灼熱の陽の光の下で 〜日赤奈良班看護婦の手記から②

思い出の数々

山森 美栄子

一度目の召集

昭和12年12月応召。 その時、私は和歌山日赤に籍をおき、産婆学を後3ヶ月で卒業という時であった。沢村院長より送別会を開いて頂き、名を汚す勿れという院長直筆の書をもらって急ぎ奈良支部へとかえる。

奈良でも会を催して下さったが、気にかかるのは家のことで無理にたのんで帰途につく。しかし時間を制限されていたため、家では落着く間もなく村の氏神様へと向う。女の兵隊という珍しさも手伝ってか、村人総出の見送りをうけ、制服に赤ダスキをかけて壇上で挨拶をしたとき、万歳万歳と日の丸と赤十字の旗をちぎれんばかりに振って下さった村人達は、駅まで24、5丁もある山道を見送って下さって、その先頭に立って歩いた。あの感激は60年すぎた今でもはっきり脳裏に刻まれている。

丁度その時、区長をしていた父は、次々と出征される軍人達を見送る役目にありながら、姉、私、妹と女ばかりで、長男の弟は中学1年生だったため、家にはお国の役にたつ者は誰もいないと嘆いていたそうで、女でも赤紙がきたと非常に喜んで下さったと、後で母からきいたことがある。

奈良支部に着いて、第35救護班要員として春日大社で御祈祷をうけたとき、全身ひきしまる緊張感で一ぱいだった。だが、着いた所は堺の金岡陸軍病院という収容所で、そこは1番から37番までの病棟が立ちならび、衛生兵達は自転車で院内をかけまわっている広い敷地だった。外科は奇数病棟、内科は偶数病棟、36番は精神病棟、37番は伝染病棟だった。私達は丁度真中位の、外科重傷病棟、将校病棟、手術室へと配属された。

どんな患者に出逢っても、落着いていなければ、看護婦があわてたり、声をだしたりすると患者はすぐ反応するから、くれぐれも注意するようと院長からいわれてきたけれど、まず最初にびっくりしたのは、壺に入った患者が送られてきたとき。思わず、アッと声をあげそうになった。両手両足を切断されていて、ベッドに移すときまるで達磨のようだと思ったことを...。

片手片足のない人は沢山おられたが、きっとお国のために戦ったのだという満足感の上のことだろうと思うが、比較的朗らかだった。元気な患者は、床の掃除や窓ガラス拭きなど手伝って下さって、私達看護婦のことを、お母さん、お母さんと呼んでおられた。

月に何回か非常呼集というのがあり、夜中に伝令がくると病院まで14、5丁の道を走ってゆかなければならない。少し様子がわかってきた頃は、現役の将校が当直の時など必ず非常呼集があったので、制服のままねむるということが度々だった。

病院の入口近くにテントを張った本部というのがあり、そこへつくと奈良班と大きな声でさけんで中へ入る。大阪2ケ班、和歌山1ケ班、奈良1ケ班にわかれていた。全員が集合すると、すぐ演習が始まる。胸元に病名を書いた札をつけて、模擬患者になった兵隊があちこちにちらばっている。大腿骨折とか、頭部外傷など、その札にあわせて処置をし、担架にのせて本部まで運んでゆく。

始めの頃は要領がわからずにいた所、ある夜のこと、患者になった下士官の人から、看護婦さん、こんな遠い所から担架にのせんでも、本部の近くまで走らせて、そこで処置をして運んだらよいと教えられ、ああそうかと、それからはこの手を利用したため、処置さえきっちりとできておれば奈良班は成績がよかったのではないかと、今でも信じている。

昭和14年の終り頃、先輩達が病院船にのるため異動し、代わりに召集されて来た人は、今まで家庭にいた人ばかりで、中には授乳中の人もおり、氷で乳房を冷してお乳の出ないようにしながらの勤務。現役だった私は、その人達にくらべると最年少者だったが病舎主任を命ぜられた。

今までは上級生達の下で、唯いわれるままにはいはいと、走りまわってさえおればよかったのに、責任をもつ身になって間もない頃、当直の人の伝票の書きまちがいで、炊事の森中尉から呼びつけられて、お前の所は死んだ患者まで飯をくわすのかと叱られ、廊下に立たされたり、検温器を割ったといっては薬室で大目玉をくったり、惨々な日がつづいた。その時も衛生兵から、員数のものは別に鍵のかかる所に保管して、私物を利用するとよいと教えてもらって、体温計を100本買求めたこともある。

軍隊は検査の多い所で、特に年末の第4師団からの検査はきびしかった。私は極度に緊張していて、10名余りの検査官の質問に答えたり、員数の調べに応じたりして、最後の検査官が病室をはなれられるのを見とどけてから、意識不明となり倒れてしまった。どの位たったか、気がつくと両腕から両大腿部まで所せましと絆創膏がはられていて、自分でもびっくりした。あの頃は注射1本うつ毎に小さな絆創膏をはったものである。

