ph・F・シーボルト収集並びにハーグ王立博物館所蔵日本書籍及び手稿目録.フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト著.J・ホフマン解説.16の石版図付き.Catalogus librorum et manuscriptorum Japonicorum a Ph. Fr. Siebold collectorum, annexa enumeratione illorum, qui in museo regio Hagno servantur. Auctore Philipp F. von Siebold. Libros descripsit J. Hoffmann. Accedunt tabulae lithographicae XVI. Lugduni Batavorum, apud Auctorem, 1845. Impressa CXXV exempla. 297×210『日本刊本写本書目』
1845年、シーボルトは日本からヨーロッパへ持ち帰った和書及び写本の総目録を私版として刊行した。部数は125部で、計594点に及ぶ資料の解説はライデン大学教授ヨーハン・ヨーゼフ・ホフマン( Johann Joseph Hoffmann, 1805-78 )がラテン語で執筆した。中国学と日本学の確立を推進したホフマンはシーボルトの故郷ヴュルツブルク出身で、『日本』の出版にも積極的に貢献していた。
Ph・F・ド・シーボルト氏により日本へ持参された蔵書目録.自然科学,地理学,民俗学,政治学の研究並びにその帝国における科学的研究と発見の指南に役立つためCatalogue de la bibliotheque, apportee au Japon par Mr. Ph. F. de Siebold : pour servir a l'etude des sciences physiques, geographiques, ethnologiques et politiques et de guide dans les recherches et decouvertes scientifiques dans cet Empire. Dezima, Imprimerie Neerlandaise, 1862.297×210『日本将来蔵書目録』
1859年、2度目の来日を果たしたシーボルトは、自分の研究及び日本での学術交流の充実のために様々な書籍及び地図を持参した。発行年を見ると、到着後に入手した数冊がそれに追加されたことがわかる。1862年、シーボルトは出島の印刷所( Nederlandsche Drukkerij Desima )にてこのコレクションのフランス語による目録を刊行した。印刷工は G.  INDERMAUR 、部数は少なかったと思われる。今後の研究を念頭に持参されたこの資料は日本の研究者の間で「シーボルト将来蔵書」と呼ばれるようになった。

『シーボルト将来蔵書目録』に見られる分類

    出島での資料を分類する際、ライデンの目録が大いに参考にされた。書籍の半分以上は探検旅行や地理学関係のものであり、地図資料も豊富である。自然史、とりわけ植物学関係の本は数多くあるが、医書はそれにほとんど含まれていない。

 

資料番号
発見の歴史1-6
世界一周旅行7-51
太平洋、インド洋、中国及び日本の海域での旅行32-63
東インド及びインドシナの旅と記述64-83
東インドのオランダ領の旅と記述84-95
中国の旅と記述96-140
日本帝国の旅と記述141-166
ロシア、シベリア、蒙古、満州、アムール及びカムチャッカ地域の旅と記述167-200
ペルシャの旅と記述201-204
アフリカの旅と記述205-215
アメリカの旅と記述216-257
地理学、海洋測量、海洋物理学、航海術、海洋学 238-275
理学(全般)274-282
理学(個別):物理学、気象学、化学、地質学、鉱物学306-320
人類の自然史 321-350
自然史
  動物学351-392
  動物解剖学と生理学393-398
  植物学399-416
  系統学、記述植物学 417-432
  学術論文433-452
  世界中の植物の描写 433-491
  植物学関連の雑記 492-500
  自然史関連の参考文献501-506
世界史及び民俗学507-514
神話、宗教、崇拝、倫理515-550
言語学549-647
書誌学648-651
哲学652-654
政治、経済、農業、技術、貿易655-678
地図と海図
 日本、蝦夷の地図及び17,18世紀の地図680-692
 バタヴィアより日本への航海関係の海図693-701
 中国、コーチンシナ、台湾などの海岸地帯の地図702-730
 琉球列島及び無人島(小笠原諸島)の地図731-742
 蝦夷島、サハリン(半)島、朝鮮の海岸地域及びアムール地域までのロシア領の地図と海図742-760
日本関連のシーボルト氏による著作番号なし

Habent sua fata libelli*書物にはそれぞれの運命がある
* 紀元後2世紀の学者テレンティアヌス・マウルスの詩 「De litteris, De syllabis, De Metris」より

    シーボルトの長男アレクサンダーは、イギリス公使館に通訳官として採用され、後年は伊藤博文、佐野常民、井上薫など明治政府の要人の補佐役として活躍。また西南戦争後、日本赤十字社設立のためにも奔走した。次男ハインリッヒは、オーストリア・ハンガリー帝国の公使館勤務のかたわら、日本の民俗学や考古学の研究を行い、明治政府が初めて参加したウィーン万博の際には展示品の編成などに尽力する。

    出島商館に残った父の蔵書は長男アレクサンダーが受け継いだようである。

 

