病院船の上で 〜日赤奈良班看護婦の手記から③

日支事変当時の病院船に応召して

藤垣 京子

昭和12年7月、日支事変が勃発して、同年9月13日、和歌山日赤奈良支部第30救護班要員として召集されました。

当時和歌山日赤病院に勤務しておりましたが、召集令状を受けた時は、願望がかない、最高の誉れと思って、有難くお国のために命を捧げて務めが出来る嬉しさに、感涙いたしました。

出発するまでの僅かな日数を、郷里に帰り、翌日は午前4時から氏神さんにおいて、神主さんや氏子の方々により健康で立派に働きが出来ますようにと、御祈祷をして頂き、次に村の小学校校庭において、村長さん初め村民の方々、小学校生徒全員が盛大なる壮行会をして頂きまして、日の丸の旗を振って送って下さった時は、心に強く滅私奉公を誓って、赤いたすきを強く握りしめたことを覚えております。

日赤奈良支部において、第30救護班要員として一班が編成され近鉄奈良駅から出発する時は、奈良県知事さんをはじめ、各種団体長、市民の方々から盛大な歓呼の声に送られて、身に余る光栄を受け、感激したものでした。

万歳万歳の声を後に車中の人となり、一路9月16日には九州の久留米48聯隊において山形、山梨の各班と合流して、川副部隊という部隊員の1人となりました。

宇品第一船舶輸送司令官気付川添部隊は、病院船おはいを丸に乗船する事になりました。が、船は貨物船をお国に徴用されて、病院船にするため、その改造には日がかかるので、その間20日程の間を似の島の伝染病病院に勤務することになりました。

傷病兵の方々は相当重症の方ばかりで、法定伝染病のため大変な看護でした。

バラック建の病室に、粗末な板張りの床に寝かされ、血を吐き血の便を流す気の毒な方々を看とる私達も、寸暇の休む間もなく、食事も立ちながら食べ、寝る時も白衣を着たままで、毛布一枚で板の上に転がっていました。

こうした勤務も2週間余り経った頃、やっと病院船も完成出来まして乗船しました。宇品第一船舶輸送司令部からの命令にて、北支方面、中支方面からの還送患者さんを輸送して、内地に揚陸することでした。

大連、奏皇島、上海、青島、北京、南京、ウースン沖、香港等、何十回か航海し、玄界灘の荒波と戦いつつ、最近は台風と云われることが、当時は予測する事はできず、大海が大荒れになって来た時は、船が木の葉の如く揺れ、上下左右に廻されるのでとても行動することも出来ないのです。患者さんも、看護する者も、食事をとるどころか、吐いて吐いて胆汁や血液まで吐き、倒れそうになっても傷兵さんの呼ばれる声が聞こえれば、這いながら側により、1つの器に一緒に吐いて、患者さんを摩するものでした。

傷のひどい方々の包帯交換等には、医療材もガーゼ薬も右に左に移動してしまって、どんなに苦しんだことでしょう。あんな苦労は、地上にてはとても経験することは出来ません。船酔の苦しみと争うことは当然のことでありますが、航行の途中は病院船の前後に、海軍の駆逐艦に護衛されながら往復する時が多くありました。敵機の空襲を幾度か受けました。船内が真暗になったと思ったら、ドーン、ドーン、パーン、パーンと激しい攻撃戦が砲弾の音が聞こえて来た時は、立派に名誉の戦死となっても本望と思えば、恐れる気持ちは少しも起こりませんでした。

船内の傷病兵さんの食事は、一人一人にお膳の上に5種類のおかずを付け食べてもらいます。兵士の方は、家に帰ってご飯を食べているようだと、涙を浮かべて喜ばれました。

北支、中支方面の航行すること2ケ年も少し過ぎた頃、宇品司令部から南支方面の航行の命令がありましたので、自分達の船は「しあとる丸」というのと乗換えをして、台湾の南端にある高雄港に航行いたしました。

台湾はあのころは日本の領地でありましたので、島民の方々はとても親切に迎えてくれました。当地は気温も温かく熱帯植物もたくさんあり、バナナ、椰子、パイナップル等の実る、美しい眺めの領土でありました。

高雄港から南支那海を航行して南支の広東に行き、内地に送還の傷病兵の方々を収容乗船して航行する事、半年間続きました。

南支那海の荒れ方といえば、とても言葉に現わせようもありません。北支、中支の航路の玄界灘の荒れ方などは湖の荒れ位のもので、大型台風のものが南支那海の荒れ方の異りでした。船の揺れ方にはピッチングとローリングという名称があるらしく、船内の品物が大地震に襲われてた如くになり、とっても動く事は出来ませんでした。然し私達は負けられません。どんなことがあっても任務を全うせねばと頑張りました。

ある日、広東の宿舎に1人の兵士が、奈良班のものが来ていると聞いて訪ねて来たとて、見えられました。私の郷里と同じ村の方でした。召集を受け、南支方面の治安部隊として広東に来ているとの事で、お会いした時は本当に夢のように思われ、2人は手を握り合って泣きました。こんなに遠くに来て、村の方に会えるとは言葉も出ない想いでした。

南支方面に航行すること半年間が過ぎた頃、最後の航行となりました。台湾の高雄から内地送還の傷病患者さんを収容して台湾基隆に立寄り、一路内地の東京湾に寄港しました。患者さんたちを揚陸してから宇品港に帰港しました。