産婆未満の日々

昭和15年5月 召集解除。その時将校病棟の勤務をしていた私は、病棟付の王子中尉に歌舞伎座を招待され、徐園で御馳走をして頂いたことを覚えている。

それから後3ヶ月で卒業できる産婆学の免状をもらうため、和歌山日赤にかえる。だがその時は、次々と召集されて看護婦不足になっていたため、なかなか講義を受けることができず、秋まで待ったがあきらめて家へかえることにした。家にかえるとまちかねたように、村でお産が始まると、必ず夜中に門の戸をドンドン叩いてよびにこられる。異常産でない限り、和歌山でみっちりしこんで頂いたおかげで動じなかったが、臍帯切除となると無免許では法的な問題となる。臍の緒を切ると、私は刑務所にゆかねばならない、といくらいってもきいてもらえず、母までが、あんたはそんな薄情者とは思わなかった、という始末。とうとう覚悟を決めて実行に移す。だがそれが2度3度と回を重ねる毎に、私自身の良心が許さず(産婆は始発5時のケーブルで登ってくるので、夜中のお産には間にあわず)。今まで村に器用な人が居て、その人が面倒をみておられたそうで、臍帯切除まではどうだかわからないが、とりあえずその人にすべてをまかせて、京都の鷲峯山にいる父の妹である叔母の所へ避難した。醍醐寺の管長の岡田戒玉の兄である叔父は、僧侶ではなかったが、金胎寺をまかされていた。

ふもとから1里位登った山頂に建つ、唯1軒のお寺で、周囲は大人が3、4人で手をつないでもとどかぬ位の杉の大木がぎっしりと立ちならび、昼でもうすら暗くて、部屋にいる時はランプをつけての生活だった。

ある日のこと、登山してきた大阪の団体の1人が行場で足をすべらせ大けがをして、戸板でお寺へ運びこまれてきた。早速応急の処置をして、副木をあてて、早く下山して医者の所へゆくようすすめてかえらせた。後日あの時のお礼だといって登山してきた人のはなしでは、ふもとの医者は、お寺にそんな娘さんなんかいない筈だが、適切な処置のおかげで命が助かったのだといわれたとのことで、金岡での演習が思わぬ所で役にたってうれしかった。沢山の油揚げを本堂にそなえられたとき、狐とでも勘ちがいされたのかと叔父、叔母と3人で大笑した。

再召集と山下将軍の思い出

昭和17年2月、お寺へ召集令状が届く。その日は大雪で、その積雪の中を何回も何回も転倒して下山した。長靴の上から雪が入り、足の感覚がなくなっていたが、いそいで家へかえる。

その頃は戦争が激しかったため、村の人には誰にも知らせず、父と本家の伯父に大阪駅まで送ってもらい、一路広島へ向けて出発。2月半ばの広島も雪がつもっていて、宇品の港から1万トンの鹿島丸にのりこむとき、編上靴にぐるぐる縄をまきつけて、すべらぬようにしながらタラップを降りたのに、翌日台湾へつくと、沢山の人が海水浴をしている。あの人達何をしているのと錯覚をおこしたものだった。サイゴンで1週間余り待機してシンガポールへ向う。海から見上げた昭南島の美しかったことといったら。小さな青や赤の屋根が立ちならび、どの家にもいろとりどりの花が咲き乱れていて、まるで夢の世界へ迷いこんだように感じた。

「第1兵站病院」。そこが応召2度目の勤務場所で、病室には天井やベッドの横にいくつもの扇風機がまわっていた。勤務は金岡の時とはくらべものにならぬ位の激務で、金岡では100名くらいの患者数が300名を越していたし、夜間は2名の看護婦で1階、2階、3階と走りまわっての勤務だった。1晩に5名以上の患者が死亡すると、あんたら何をしてたん、と婦長が叱られるけれど、もともとが重症患者ばかりで、午前8時の交代時前など、死なないで、死なないで、と患者にしがみついたものだった。

1ヶ月程たったとき、偉い人の看護に行けといわれ、婦長と私が行くことになる。杉本婦長は厳しいが、口八丁、手十丁という位のよく働らかれる人だった。迎えの車が来る。前後に着剣をした憲兵が7、8名トラックにのって護衛しているというものものしさ。婦長は車にのるとすぐ目を閉じておられたが、私は車窓の景色をみるともなしにみていた。その中、生まれてはじめての土地というのに、この角を曲ると十字架の立った墓地がある。あの角を曲がると牧場になっているというわかり、そのことを婦長に話すと、そんな馬鹿なといわれたが、結局同じ所をぐるぐるまわっていたことに気付く。

4、5時間も車をのりまわし、やがて着いた所は山下奉文中将の官舎だった。必要がないといわれたら、すぐかえってこいと部隊をでるときいわれてきたが、何ごともなく2階の病室に案内された。大きなベッドに横になっておられた閣下は、眼付のするどいお顔をされ、体重26、7貫もあるお相撲さんのような方だった。あのランランと光る瞳でにらみつけられて、イエスかノーかと迫られたら、パーシバル将軍もひとたまりもなかったことと想像がつく。病名はデング熱だったが、山下閣下が病気というとそれだけで軍を左右するということで、絶対他言せぬようといわれた。

お側付の高級副官は、実によくすべてのことに気のつく方で、閣下のお世話は全部ひきうけて下さって、私は婦長のいわれることだけをしていればよく、それこそ気は重かったのが、うそのような毎日だった。

4、5日経ったとき、夜中に非常呼集が行われ、兵隊達がゾクゾクとかけつけて、またたくまに4ケ所あるテニスコートを埋めつくした。婦長と私は、閣下の椅子の後に従って、2階のベランダからそれを見物させてもらった。その時閣下から、あれが南十字星だと教えていただく。神秘の光で輝くその星をみていると、しみじみと遠い異郷にいるのだという実感が湧いてきた。