「シーボルト将来蔵書」の行方

 
シーボルトの帰国後、彼の蔵書はしばらくオランダ商館で保管されたとされている。
1869年明治2年官制改定で外務省が設立され、長男アレクサンダーから「シーボルト・コレクション」が献納された。
1869年12月明治2年外務省は、大学南校(東大の前身)に貸出借用証を提出させる。
1873年明治6年ドイツ東洋文化研究協会(OAG)が東京で設立される。日本研究と、ドイツ語圏の国々に日本を紹介することを主要な目的とし、在日ドイツ人の集まりを母体としていた。
1875年2月27日明治8年長男アレクサンダー・フォン・シーボルト及び次男ハインリッヒが、ドイツ東洋文化研究協会の会員となる。
1875年3月13日明治8年OAG会合の報告によれば、これまで日本政府の管理下で利用できなかったシーボルトの図書が協会に移転され、図書室で閲覧できるようになった。
1876年明治9年外務省は、内務省博物館に対しその点検と返却を催促するが、「シーボルト・コレクション」は文部省、東京府書籍館、教育博物館、開成学校(大学南校)に分散していることが判明する。そのため、OAGへの移管は実現しなかったと思われる。
1882年明治15年OAGの年報によれば、アレクサンダー・フォン・シーボルトを含め3名の会員が書籍を寄贈した。
1884年4月明治17年シーボルト兄弟による献納図書の大半は東京国立博物館蔵となる。
1914年大正3年OAGの蔵書目録には、シーボルト旧蔵とされる書籍約220部(350冊)有り。
1936年昭和11年ベルリンの Japaninstitut (日本学会)及び東京の日独文化協会が共同で複製版を刊行(東京、郁文堂、限定300部)。
1944/45年昭和19・20年戦火により蔵書の大半が焼失する。
現存状況
東京国立博物館:175部(未公開)。内閣文庫:37部。OAG:36部。

1 探検旅行記・地理学など

 

No.書誌事項(邦訳)書誌事項(原書)サイズ(cm)解説
1 J・ド・ギーニュ『トルコ人とフン人の歴史』グライフスヴァルト,1768~1770年刊(ドイツ語版)Allgemeine Geschichte der Hunnen und Turken, der Mogols und anderer occidentalischen Tartarn, vor und nach Christi Geburt bis auf jetzige Zeiten: Aus den Chinesischen Buchern und orientalischen Handschriften der Konigl. Bibliothek in Paris verfasset; Aus dem Franzosischen ubersetzt von Johann Carl Dahnert. Greifswald, Anton Ferd. Rose, Buch III, 1770.256×195×52フランス人ジョセフ・ド・ギーニュ (Joseph de Guignes, 1721-1800) は、東洋学、とりわけ中国学を勉強し、王立図書館の東洋部門を担当するようになった。フン族とトルコ人の起源に関する最初の研究発表(1748年)で、彼はイギリスの王立協会に入会し、その後も研究を続けた。5冊に及ぶ本書で、ド・ギーニュは「中国人はエジプト人移住者の子孫であり、漢字はエジプトの象形文字から由来している」という説を唱えている。様々な反論を浴びても、彼はこの説を固持し、エジプトの象形文字のいくつかの特徴を初めて確認できたことでも知られている。
本書は、1756から1758年にかけて刊行されたフランス語版のドイツ語訳である。 なお、ド・ギーニュの長男( Chretien-Louis-Joseph de Guignes, 1759-1845 )は、父に中国語を学んだのち、フランスの公使として17年間広州で活躍し、中・仏・羅事典の出版で名声を得た。
2 P・ソネラ『東インド及び中国への旅』パリ,1782年刊(フランス語)Pierre Sonnerat: Voyage aux Indes Orientales et a la Chine, Fait par ordre du Roi, depuis 1774 jusqu'en 1781: Dans lequel on traite des Moeurs, de la Religion, des Sciences et des Arts des Indiens, des Chinois, des Pegouins et des Madegasses; suivi d'Observations sur le Cap de Bonne - Esperance, les Isles de France et de Bourbon, les Maldives, Ceylan, Malacca, les Philippines et les Moluques, et de Recherches sur l'Histoire Naturelle de ces Pays., Paris, L'auteur, Froule, Nyon, Barrois, 1782. 260×205×52フランスの植物学者・探検家ピエール・ソネラ(Pierre Sonnerat, 1748-1814)は、1769年から1772年にかけてフィリピン及びモルッカ諸島を調査したのち、1774年から1781年にかけてインドと中国を探検した。彼はヨーロッパで台頭しつつあった人種主義に反対しており、アジアの文化を高く評価していた。また、中国南部の茘枝(ライチ)の学問的描写をはじめとし、数々の動植物の同定で名を残した。常緑高木の Sonneratiaceae (ハマザクロ科)という属名はソネラにちなむ。
「VIRAPATREN」『東インド及び中国への旅』第1巻、184・85頁。
3 F・J・F・マイエン『世界一周』ベルリン,1834年刊(ドイツ語)F. J. F. Meyen:Reise um die Erde, Ausgefuhrt auf dem Kgl. Preuss. Seehandlungs-Schiffe Prinzess Louise, commandirt von Capitain W. Wendt in den Jahren 1830, 1831 und 1832261×214×44ドイツ・ティルジット出身の医師、植物学者フランツ・ユリウス・フェルディナント・マイエン( Franz Julius Ferdinand Meyen, 1804-1840 )は、1830年からプロシアの商船プリンセス・ルイーゼ号の世界一周旅行に参加し、フンボルトペンギンなど南米の新種の発表で注目を集めた。彼は植物研究に顕微鏡を導入し、植物生理学及び植物地理学の業績で名を残した。 本書でマイエンは、中国の将棋を詳細に描写し、さらにもう一つのゲームを紹介している。説明と図版を見ると囲碁であることが判明するが、中国の高級官吏( Mandarine )しかやらなかったので、それをマンダリン・ゲーム( Mandarin-Spiel )と名付けた。
マンダリン・ゲーム( Mandarin-Spiel = 囲碁)
4 R・モリソン『語学のための中国概観』ロンドン・マカオ,1817年刊(英語)A view of China, for philological purposes : containing a sketch of Chinese chronology, geography, government, religion & customs, designed for the use of persons who study the Chinese language. By Rev R. Morrison. London: Published and sold by Black, Parbury and Allen, booksellers to the Hon. East India Company; Macau: printed at East India Company's press by P.P. Thoms, 1817.255×190×12スコットランド出身のロバート・モリソン( Robert Morrison, 1782-1834 )は、中国での初めてのプロテスタント系宣教師だった。中国名は馬礼遜。彼は27年間にわたりマカオと広州での布教活動を進めながら、聖書の漢訳で歴史的偉業を成し遂げた。中国語の文法書や辞書、中国を総合的に描写する本もある。本書は後者の例の一つであり、中国語の学習者にその歴史的文化的背景を提供するものである。
『語学のための中国概観』の目次
5 『オランダ東インド領の首都バタヴィア』アムステルダム,1782年刊(オランダ語)Batavia de Hoofdstad van Neerlands O. Indien, in derzelver gelegenheid, opkomst, voortreffelyke gebouwen, hooge en laage regeering, geschiedenissen, kerkzaaken, koophandel, zeden, luchtsgesteldheid, ziekten, dieren en gewassen, beschreeven. 255×207×45匿名の著者による,東インド会社の拠点都市バタヴィアの詳細な紹介(建物,立地,歴史,宗教,商業,風習,病気,動植物など).

