子どもたちが見た満州 ②

シリーズ展示「子どもたちが見た満州」第2回目の本展示では、第1回目でご紹介した「修学旅行」とは別の形で満州を訪れた子どもたちの姿をご紹介します。

満州への修学旅行は、満州事変の勃発により一時期減少しましたが、その後徐々に回復し、毎年200以上の団体、1万人以上の学生が満州を訪れました。当時の満州への団体旅行客の7〜8割が修学旅行生だったとされています。

日中戦争開始から2年後の1939年、男子高等教育機関では軍事教練が必修になりました。また、勤労奉仕を目的として青年を大陸に派遣する「興亜青年学生勤労報国隊」が文部省により計画され、夏季の1〜3ヶ月、1万人の男子学生が満州や中国北部に派遣されました。彼らは軍隊と同じように部隊編成を組み、国内で1〜2週間の訓練をしてから、満州に出発、農作業や道路建設などに従事しました。また、これに伴い交通機関の混雑緩和のため、一般の満州旅行が制限されることになりました。

報国隊は翌年からは「満州建設勤労奉仕隊」と名前を変え、継続して派遣されました。そしてこの年から、勤労奉仕など戦時体制下の「戦力」保有のため、国内外を問わず、長期間の修学旅行が全面的に禁止されることになりました。

こうして、日露戦後から始まった満州修学旅行は、日中戦争長期化とともに「戦力」確保のため、終止符を打たれることになりました。以後、学生たちは修学旅行に代わり「勤労奉仕隊」として満州を訪れることになったのです。

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