その後も南十字星と山下閣下は、きりはなせない存在として私の脳裡に残る。あの演習も、この星を私達に教えて下さるためのものだったかと痛切に感じた。

ある夜婦長がねむりにゆかれて私1人でいた時、震度4、5度の、地震のような激しい雷鳴を伴ったスコールで2階がゆれうごき、突然のことだったので、とびあがる位びっくりした。私は無我夢中で閣下の蚊張の中にとびこんだ。するとそれまで大きな往復のいびきでねむっておられた筈の閣下が、急に大声をあげて笑いだされ、そんなに怖いかといわれたとき、全身冷汗で恐縮し、あわててとびだしたが、婦長にわかればどうしようと、それはそれは心配したけれど、誰にもわからず無事にすぎたこと。

又、ある時は日本の着物に兵子帯をしめて、ステッキをもって夕方庭園を散歩されたり、ある時は、今度私の代りに来る者にデング熱の置土産をしておいてやろうかなと、真面目なお顔で冗談をいわれたり。2週間程で私達が部隊へかえるときも、閣下と高級副官と婦長と私の4人だけで、テーブル一ぱいの御馳走をして下さったり、部隊に残っている看護婦達へ土産だといって、おすしやお萩を沢山頂いたり、こんな威厳のある方が、こんな所にまでお気をつけて下さって、と感激で胸が一ぱいになったものだった。閣下の命令で、支那人のコックが3人がかりで、朝の2時ころから作ったものだと高級副官がいっておられた。お礼にと婦長には等身大の舞娘人形、私には閑院の宮様がお見舞いにもってこられた、富士山に桜を画いた額、そして2人に南方軍最高司令官と刻まれた美しい万年筆を頂く。

部隊へかえるときも憲兵付で、4、5時間も車にのったのに、後でわかったことだが閣下の官舎は私達の病院から目と鼻の先の、迎賓館だったのには驚いた。後日閣下が異動されるとき、病院まで来て下さって50字詰位の書きものを頂く。閣下は達筆で有名だったそうである。漢文で何と書いてあるかわからず、中学校の国語の先生をしていたという中尉に尋ねると、大地にしっかりと根を下ろした大樹は、どんな雨や風にも動じないというような意味のことだと教えて下さったとき、あの閣下の蚊張の中へとびこんだ時のことを思いだして赤面の至りだった。私はこれを母校の高田高女の講堂に寄付しようと思った。金岡のとき井上校長から度々慰問袋を送って頂いた。お礼のためと心にきめた。患者の将校の方達から、山下閣下の書かれた字というので、1字でいいからほしいといといわれたが、悪いけれどみんなおことわりした。

次に出張看護に行ったのは、マライの鉄道を敷いたという高崎閣下の所で、そこはペラ高原療養所という所にあった。若い看護婦と二人で汽車にのりこむ。マラッカ海をのりこえて汽車は延々と走りつづけた。送って下さった藤井中尉は1等車なのに、私達は特等車だった。下車してから77曲りあるという山の頂上まで車で登る。途中人喰い人種がいるという所を通るので、勝手に車から出るなといわれた。閣下の部屋は支那人の別荘とかで、部屋毎に色が変わっていて、病室はみどり一色、私達の控室はピンクで、ベッドからカーテン、置物に至るまですべて桃色だった。食堂は真赤で、お稲荷さんのいるような所で食事をするのは、気持ちの良いものではなかった。

高崎閣下の病気は肺結核だった。やせてガリガリの人で、プルス[脈]をとりにゆくと必ず私の手を握りかえすような人で、気持ちが悪かった。1ヶ月あまりで亡くなられたが、高崎閣下の看護にいって、あらためて山下閣下の人格の偉大さがわかり、戦犯として処刑をうけられた2月11日の御命日には、必ず今もってお線香をあげてはご冥福をお祈り申上げている私である。

終戦、そして帰国

いよいよ8月15日、終戦。頭の中は真白で、冷たい風が吹きまくってゆくような空しさだった。日本人として恥かしめをうけるようなときはこれで死ね、と青酸カリを1包づつ渡された。

病院も変わらねばならない。チャンギーにある大和病院にゆくよう命ぜられ、患者をトラックにのせて、看護婦1名付そってあわただしく出発した。私はたしかにチャンギーときいたのだが、その日も次の日も1台の車も来なかった。どうなっているのだらうと、何度青酸カリをとりだしてにぎりしめたことか。どうしたわけだか今もってわからぬまま、3日目にみんなの車が着いたとき、泣いて泣いて。あんなに泣いたのは、私の生涯を通じて最初で最後だったと思う。よれよれになった青酸カリの包みは半分位の量になっていた。

思いかえせばいろいろのことがあった。死に直面している重症患者が、看護婦さん、おこしてといわれるままに抱きおこし、東西南北おかまいなしに日本はあちらですというと、必ず姿勢を正して天皇陛下万歳と叫んでそのまま亡くなった人の多かったこと。いつか何かの本で、お母さんといっても天皇陛下万歳なんかいわないと書いてあるのをみたことがあったが、私は、事実何回か経験ずみで、たしかに10名に1名位の割でお母さんとよんだ人もいたが、殆どみんなといっていい程、天皇陛下万歳が最後の言葉だった。

いよいよ日本にかえれる日がきた。荷物は両手にもてるだけときめられて、本社へかへすオーバーや下着だけをもって、私物は全部とりあげられての帰還である。昭和21年5月半ば、患者を看護しながら船にのる。船にのってもどこへつれてゆかれるかわからない時代で、この船、本当に日本へかえれますかと1日に何回も船員にきいて笑われたが、私自身はそれこそ真剣だった。行くときとちがって二週間あまりで和歌山の田辺に上陸、DDTを頭から全身にふりかけられたが、御苦労さまでしたと迎えてくださった人々に、やあ日本語だ、とさけんだことが忘れられない。言葉の通じる有がたさ。元気で日本の土をふむことができるうれしさ。それこそ筆舌につくせぬ感激だった。