2 医学

    シーボルトは国内調査及び蘭学者のための理学参考資料として、物理学・気象学・化学(24部)、地質学・鉱物学(15部)及び動物学(48部)の教科書、基礎文献を用意していたが、彼の関心の中心にあったのは植物学(102部)だったに違いない。若い頃の日本滞在中に、西洋医学の普及に大いに貢献したシーボルトは、その後医学と医療の世界から離れてしまったが、1859年再来日した時、日本国中に広まっていた医師としての名声のため、再び治療を求める患者が殺到することが心配された。もはや医師ではなくなったシーボルトは、極めて消極的だったが、時折その要望に応じざるを得なかった。持参した医書が『生理学事典』を含め3冊だけだったことは、彼の意識の変化を物語っている。

 

No.書誌事項(邦訳)書誌事項(原書)サイズ(cm)解説
6 カルス『比較解剖学と生理学の基礎』ドレスデン,1828年刊(ドイツ語)Carl Gustav Carus: Grundzuge der vergleichenden Anatomie und Physiologie, (Allgemeine Taschenbibliothek der Naturwissenschaften, 4). Band 1, Dresden, Hilscher, 1828. 165×101×17進化論で有名なダーウィンに大きな影響を与えたカール・グスタフ・カルス(Carl Gustav Carus, 1789-1869)はドレスデン大学の医学部教授を務めながら、動物学、博物学、心理学、美術など多岐にわたる研究を進め、数々の著書を発表した奇才である。画家としての腕前も相当なものだった。 生理学は進歩が早く、シーボルトがすでに古くなっていたこの3巻の本の第1巻のみを日本に持参したことは多少不思議であるが、著者の広い視野と活動に関心を寄せていたと思われる。
本書が刊行された1828年以降、生理学はすでに大きく進歩しており、また、なぜか3巻のうちの第1巻しか日本には来なかった。
『比較解剖学と生理学の基礎』巻末の図版

