※下記は、2010年に確認した内容でありますが、その後外観や記載内容が変更されている場合があります。

帯解黄金塚古墳(黄金塚陵墓参考地)(おびとけこがねづかこふん/こがねづかりょうぼさんこうち)

概要

奈良市南端の台地の南縁に築かれた一辺約30メートルの方墳。墳丘裾に沿って石列と石敷きが巡り、石敷きの構造は飛鳥の寺院跡や宮殿遺跡と極めてよく似ている。
墳丘の周囲には平たん面があり、その東、西、北を幅10~20メートルの外堤がコの字状に囲んでいる。外堤を含む古墳の範囲は東西約120メートル、南北約65メートルに及ぶ。
埋葬施設は、れんが状に加工した石(磚=せん)を積み上げて作られた推定全長約16メートルの横穴式石室で、奈良盆地北部では唯一の例とされる。
築造時期は石敷きの覆土から出土した土器の特徴から7世紀中頃と考えられている。
この古墳をめぐっては、明治23年(1890)、墳丘が開墾された際に石室が見つかり、宮内庁は同年、天武天皇の皇子で日本書紀を編集した舎人親王(とねりしんのう、生年不詳~735年)の墓との伝承をもとに、御陵墓伝説地(のちの陵墓参考地)に指定した。しかし、現在では、被葬者は飛鳥時代の政権の中枢に近い、社会的地位の高い人物と想定されている。

参考

所在地:奈良県奈良市田中町

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