一面の焼野原を眺めて、日本も大変だったのでとしみじみ涙したものである。その後残務整理で、東京の本社へ婦長と共にいったとき、汽車の中は人であふれて通路もトイレも一ぱいで窓からおりて用を足し、のるときはお尻を押してもらってのる始末。

私の青春は戦争にあけて、戦争に終わったが、後日大阪日赤で何かの話のついでに、わが青春に悔いはなしときっぱり言いきって、医師や看護婦を煙にまいたものだった。が、事実、あの時代を真剣に生きぬいてきた者にとっては、悔いの残らぬ青春だった。今人生の黄昏にたって、体の自由がままならぬ時があっても、外出のときなど軍歌を口ずさむと自然に足が軽くなるのが不思議である。1ツ2ツのかげりはあっても、我が人生に悔いはないと胸を張って云いきれる現在の幸福。周囲のみんなからやさしくして頂いて、私は本当に幸せな人間だと心の底から感謝の日々を送っている今日この頃である。

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トラック島からの帰還

神谷 照子

小学時代から、日支事変から大東亜戦争に突入し、私達も厳しい時代でした。戦争はますます拡大し、外地に内地に戦傷病軍人が増えつづけ、平時から戦時の日赤救護要員でも人員不足で、乙種救護看護婦、臨時救護看護婦が募集され、養成されました。甲種救護看護婦の増員されたのは云うまでもありません。昭和16年乙種1回生12名は、名古屋赤十字病院へ委託養成され、昭和18年3月卒業。即時半数以上が召集され内地陸軍病院へ。残留組は名古屋日赤病院で勤務。婦長、先輩看護婦が次々と召集され手薄になった。病院と一般看護婦、新卒生、下級生で力を合わせて頑張っていた。

昭和18年11月9日 第511救護班要員として召集される。

同年月12日-14日 横須賀海軍病院勤務
      15日 海軍病院氷川丸乗船
      22日 氷川丸退船、トラック島第4海軍病院に勤務

奈良班は伝染病棟勤務。3病棟あり1棟約100人収容されていた。勤務員 軍医2名、室長1名、衛生下士官(病棟婦長の役割)衛生兵3名、助手2名(旧朝鮮男子)、手伝2名(島民女子)、日赤救護班7名、7名、6名(第3病棟患者数やや少ないため)配属された。

第1病棟 赤痢・アメーバ赤痢・急性腸突
第2病棟 腸チフス・パラチフス・発疹チフス等
第3病棟 結核他伝染病・熱性症・その他の伝染病
であった。

昭和19年元旦は平穏で、日赤各班(本部・東京・埼玉・千葉・大阪・奈良)、衛生兵、定員看護婦(海軍看護婦)対抗バレーボール大会等楽しむ一時を過ごしたのも束の間、戦況に変化が起こって来た頃、私達の婦長は病気内地送還、続いて使丁さんも帰国、書記は最初から他班(本部?)兼任、みなしご状態で、若い先任看護婦の松井さんが婦長代行し、御苦労なさいましたが、私達は結束、若さで頑張りました。使丁さんは東京班の方がお世話してくれ、助かりました。

戦局風雲を告げる頃、2月頃?パラオから和歌山班がトラック島に引揚げてこられました。甲看の方達は和歌山の日赤養成だったので、同級生先輩等で、異国で会えた。喜んで活気が出、私たちも隣県と云うことで何か懐かしく、心強く感じました。

この頃、内地は毎日空襲があると聞かされ、心病む日々でしたが、トラック島も日夜敵機が編隊を組んで来襲。最初のうちは日の丸のついた戦闘機も応戦していたが、多勢に無勢。飛行場も爆撃され航空隊も全滅状態、空を飛ぶのは敵機の大群。病舎の屋根に大きな赤十字のマークがあるのに、低空で機銃掃射を浴びせ、時には白衣が目立って狙い射ちされた事もあった。

私の勤務していた伝染病1病棟は赤痢系の病人が激増し、ベッドでは収容出来ず、大部屋は床に布団を敷きつめて通路を少しあけ雑魚寝状態。高床建築の床下には簡易ベッドを入れ、軽症患者。廊下にベッドを並べて下士官クラスの人が、個室には将校が収容されており患者数は150名以上に達していた。看護婦も伝染病に罹患し入院し、ますます大変な勤務状況でした。その中で衛生兵は地下病院作りのため濠堀りにかり出され、目の廻るような日々で、例えばリンケル大量皮下注射の患者でさえ、処置室に早変わりの廊下にふらふらと出歩いて来て、5分〜10分で注入されたら足を引きずりながら布団に行き、自分でマッサージをする状態。静注、皮下注射の人は一列に並んで待っている。また傷の手当も、入院中の快復期にある軍医、衛生兵も総動員で介助、朝から昼まで殆ど全員の処置が終わる傍らでは、軍医が診察しておられる。Ns[看護婦]先任1名陪診といって軍医の診察しながら、云われる言葉をカルテに記入して行く。

食事の準備も、給食から持ち帰れば、患者さん達が各食種に分けて配ってくれる。Nsは1名指導出来るだけ、嘘のような話。又夜勤は2名、深夜は仮眠、翌日又勤務。2〜3日に1度、こんな中で声も出せず永眠される方。早朝見廻ると隣に寝ている患者さんが弱々しい声で「看護婦さん。この人冷たくなっているよ」と教えてくれる状態。悲しくとも悲しんでおれない状態。日勤も夜勤者もへとへとになりながら、空襲があれば重症患者さんを残し、防空壕へ避難する(避難しないと叱られる)。睡眠時間も少なく疲労も重なり、私もデング熱に罹患。40℃以上の発熱、腰痛、意識もうろう状態、仮眠室で寝ているだけの状態の時、助手の(前記朝鮮の人)桃井さんに南さんが氷枕を換えてくれたり、水分や食事の世話をしてくれた事を、うれしく今も昨日のように思い出されます。4、5日して、まだふらふらしながら勤務につき、つらかったのを覚えています。