3 人類の自然史

    19世紀には近代分類学をもとに自然史の一部として人類を追究する研究が盛んに行われた。リンネが『自然の体系』(9版)で区別した人間の4つの変種(白色ヨーロッパ人、赤色アメリカ人、暗色アジア人、黒色アフリカ人)は、純粋な生物学的意味合いを持つはずだったが、奴隷貿易や広まる植民地化により、ヨーロッパ人と非ヨーロッパ人の上下関係が誕生し、さらに「進んでいる」、「遅れている」という観念がそれに結びつき、ついには差別的な人種論へと形を変えてしまう。

    シーボルトの蔵書目録に見られるこの分野の30冊の一部は学問的なものだが、多くの書物にヨーロッパ人の優越感が垣間見える。

 

No.書誌事項(邦訳)書誌事項(原書)サイズ(cm)解説
7 『人類における自然変種について.著名なジョセフ・バンクス伯爵宛の書簡付き.』ゲッティンゲン,1795刊(ラテン語)Io. Frid. Blumenbach De Generis Humani Varietate Nativa. Praemissa Est Epistola Ad Virum Perillustrem Josephum Banks Baronetum. Editio tertia. Goettingae, Apud Vandenhoek & Ruprecht, 1795.()166×103×22リンネ( Carl von Linne 1707-78 )、モロー( Pierre Louis Moreau de Maupertuis, 1698-1759 )、ビュフォン伯爵( Georges Louis Leclerc Comte de Buffon, 1707-88 )のような博物学者たちや哲学者カントなどは人間の分類に関する議論を進めていたが、人類学の祖とされているゲッティンゲン大学医学部教授ブルーメンバッハ( Johann Friedrich Blumenbach, 1752 - 1840 )は、そもそも学位論文だった本書の初版において、まだはっきりした人種についてのコンセプトを持っていなかった。
本書の第3版で、彼はリンネの学説に従い、気候によって形成される5人種に分類するようになった(ヨーロッパ人、ラップ人、エスキモー人、北アフリカ人、また、オビ川、カスピ海、ガンジス川以西のアジア人)。これらの変種に見られる頭蓋骨や皮膚の色などの身体上の特徴は、それぞれのグループの性質と能力を示唆している。彼は後にアフリカ人は理解力や才能などにおいてその他の人種に劣っていないという考えを持つようになったが、上記の発表は多くの研究者に受容され、いわゆる「科学的人種論」の高揚を引き起こした
『人類における自然変種について』巻末, Tab II,頭蓋骨の図版

4 言語学

    旧約聖書創世記11章のバベルの塔の物語で、神様は罰として人間の言葉を乱し、互いの意思が通じないようにしてしまった。19世紀の言語学者は言葉の発展に気づき、歴史的視点からの数々の言語の比較により、その由来を探りながら、発展の法則や昔の言語形態を追究していた。ダーウィンの進化論(1859年)はこの研究をさらに促進した。

    シーボルトが持参した言語関係の92冊のほとんどは、インド・ヨーロッパ語族以外の言葉を取り上げている。パーリ語・サンスクリット語(4部)、ペルシャ語(1部)、トルコ語(1部)、インドネシア語・マレー語(5部)、チベット語(4部)、中国語(訳本を含めて39部)、アナン語(3部)、満州語(2部)、モンゴル語(3部)、ヤクート語(2部)、アイヌ語(2部)、日本語(訳本を含めて15部)、「オーストラリア語」(1部)

    日本語部門では、イエズス会士ロドリゲスが17世紀初頭に発表した画期的な『日本大文典』から蘭・英・日の会話書(1861年)の応用を目指した本とともに、日本語における漢字の導入や日本語をウラル・アルタイ語族に位置づける研究書もある。

 

