※下記は、2010年に確認した内容でありますが、その後外観や記載内容が変更されている場合があります。

平維盛塚(たいらのこれもりづか)

概要

野迫川は、平清盛の孫・平維盛が、最期を遂げたと伝えられる場所である。
源平の戦いにおいて、一の谷の合戦で敗れた平家は、屋島へ逃げ延びた。寿永3年(1184)、平宗盛の下命により、維盛(当時26歳)は熊野水軍に援軍を求めるため、熊野別当・田辺湛増(たんぞう)のもとへ使者として派遣される。
湛増は援軍を断わり、代わりに姫をめとらせて維盛をかくまい、守った。しかし、文治5年(1189)、源頼朝が維盛の逮捕令を発し、一大平家狩りを行ったため、維盛は奧熊野の山岳地帯に逃げ、建久9年(1199)に頼朝が没するまで、熊野・吉野の山中をさまよい歩いたという。
建保4年(1216)、再び野迫川へ至った維盛は、この地にとどまり、承久元年(1219)61歳で終焉(しゅうえん)したと伝わる。
野迫川村平には、里人が彼をしのんで建てたという維盛塚が残っている。
また、隣接する「平維盛歴史の里」では、悲劇の美男子と伝わる平維盛伝説をジオラマ、レプリカ、映像などで再現している資料館のほか、維盛塚を中心とする庭園やツツジ園、散策路が整備されている。

参考

所在地:奈良県吉野郡野迫川村平
「平維盛歴史の里」開館時間:9時00分~17時00分(積雪が多い場合は閉館の可能性あり)

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