日1日と空爆が激しく、外傷患者も増大、外科病棟も満杯、手術の多い時は応援に出かける。手術台は4台、夜に日をついで手術が行われる。輸送船も寄港できず又撃沈され、食糧も乏しくなり患者さんも雑炊、私達はパンの実をふかしたもの(ふかすとパンの感じ)等代用食が多くなりました。この頃大阪班の妻鳥さん(こんな字だったと思う)伝染2病棟に入院、内科部長がつききりの診療看護をなされましたが、甲斐なく2日目永眠された事も、今も思いに残る事です。

南国の気温、過酷な業務、食糧不足、いつ誰が倒れても不思議ではなかったかも知れません。

入院患者さんも最低限度の診療と看護?、今思えば恐ろしい状態の中で、多くの若い人々が命を落して行かれました。奈良班の看護婦も数名、伝染病(パラチフス)に罹患しましたが、皆んな快復したのが幸いでした。

島にいた日本の婦人は、慰安婦も含め全員内地に送還された後、敵の大艦隊接近の報が入り、沿岸は物々しい警備、海軍は陸戦隊が少ないので男子は総て戦闘体制に入る。

敵兵が上陸して来たら、救護班は恥しめを受けぬためにすぐ命を絶てるよう、青酸カリ溶液を小瓶に入れガーゼに包んでベルトに結びつけ勤務しながら、再び日本へ帰る事も、親兄弟姉妹に会う事もないと覚悟しました。数日後、特別警報解除となりああ助かったと思う。

この頃は入浴も週1回(女子のみ)がやっと、毎日汗にまみれ散髪もままならず、キャップの中は温床、虱が発生し困った。

患者さんは入浴はなし。病衣の交換もだんだん少なくなり衣虱(白い虱)が繁殖し気の毒でした。

19年7月11日に病院船氷川丸寄港。入院患者は軽症を残し搬送し、終了後救護班乗船命令あり、13日第4海軍病院退去す。乗船後にサイパン島玉砕の報に接し、トラック島を通過してサイパン島が犠牲になったのだと黙祷を捧げる。

14日から病院船勤務。ここでも伝染病棟。帰航途中あちこちの島で傷病兵を収容し北上中、触雷(機雷)し、船体は傾き沈没するかと思われたが、40度位傾いたままフィリピン迄航行。その間にも敵機は船上を旋回し、覚悟をする状態であったが、無事ダバオに寄港、船の応急処置をして出港す。

日本に向かって航行中、土用波の高いうねりの中、船はローリング、ピッチングを繰返し、奈良班看護婦の数名が船酔いでダウン。食事はもちろん水分でさえ吐く始末。勤務員減少し、ここでも看護は大変だった。20日余りの航海でも重症患者さんが次々と命を落とされた。遺髪を残し、軍艦旗にくるみ船尾から海中への水葬礼。悲しいラッパの音と僧侶(兵士の中の)の念仏で別れ、幾度涙した事か。17歳の私には辛すぎた。今想出しても涙がにじみます。やがて大島が見えはじめたが、なお息を引きとる人が絶えない。「日本が見えて来たよ。頑張って生きて!」幾度声をかけ励ましたことか。

19年8月5日、横須賀港に到着。患者さんを搬出(伝染病棟は最後)。

8月6日〜20日迄休暇。連絡も出来ず突然の帰郷で、夕方家に着いた私を見て、父が真顔で「足があるかよく見てみよ」!と母に云っている。私は何の事か解らず、「只今、帰りました」と云っても中々信じて呉れず、上にあげてもらえなかった事が今も姉妹が寄ると笑い話になる。

トラック島は袋のねずみ、生きて還れると思っていなかった由。その数日前に帰ってきた夢を見て、ああ死んだと思ったそうだ。荒れ果てた祖国に帰り、感無量、内地も苦労したものだと。

8月22日、横須賀海軍病院へ。広ケ原分院勤務。

9月13日、熱海病舎に転勤。この時期は平穏であった。旅館の大きいのは病室に、中小は小学生の疎開児童が収容されていたが、幼い子達が親を離れて暮し、淋しそうだった。

昭和20年8月5日、大阪海軍病院転勤命令。この頃広島に大きな爆弾が投下されていたそうな(原爆)の噂。真実は何も知らされず。

8月12日、一晩中立ちっぱなしのギウギウ詰の列車で大阪へ。

8月14日、大阪海軍病院着(甲子園ホテル本部)。路面電車も空爆で破壊のため運行していず、何処からか今では覚えていないが線路づたいに、夜行列車の疲れと暑さでくたくたになって歩いたことを想い出す。

8月15日(今思うに終戦の日)垂水海軍経理学校派遣勤務。数日して経理学生(海軍主計将校養成)長期休暇、兵士は家に戻った。入院療養者も重傷はそれぞれの病院へ転院、軽症者は実家に帰省、敗戦は一言も云わなかった。