No.書誌事項(邦訳)書誌事項(原書)サイズ(cm)解説
8 A・W・シュレーゲル『アジア言語の研究に関する考察』ボン,1832年刊(フランス語)A. W. de Schlegel: Reflexions sur l'etude des langues asiatiques, suivies d’une lettre a M. H. H. Wilson. Bonn/Paris, Weber, 1832.240×156×22哲学者だった弟フリードリッヒと同様に、アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル( August Wilhelm von Schlegel, 1767-1845 )はドイツロマン主義の発展に大いに貢献した人物である。詩人としてさほど目立たなかった彼は、英語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語の文学作品の翻訳者として群を抜いていた。とりわけシェークスピアのドイツ語訳は今日でも最高傑作とされている。また、1808年ウィーンで行った演劇と文学に関する講演は、すべてのヨーロッパの言語に訳された。
1818年からボン大学の教授として活躍していたシュレーゲルは、次第に東洋に目を向けるようになり、雑誌 Indische Bibliothek (『インド文献学』、1823~1830年)を編集し、「バガヴァッド・ギータ」( Bhagavad Gita、神聖な歌集)のラテン語訳 (1823年)を発表するなど、ドイツにおけるサンスクリット学の基盤を築き上げた。
シーボルトは本書をシュレーゲルから謹呈された。
9 シュミット『モンゴル語の文法 石版の図版付き』サンクト・ペテルブルグ,1831年刊(ドイツ語)I. J. Schmidt: Grammatik der Mongolischen Sprache: Mit Einer Tafel In Steindruck. St. Petersburg, Buchdruckerei der Kaiserlichen Akademie der Wissenschaften. Zu Haben bei W. Graeff, Commissair der Kaiserl. Acad. der Wissensch. Admiralitats-Platz N 91 und in Leipzig bei C. Cnobloch, 1831. 265×200×18 アムステルダム生まれのイザーク・ヤーコプ・シュミット( Isaak Jakob Schmidt, 1779-1847 )は、1798年ヴォルガ地方のサレプタへ移住し、宣教師及びロシア科学院のメンバーとして自分の人生の大半をロシアで過ごした。カルムイク族のために作成した聖書の翻訳は画期的な業績となった。ドイツ語とロシア語で数々の本を発表するシュミットはやがてヨーロッパのモンゴル学及びチベット学の創設者となった。本書は、西洋人による史上初のモンゴル語文法である。
10 シュミット『チベット語の文法』サンクト・ペテルブルグ,1839年刊(ドイツ語)I. J. Schmidt: Grammatik der tibetischen Sprache. St. Petersburg / Leipzig, Graff, 1839.260×220×22『チベット語の文法』184b頁.イザーク・ヤーコプ・シュミットの画期的な文法書である.
11 J・P・アベル=レミュザ『東洋の文学と歴史に関する遺稿』パリ,1843年(フランス語)Jean-Pierre Abel-Remusat: Melanges posthumes d'histoire et de la litterature orientales. Paris, Imprimerie Royale, 1843. 211×135×33ジャン=ピエール・アベル=レミュザ( Jean-Pierre Abel-Remusat, 1788-1832 )は、もともと医学の教育を受けたが、中国の本草書に刺激され独学で中国語を習得し、次第に東洋学者としての活躍が目立つようになった。彼は1814年中国学の初代教授となってから、東洋の言語文化の研究に専念し、『 Journal de savants 』の編集者、アジア協会( Societe asiatique )の創設者兼初代事務局長、政府のための様々な役職を務め、フランスとヨーロッパの知識人に大きな影響を与えた。
本書はアベル=レミュザがコレラで死去したのち刊行された論叢である。
『東洋の文学と歴史に関する遺稿』304b頁、地図
12 J・クラップロート『アジア諸語篇』パリ,1823年刊(ドイツ語)Julius Klaproth: Asia Polyglotta. Paris, Schubart [et al.], 1823.263×205×30著名な学者マルティン・ハインリッヒ・クラップロートの息子としてベルリンで生まれたユリウス( Julius Klaproth, 1783-1835 )は、青年時代から王室図書館の漢籍に関心を持ち、その生涯を東洋語学に捧げた。彼はロシアの中国使節に参加したり、シンゾウという日本人漂泊者から日本語を学ぶなど、ロシアで活躍しながら、中国語、満州語、チベット語、アフガン語、ペルシャ語、クルド語、梵語など次第に多くの東洋言語に関する知識を身につけた。1812年ゲッティンゲン王立アカデミーに提出した博士論文ではウイグル語を分析している。その後、欧州を巡り最終的にパリに落ち着いた。
日本語関係の業績としては、『三国通覧図説』のフランス語訳、琉球諸島の地誌、新井白石著『寳貨事略』の抄訳や『アジア多民語書』の第16部門がある。また、イザーク・ティッチングが残した『日本王代一覧』のフランス語訳を監修したことも忘れてはならない。
13 J・クラップロート『ベルリン王立図書館蔵の中国語及び満州語の書籍と手稿』パリ,1822年刊(ドイツ語)Verzeichniss der chinesischen und mandschuischen Bucher und Handschriften der Koniglichen Bibliothek zu Berlin verfasst von Julius Klaproth. Hrsg. auf Befehl S. Maj. des Konigs von Preussen. Paris, Konigliche Druckerei, 1822. 366×255×26『ベルリン王立図書館蔵の中国語及び満州語の書籍と手稿』に見られるイエズス会の中国宣教師による書籍

5 日本

    1549年宣教師ザビエルが鹿児島に上陸してから、イエズス会は日本の言語、宗教、慣習などについて史上初の力作を発表した。南蛮人*の来航禁止令(1639年)及び紅毛人*の出島オランダ商館への収容(1641年)により、日本での長期滞在と情報収集は著しく難しくなったが、西洋医学などの学問に関心を寄せる阿蘭陀通詞や18世紀以降活躍する蘭学者の協力のお陰で、数名の意欲あふれる商館医や商館長は、日本の総合的かつ体系的な研究を進め、西洋日本学の基盤を築き上げた。シーボルト自身はとりわけドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル(1690年来日)及びスウェーデン人医師・植物学者カール・ペーテル・ツンベリ(1775年来日)の功績を認識し、1826年、それをたたえる記念碑を出島花畑に建てた。