アメリカ兵が和歌山に上陸した時、又もや救護班は青酸カリ(今度は粉末)を1包ずつ渡された。飲む事もなかったが...。

10月22日、大阪海軍病院復帰、同日解任、編入解除。

10月27日、召集解除。

2年の間にあまりにも多くの体験をし、明日の命の知れぬ日を過ごした16歳〜18歳、よくぞ耐えられたと不思議な気がする。長い歳月にも思われ、青春の一頁の始めに焼きついている。忠君愛国の名の下に、尊い命を散らされた、多数の英霊に感謝し、冥福を祈る日々を過ごさせて頂いております。

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日本赤十字社従軍看護婦として奈良支部に召集される -戦時中の生活や体験話

東雲 ミサ子

私は昭和18年11月9日、日本赤十字社第511救護要員として奈良日本赤十字社支部に召集され、同11月横須賀海軍病院に到着する。同11月13日14日、横須賀海軍病院にて補助勤務を致しました。同11月15日横須賀海軍病院出発して、海軍病院氷川丸に乗船しました。同11月22日、氷川丸退船トラック島南方第4海軍病院到着、勤務をしました。

奈良班は伝染病棟勤務でした。私は第2伝染病棟勤務を致しまして、一生懸命看護に従事致しました。夜間の当直勤務も致しました。病気で苦しまれる兵隊さんが1日も早く元気になっていただき、再復帰して下さる様に治療に専念致しました。元気になって退院される時は嬉しく思いました。

始めのうちは空襲もなく良かったのですが、だんだんと戦争がきびしくなってきて空襲が多くなり、患者さんを担架に乗せてジャングルまで避難致しました。何回となく避難しました。空襲解除となると皆なほっとしました。ある日私はお薬を本院までいただきに行った帰り道に空襲に会い、突然低空飛行で飛んで来た飛行機に狙われ、パンパンパンパンと撃たれました。私と友人の中井さんと二人大きなマンゴの木があったので、シャガミ込みじっと息をこらして動きませんでした。幸い何事もなく命拾いを致しました。患者さんの投薬のお薬もしっかりともって病棟に帰って来ました、中井さんは第1病棟で私は第2病棟でよかったな…と言って別れ、それぞれ病棟に帰りました。ほんとうにこの事を危機一発でしたと言うのでしょう。怖かったです。白衣もその頃緑色だったので目だつことがなく良かったなと思います。

その後戦争がますますきびしくなって、私達の勤務しているトラック島が危なくなり出して、従軍看護婦一同大きな穴に入り、指示があり次第、毒薬を呑む事になりました。ところが運よく難も逃れて薬も婦長さんに返して、その時も又お陰様で皆な命助かりました。嬉しかったです。私達は生と死の隣あわせの毎日でした。

そのあとも何もなかったので病棟勤務致しました。看護の仕事は一生懸命励みました。丁度その頃思いがけなく病院船氷川丸が来てくれましたので、たくさんの患者さんや私達も乗船させていただきました。そして、病院船勤務致しました。途中病院船が魚雷に触れて船底に穴があき、衛生兵の方々が徹夜作業をして吸水して下さいました。私達の背嚢も水に濡れて、大切な本や写真も駄目になってしまいましたが、病院船の修理も無事におわって下さったので、皆な元気で横須賀に帰国できました。有難く思いました。

病院船氷川丸には、何度も何度も有難うございましたと心の中で御礼を申し上げました。患者さんの兵隊さん方も喜んで、それぞれの病院や隊にお帰り下さいました。あと私達もほっとして氷川丸より退船しました。横須賀海軍病院に帰りました。その後鎌倉八幡宮へ行き無事帰国出来た事、お礼申し上げる。日本赤十字社奈良支部に帰る。

昭和19年8月6日より、8月20日まで休暇をいただき、自家に変える事が出来てほんとうに嬉しかった。言葉で言えないほど嬉しかった。家の仏様にお礼申し上げる。召集で出発する時「元気でなー」と祖父が涙を出して、見送って下さった。おじいちゃんは他界されていた。あの時のおじいちゃん。可愛がって育てて下さったおじいちゃんの笑顔は今でも思い出されます。その後、同8月22日より、横須賀海軍病院に帰り、同8月23日広河原病舎派遣勤務する。同9月13日熱海病舎に転勤務する。東京の方も熱海も空襲が多くなって来て、同昭和20年8月5日大阪海軍病院転勤務する。同10月22日大阪海軍病院解任される。同10月27日召集解除になり日本赤十字社奈良支部に帰る。

こうして私達救護看護婦の任務を無事にはたして、家に帰る事が出来ました。お国の為に献身的に命を犠牲にして尽くした事を、今も有々と思い出されます。私達の青春はこうしたおそろしい毎日を過しながら、従軍看護婦としてお国の為に一生懸命、精一杯尽くしました。今は72歳にもうじきなります。このような事がない様に願いたいと思います。体も弱くなり、心筋梗塞の病気で今は病院で治療致してります。字も思うように書く事が出来なかった事をお詫び致しますと共に乱筆乱文で申訳ございません。これにて失礼致します。

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南十字星の下 あの日あの時

吉川 ヨシカ

敗戦から50年は過ぎ、戦争をわすれかけている。戦争なんか50年前の夢だと言ってしまえば終わりですね。でも私等には戦争は残酷です。今の平和の影には、口には言えない苦しい、悲しい思い出がある。それを振り返って今の平和な生活が永遠でありたいと、心から願っている。

昭和18年10月31日、私は日本赤十字社和歌山救護看護婦養成所を卒業したのです。喜びも束の間、従軍看護婦として召集令状を受けたのです。当時19歳でした。私等奈良班511班は、南方トラック島第4海軍病院と決まり、翌月6日、南溟に浮かぶ、椰子の葉繁るトラック諸島を思い浮かべ、若い胸を膨らませ勇躍壮途についたのです。打ち振られ波立つ日の丸の旗。さかんな歓呼の声。心を赤十字の色に染めた私たちの晴れやかな青春の一頁でした。