    シーボルト蔵書目録のいくつかの項目に分散されている日本関係の資料は、この2人の先駆者の著作をはじめ、平戸商館長カロンの『日本王国誌』からペリーの『日本遠征記』まで地誌、旅行記や日本語関連のもの、日本図(17枚)など、多岐にわたっている。


 

No.書誌事項(邦訳)書誌事項(原書)サイズ(cm)解説
14 エンゲルベルト・ケンペル『廻国奇観』1712年刊(ラテン語)Amoenitatum exoticarum politico-physico-medicarum fasciculi v, quibus continentur variae relationes, observationes & descriptiones rerum Persicarum & ulterioris Asiae, multa attentione, in peregrinationibus per universum Orientum, collecta, ab auctore Engelberto Kaempfero. Lemgoviae, Typis & impensis H.W. Meyeri, 1712. 232×190×70ロシア、ペルシャ、インド、シャムなどを旅行し、1690年の夏来日したドイツ人医師ケンペル( Engelbert Kaempfer, 1651-1716 )は、2年間出島商館医として勤務しながら、日本の地理、社会、文化、宗教、植物、医学などに関する資料の収集を行った。彼は帰国後各地域の医学、植物学、遺跡などに関する観察をまとめ、故郷レムゴの出版社の協力で発表した。資金不足のため、図版の質はあまりよくないが、古代ペルシャの粘土板を紹介する際、ケンペルが「楔形文字」という言葉を導入したことは有名である。また、日本関連の論文の中でも医学、幕府の鎖国政策、145ページに及ぶ「日本植物誌」はヨーロッパの知識人たちの間にケンペルの名を広めた。残念ながら、『廻国奇観』と同時にドイツ語で執筆した原稿「今日の日本」は出版できなかった。
15 エンゲルベルト・ケンペル『日本誌』1777~1778年刊.(C・W・ドーム篇のドイツ語版)Engelbert Kaempfers Weyl. D. M. und Hochgrafl. Lippischen Leibmedikus Geschichte und Beschreibung von Japan. Aus den Originalhandschriften des Verfassers herausgegeben von Christian Wilhelm Dohm [..]. Erster Band. Mit Kupfern und Charten. Lemgo, im Verlage der Meyerschen Buchhandlung, 1777; Zweyter und lezter Band. Mit Kupfern und Charten. Lemgo, im Verlage der Meyerschen Buchhandlung, 1779. 239×195×57 『廻国奇観』は学者向けの論文集であるが、ケンペルがドイツ語で執筆した原稿「今日の日本」は、彼の死後ロンドンに渡り、1727年にようやく英語訳として発表された。ケンペルの徹底的な情報収集と冷静な描写により、この本は近世ヨーロッパの日本学の一里塚となり、シーボルトの時代まで来日する学者の基本文献として利用された。1720・30年代中英語版に基づくフランス語版とオランダ語版が出版された。1773年ケンペルの故郷レムゴで発見されたもう一つの(不完全な)原稿は、若き啓蒙主義者ドーム( Christian Wilhelm von Dohm, 1751-1820 )により刊行された。ケンペルの文体に不満だったドームは文章に手を入れたので、このドイツ語版は英語版などと同様にケンペルの原稿から離れたところがある。
16 カール・ペーテル・ツンベリ『新種植物あるいは植物学の学位論文集』1781~1824年刊(ラテン語)Nova Genera Plantarum aliasque Dissertationes Botanicae auct. C. P. Thunberg..Upsaliae, 1781-1824. 論文や審査のレベルは大学及び教授により大きく異なっていたが、近世ドイツ、オランダなどの大学において博士号を取得する学生は、学位論文を書き、それを公開審査会で説明し、抗弁しなければならなかった。帰国後ウプサラ大学の教授となったカール・ペーテル・ツンベリは弟子の学位論文を自分で執筆し、審査会でその内容の説明を求めていた。したがって、すでに同時代の学者は彼の弟子の論文をツンベリの著作とみなし、上記のような論文集としてまとめていた。お灸や日本の植物に関する論文の名目上の著者は、日本に行ったことはなかった。
17 ツンベリ著,ホルンシュテット提出『植物の新種』ウプサラ,1781年刊(ラテン語)Nova Genera Plantarum, quorum partem primam exhibent Praeses Carol. P. Thunberg, et Besp. Claudius Fr. Hornstedt, Upsal. d. xxiv. Nov. MDCCLXXC. 200×166×501781年ツンベリの弟子ホルンシュテット( Claes Fredric Hornstedt, 1758-1809 )は、新種の植物についての論文で博士号を取得した。標本その他のすべての資料はツンベリが収集したものである。ホルンシュテットがそれに基づいて描いた絵図は喜望峰の植物(4点)と日本の植物を示している。後者の学名は Bladhia japonia となっている。日本植物誌の準備を進めていたツンベリは、このようにして16部に分けて新しい発見を披露していた。 pt. 1: C.F. Hornstedt; pt. 2: C.H. Salberg; pt. 3: J.G. Lodin; pt. 4: P.U. Berg; pt. 5: C.F. Blumenberg; pt. 6: G.T. Strom; pt. 7: E.C. Trafvenfeldt; pt. 8: C. Wallenius; pt. 9: N.G. Bodin; pt. 10: P. Branstrom; pt. 11: S. Wallner; pt. 12: A.G. Salmenius; pt. 13: C.E. Mellerborg; pt. 14: C.F. Sjobeck; pt. 15: C.F. Lexow; pt. 16: G.E. Sorling. ツンベリは恩師リンネと同様に自分の弟子による海外調査を推進していた。上記のホルンシュテットは、東インド会社の医師としてバタヴィアへ渡航し動植物の標本の調査や収集を行ったり、長崎から戻った商館長ティチングから日本の医学関連の資料を入手したりしていた。
18 カール・ペーテル・ツンベリ『日本植物誌』1784年刊(ラテン語)Caroli Petri Thunberg Flora Japonica sistens plantas insularum Japonicarum secundum systema sexuale emendatum redactas ad XX classes, ordines, genera et species cvm differentiis specificis, concinnis et xxxix iconibus adiectis. Lipsiae, Muller, 1784.227×135×45
19 ジョセフ・バンクス篇『ケンペルにより日本で書かれた植物図選定』1791年刊(ラテン語)Joseph Banks (ed.): Icones selectae Plantarum, quas in Japonia collegit et delineavit Engelbertus Kaempfer: ex archetypis in Museo Britannico asservatis. London 1791. 380×260×20ケンペルが『廻国奇観』で発表した日本の植物は、持ち帰った資料の一部に過ぎなかった。ツンベリの『日本植物誌』は再び学者の目をケンペルの資料に向かわせた。イギリスの博物学者、王立協会会長、学問の擁護者としても知られたバンクス( Sir Joseph Banks, 1743-1820 )は、日本に来たことはないが、ジェームズ・クックの第一回航海(1768-1771年)に同行し、南太平洋地域のユーカリ、アカシア、ミモザなどを初めてヨーロッパに紹介した著名な人物である。
20 『日本王代一覧 ? 日本の歴代天皇記』初版 1834年刊(フランス語)Nipon o dai itsi ran, ou Annales des Empereurs du Japon / traduites par Isaac M. Titsingh, revu, complete et corrige sur l'original Japon-Chinois accompagne de notes et precede d'un apercu de l'histoire mythologique du Japon par M. J. Klaproth. Paris, Impr. Royale de France, 1834. 285×210×52.3ティチング( Isaac Titsingh, 1745-1812 )は、出島商館長や遣清使節など東インド会社の重要な任務にあたった法学博士号を持つ知識人だった。出島オランダ商館長として3度も来日し、その間1780年と82年、2度江戸に参府した。彼は日本に強い関心を寄せ、福知山藩主朽木昌綱、薩摩藩主島津重豪、平戸藩主松浦静山、蘭学者の桂川甫周、中川淳庵などとの交流を通じ、膨大な資料を収集した。商館の阿蘭陀通詞吉雄幸作、本木良永などの協力でティチングが訳した「日本王代一覧」は、林鵞峯(ガホウ)(春斉(シュンサイ))により編纂された歴史書(寛文3[1663]年刊)である。ティチングの死後、東洋学者ユリウス・クラップロート( Julius Klaproth, 1783-1835 )は、原文をもとにティチングの原稿を訂正した上で、日本の神話に関する概要及び1611年以降の補遺を附録として追加した。
21 フィッセル 『日本国の知識に関する寄与』アムステルダム,1833年刊.Bijdrage Tot de Kennis Van Het Japansche Rijk door J. F. van Overmeer Fisscher, Ambtenaar van Neerlandsch Indie, laatst te Japan. Te Amsterdam, Bij J. Muller & Comp. MDCCCXXXIII. 290×245×60ヨーハン・フレデリック・ファン・オーフェルメール・フィッセル ( Johan Frederik van Overmeer Fisscher, 1799-1848 )は文政3(1820)年に来日し、書記官及び荷倉役として9年間も出島商館で勤務していた。1829年に帰国し、本書を刊行したが、その後の消息はほとんど不明である。本の内容は地誌、絵画、宗教、兵学、娯楽、動植物、家事、衣服、建築、船舶など多岐にわたっているが、記述は比較的平易なものでケンペル、ツンベリ、シーボルトの著作には及ばない。なお、本書は蘭学者杉田成卿、箕作阮甫らによって翻訳され、『日本風俗備考』として刊行された。