病院船氷川丸に乗船、トラック島に向った。しかし、戦局は日本を敗色に染めつつありました。18年2月にはガダルカナル島撤退。同年5月にはアッツ島玉砕。11月はタワラ、マキン島玉砕の悲報が続き、山本五十六連合艦隊司令長官は、すでにソロモン上空で散華しています。しかし、暗い戦雲はまだトラック諸島を覆ってはいませんでした。

トラック諸島は、東京から南へ約3500キロメートル、西太平洋に浮かぶカロリン諸島最大の島群で、「太平洋の湖」と呼ばれ周囲20キロメートルの美しいサンゴ礁に囲まれた大小70の島群から成り立っています。主な島は春島、夏島、秋島、冬島で、日本では四季諸島と名づけていました。目眩めるような太陽の輝き。原色豊なムウムウを着たカナカ族の娘たち。サラサラと音立ちそよぐ椰子の葉。そしてブーゲンビリアの燃えるような赤い花。夜になると島民たちはギターを爪弾き唄を歌って踊るのでした。

第4海軍病院のある夏島は、又連合艦隊の基地でもあったのです。それだけに傷病兵が続々と担ぎこまれました。バラックの屋根に赤十字のマークが描かれている病院の建物の中には、それら兵士達が廊下にまで溢れていました。顔全体を包帯で覆われて、目と鼻と口だけ覗かせて、まるでお面をかぶっている様に見えるのは、火傷患者です。敵の攻撃を受けて火災を起こしたり、撃沈された時などに火傷を負うのです。

私等奈良班の勤務先は伝染病棟でした。1病舎、2病舎、3病舎を受け持つ事になりました。アメーバ赤痢の患者が廊下にまで収容されています。アメーバ赤痢は1日何十回もの激しい下痢に襲われて、患者等は便器を抱いて横たわっています。大半の患者は血便を出し、2、3日後には脱水状態になり息を断つのです。アメーバ赤痢には完癒薬もなく、水分補給の点滴もなく、又200人以上もいる患者に対し、看護婦4、5名です。いくら寝食をわすれて走り廻っても、正直言って満足な看護は出来ませんでした。そして私等が赴任して、2、3ケ月も経つ頃には、他の班の看護婦の中にアメーバ赤痢となり、若い命を散らす人が出るようになったのです。南溟の空の下で、短い青春のまま、息絶えていく時、何を思ったのでしょうか。戦争は残酷です。砲火に倒れるだけでなく、病魔もまた暴れるのです。

南の島には雨期がありました。まるで何百年も前から降り続いているかのような錯覚も生む雨の日が続きます。地面は泥沼と化し、到る所に流れが出来ます。私等は病棟内では素足でした。靴は破れて履く用をなさなくなり、逆に乾期が来ると、今度は雨が降らなくなる為に飲料水が欠乏します。雨水を溜めたタンク、ボーフラの泳ぐ水を沸騰させ、それを水筒に貰い受け勤務につきますが、全身泥まみれ、その飲料水を空にします。ただ精神力だけが頼りでした。南方特有のデング熱で倒れても高熱を押して勤務につけたのは、19歳という若さだったかもしれませんでした。

昭和19年を迎えると、毎日生と死と壮絶なるドラマか繰り返されていきました。時折でしたが、敵機の来襲がありました。私等は爆撃も機銃掃射も初めての体験です。この頃になると、私等看護婦の誰もが口数も少なくなり、けわしい眼色を宿す様になりました。重症患者も多く、ほとんど24時間の勤務です。昭和19年2月4日、敵視察機2機、高度を保って、飛来しました。トラック諸島の全景を撮影するのが目的なのに違いません。空中撮影したとあっては、近く大規模な空襲があるという事です。病院全体に緊張感が走ります。そうなのです。ここは戦場です。たとえ赤十字のマークを屋根に描いた病院とはいえ最前線です。

2月16日午前4時45分、第4海軍病院の建物は狂気のように鳴り響く空襲警報のサイレンの音に揺さぶられたのです。沖の空にごま塩のような無数の機影が近づきます。アメリカ機動部隊から発進した敵機の大空襲です。私等は患者たちの手足となって、椰子の木のジャングルの中に避難しました。トラック諸島の水深70メートルの珊瑚は艦隊の好泊地です。連合艦隊の多くの艦船が停泊していました。この日から丸2日、それらの艦が空襲に晒されたのです。夜になると炎上する何十隻の船で空が赤く染まりました。

そしてその時、陸軍の輸送船団も攻撃を受け、約1300人の将兵が水漬く屍となったのです。岸に向う兵士等を待ち受ける私等の目の前で、機銃で攻撃され海の中に消えて行く姿をどうする事もできず、ただ見守っているだけでした。大空襲の合間をぬって、大勢の負傷兵が病院に輸送されてきました。火の海を泳いで救助された兵士等多くは火傷患者です。軍医、看護兵、看護婦一体となり、いつ終わるとも知れない空襲の中で救護に懸命でした。出血多量で息絶えている兵士。血の海の中でのたうつ兵士。ローソクの火を頼りに、夜の明けるのもわすれて看護しました。

その時病棟の主任医師が、薬局の係りをしていた私に「もし敵が上陸したらこの小さな島は2日と持たないよ。海岸づたいに逃げなさい」と。私は「救護班員はそれはできません」と言うと「君等はまだ若すぎるんだよ」と目に涙をためた医師の顔がいまだにわすれる事ができません。そして私に小さな瓶を手渡されました。「これは最後だぞ」。

私はガーゼに包んで腹にしっかりと巻きました。その時敵の上陸はありませんでした。それから毎日空襲が激しくなり、宿舎に帰って寝ることはありません。着たまま何処でも横になり眠ります。小さな夏島も病院を残して焼のが原と化します。病院の大切な飲料水のタンクも空襲されていきます。

そんな時、昭和19年7月2日午前3時、私等に総員集合がかかります。病院長の訓辞です。「君たちは女性ながら最前線で軍と共に命を惜まず働いてくれた。ありがとう。しかし現在の戦況では今後どのような状態になるやも知れん。後は命令があるまで各自持ち物を整理するように」という達しでした。戦況はそこまで来ているのか。遂に来るべき時が来た。私等は地面に大きな穴を掘り、汚物・写真・葉書等を投げ入れて上から土をかけました。そしてふと明けの空を見上げたのです。この世に2つとない、宝石の様な南十字星が輝いていました。静かな明けの空、何処で戦争がなんかしているのかと考えさせられ、母の顔が浮かんで涙したこともありました。

そして7月13日、私等に突然帰国命令が出たのです。重症患者を氷川丸病院船に収容、看護婦全員病院船に乗船しました。氷川丸は途中メレヨン島にて陸軍の重症患者を収容、出発間もなく機雷に接触したのです。船倉に浸水。が、緊急修理により沈没をまぬかれ、15日間の船の勤務。その間私は肝臓を悪くして黄疸になり、肉体的にも精神的にも苦しい務めでした。

内地に帰り、1週間の休暇の後、広ヶ原勤務。旅館を海軍病院の分院として患者等を収容していました。朝夕温泉に入る事ができすっかり元気になり、又熱海分院と勤務をする事が出来、20年8月まで熱海分院勤務。まだまだ戦争は続いておりました。8月13日大阪海軍病院に転勤になり、8月15日の終戦の日を迎えることになりました。今ある健康に感謝して、命の尊さを若き世代に贈る事が、私等の務めと思います。

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解題にかえて

中国の国共内戦に巻き込まれた第459救護班の4人の手記を取り上げた前回の展示に引き続き、今回は山森美栄子氏、神谷照子氏、東雲ミサ子氏、吉川ヨシカ氏の手記を取り上げた。山森氏はシンガポールの陸軍病院、神谷、東雲、吉川氏はトラック諸島における海軍病院での従軍勤務を扱っている。

2度召集を受けた山森氏の手記では、員数主義、形式主義等日本軍に染みついた体質、昭和12年と17年における村の歓送の落差、兵士の最期の言葉に関するものなど、興味深いエピソードが多い。その中でも、山森氏は2度目の召集でシンガポール(昭南島)へ赴いた際、山下奉文中将を看護した経験を思い出深く語っている。

山下は軍人として陸軍省軍事課長、軍事調査部長等要職を歴任するが、昭和11年の2.26事件後は反乱将校に近かったため軍中枢から追われる。太平洋戦争開戦後マレー半島攻略の司令官に登用され、短期間で攻略に成功して勇名をはせた。山森氏も記しているように、シンガポールにおいて英軍パーシバル司令官に「イエスかノーか」と降伏を迫った場面は、当時のニュース映画などさまざまなメディアで取り上げられ、有名となった。

その後、満州を経てフィリピンに転じ、その防衛にあたるが、この間に傘下部隊の民間人への残虐行為を問われ戦犯として刑死する。山森氏が、何十年たっても山下の命日に線香を欠かさなかったとするように、山下を慕う関係者も多く、戦後数多くの伝記や人物論が出版された。比較的最近のものでは、福田和也のものがある。

一方、神谷、東雲、吉川氏は、第511救護班に属し、ほぼ同じ足取りをたどっている。昭和18年11月、病院船氷川丸に搭乗してトラック諸島の夏島(現在の呼称はデブロン)へ向かう。トラック諸島は、第1次大戦後、日本に委任統治領となったとなっていた南洋諸島の一部で、太平洋戦争開戦後、夏島には連合艦隊の司令部が置かれるなどの要衝であった。神谷氏が、日赤からは本部と6県もの救護班が集まっていた(昭和19年元旦のバレーボール)と記すのは、こうした事情によるものだろう。

3人が共通して記すのは、上陸直後の束の間の平和な日々と、急速な戦争の悪化である。特に、2月16日晩からの、当初は艦船が狙われた激しい空襲の様子は、特に吉川氏の手記に詳しい。吉村朝之『トラック大空襲 : 海底写真に見る連合艦隊泊地の悲劇』によれば、ミクロネシア政府が戦後早くから遺跡扱いをしていために、トラック諸島周辺には、この時に沈んだ艦船が残っているという。

その後、神谷氏が書いているような、過酷な業務が続くようになる。

幸いにも、彼女たちは、昭和19年7月、トラック島を脱出し、触雷の危機も乗り越えて内地の土を踏むことになる。一方、トラック諸島に残された日本軍兵士たちは、米軍の上陸こそなかったものの、補給を絶たれた中で空襲にさらされ続け、飢えに苦しみ続けて終戦を迎えることになる。

前回と同様、本文では、原則的に手記をそのまま翻刻したが、横組みにしたため漢数字を算用数字に改めたり、小見出しなどを補った箇所がある。また、前回記したように、これらの手記は平成16年に寄贈いただいたもので、さらにそれ以前に執筆いただいたものです。関係者各位には、改めて厚く御礼申し上げます。

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