6 シーボルトの著作

    シーボルト蔵書目録の760点の書籍とは別に、通し番号を付けずにシーボルト自身が著した代表的な著作『日本』、『日本植物誌』、『日本動物誌』や漢籍・和書の復刻版、また2、3の学術論文が列挙してある(計30点)。

 

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22 シーボルト『NIPPON』アムステルダム, 1832~52年刊(ドイツ語)Nippon: Archiv zur Beschreibung von Japan und dessen Neben- und Schutzlandern Jezo mit den sudl. Kurilen, Sachalin, Korea und den Liukiu-Inseln, nach japanischen und europaischen Schriften und eigenen Beobachtungen bearb[eitet]. von Ph. Fr. von Siebold. Amsterdam, J. J. Muller et al., 1832-52. 594×420×75NIPPON』はもともとテキスト編と図版編から構成され、1832年から20分冊に分けてオランダのライデンで出版された。詳細なところまで観察できる、367枚に及ぶ大型図版の多くは、縮小された第2版以降には収録されていない。シーボルトはケンペルやツンベリの名著を参照しながら、数々の新資料を取り入れ、蝦夷地、琉球、朝鮮半島など日本の周辺にも力を注ぎ、近代日本研究への道を切り開いた。
23 シーボルト『日本動物誌』1833~50年刊(ラテン語)Fauna Japonica sive Descriptio animalium, quae in itinere per Japoniam, jusu et auspiciis superiorum, qui summum in India Batava imperium tenent, suscepto, annis 1825 - 1830 collegit, notis, observationibus et adumbrationibus illustravit Ph. Fr. de Siebold. Conjunctis studiis C. J. Temminck et H. Schlegel pro vertebratis atque W. de Haan pro invertebratis elaborata. Lugduni Batavorum, 1833-50. 403×320×38本書はシーボルトが日本で採集した標本、それに関する彼の記録や、長崎の絵師川原慶賀らが描いた精細な下絵をもとに、ライデン博物館の館長テミンク( Coenraad Jacob Temminck, 1778-1858 )と脊椎動物管理者シュレーゲル( Hermann Schlegel, 1804-1884 )及び無脊椎動物管理者デ・ハーン( Willem de Haan, 1801-1855 )によって1833年から5つの部篇が分冊刊行された。日本の動物を欧文で描写する史上初の専門書である。
24 シーボルト『日本植物誌』ライデン,1835~1870年刊(ラテン語)Flora Japonica sive plantae, quas in imperio Japonico collegit descripsit ex parte in ipsis locis pingendas, curavit Ph. de Siebold, digessit J. G. Zuccarini. Lugduni Batavorum, 1835-1870.400×306×70『日本植物誌』はシーボルトが日本において収集した植物標本や、川原慶賀などの日本人絵師が描いた下絵をもとに作成された名著である。最初の分冊(1図~10図)は1835年に出版されたが、最後の第30分冊(128図~150図)はシーボルト没後の1870年に刊行された。
『日本動物誌』の場合と同様に、本書の編集には専門家の協力が不可欠だった。『日本植物誌』に大いに力を注いだヨーゼフ・ゲルハルト・フォン・ツッカリーニ( Joseph Gerhard von Zuccarini, 1797-1848 )は、ミュンヘン大学の植物学教授だった。彼の名は、アカマツ、カヤ、コウヤマキ、サワグルミ、ネズミサシ、モミ、ヤマモモなど日本植物の学名に多く見られる(S. et Z. = シーボルトとツッカリーニ)。

当館所蔵邦訳書等

書名著者 出版社資料ID
17日本誌―日本の歴史と紀行― 上巻,下巻エンゲルベルト・ケンペル著 今井正訳東京,霞ヶ関出版,1973上:151097308
下:151097309
17江戸参府旅行日記(東洋文庫303)エンゲルベルト・ケンペル著 斉藤信訳東京,平凡社,1977151077187
20日本王代一覧 7冊林 鵞峰著村上寛兵衛,1663(寛文3)151263306~151263312 展示(No.20) 「Nipon o dai itsi ran」の原本.
24日本:日本とその隣国,保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集.日本とヨーロッパの文書および自己の観察による. 第1巻~第6巻,図録第1巻~第3巻フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト著 中井晶夫訳東京,雄松堂書店,1977-1979
25シーボルト日本植物誌(ちくま学芸文庫)フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト著 大場秀章監修・解説東京,筑摩書房,2007111130031
25日本植物誌:シーボルト「フローラ・ヤポニカ」(博物図譜ライブラリー6)フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト著 木村陽二郎,大場秀章解説東京,八坂書房,1992111074982
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