最後の患者さんを揚陸し終えて我々の部隊も解除になり、船の生活から土の上の生活に戻りました。

昭和14年11月12日、召集解除となりました。そして懐かしい我が家に帰ることができました。出征する時は生きて帰れるとは思わなかったのに、本当に有難いことでした。私は結婚しましたが、お友達の中には2度の応召で大東亜戦争に召集され、2度の初めに南方方面に行きました。友の無事の帰還を祈りました。

今から想えば60年も昔のことになりましたが、毎年日赤看護婦同窓会に出席して懐しい昔の友人と語り合うのが何よりの幸せです。平和の世、何と有難い幸せな事でしょう。何時までもこの平和がつづきますよう祈ります。

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私の戦中看護日記

松村 百合子
33期生 昭和11年卒業 

召集まで

昭和8年4月1日、日本赤十字社奈良支部救護看護婦生徒として採用され、日赤和歌山支部病院にて寮生活に入る。当時の日本国は、非常時来るの声高々、風雲急を告ぐの情勢でした。すでに満州の曠野には日本の警備隊が派遣されており、私の兄も入隊草々渡満しました。仲がよかったので、よく手紙を書きました。[下関と朝鮮半島の釜山を結んでいた]関釜連絡船の都合で2通が1度に届いた事もあり、国部婦長から「山本太郎さんは本当の兄さんかね」と聞かれた事もありました。

養成部長は沢村栄美院長で、忠君愛国とか博愛慈善の権化の様な方で、厳しい教育の反面、大変おやさしい方でいらっしゃいました。軍事訓練もあり、和歌山聯隊から下士官が1週間、担架訓練の指導にこられました。3月10日の陸軍記念日には、和歌山城砂の丸合同演習あり、重装備の兵士を担架で一の橋まで運び出しました(もちろん小さめの兵隊さんを選んでくれたのでしょうけれど)。一般市民も真剣な表情で見守っておりました。毎年1回、4師団の衛生部長の査察があり、生徒全員はあらゆる質問を受けました。看護実習もありました。

昭和11年3月卒業。この年の2月、皆様の中には御記憶の方もおありと存じますが、2・26事件がありました。ちょうどその年婦長候補生として1年、本社に学んでおりました。速水婦長の帰院と重なりまして少々かえりがおくれましたが、戒厳令のなまなましいお話を伺いました。

昭和12年、支那事変が激しくなりまして、私の兄は南京攻略戦の途中、無錫地頭鎮で戦死。兄嫁は妊娠8ヶ月で、兄の軍服のポケットには、大連で買った育児の本の、内地へ送った領収書がありましたそうな。日本刀は帰りませんでした。

昭和14年、私は少々体を悪くしまして応召できず、郷里(吉野)に帰りました。ちょうど無医村で県立診療所が出来る事になり、初代看護婦として勤務。先生は叔父様の医院も助ける事になっておりまして、大方は留守でした。診察の外は、私が殆ど注射や簡単な処置しました。一度は少年が川で泳いでいて顔面に裂傷して来ました時は、1針縫合してやりました。家庭で寝ている患者宅にも出かけ、注射や処置をしました。先生も私も、おかげ様で当時は手に入りにくかった食品や衣料もいただき、有難いおもいをしました。

わけても忘れられないのは、母がはげしい脱水症状で殆ど死んでおりました。急ぎ診療所にある薬品を、リンゲルブドウ糖及類強心剤を注射しました。3回目のリンゲルの時、「ウーン」と声を出し、どうやら意識がもどりました。熱も8度近く出ましてほっとしました。それから12年生きてくれました。この時程に看護婦で身近におれたことをうれしく思ったことはありません。

霞ヶ浦海軍病院勤務

昭和18年正月、結婚のため、診療所を止めましたら早速応召。土浦に1人で(補欠)出かけました。奈良駅から夜行で東海道線に乗り、翌朝6時上野駅着、常磐線にのりました。たくましい裸の上にキントキの腹かけをかけた男達でいっぱい、女は私1人。ひたすら日赤の制服をたのみに土浦に着きました。

蔭山看護婦が迎えてくれてた様でしたが、ゆきちがいになりましたか。本部班とやらで奈良、栃木の合同班で婦長は栃木の人でした。氷川丸にいた人達で大変元気のよい班で、士官室でも有名だったそうです。

海軍用語、東北弁が判りませず困りましたが、青森、秋田、福島、茨城ABC班。幸いにも直属上官が三重県、副官芳屋、外科長阪大出身で大変やさしく、手をとって教えてくれました。海軍は先任を大切にしてくれる処で、私は卒業が古かったから助かりました。

病院の1日は総員起しの5分前からはじまり、軍艦旗上げ方、夕方おろし方、海ゆかば…のラッパの吹奏で軍艦旗がするするとネービーブルーの士官服 に白手袋で整列。端正なその姿が今も瞼の奥に浮かびます。診察はたいてい午前中、午後8時、巡検がはじまります。二里四方あると言われる病院は勿論、看護宿舎にもまいります。スリッパを揃え、息をつめて巡検終りの放送をまちます。

甲板士官(たいてい鬼の様に恐い)がカンテラの誘導で当直士官、下士官(4~5名)が足音高々廻ります。

平和な日々はそんなにつづきません。その中に空襲がはじまりました。最初は被害が出ませんので、甘く見ておりましたが、どうやら写真を撮っていた様です。航空母艦が茨城沖に停泊して、激しい空襲がはじまりました。病院の周囲は10ヶ所位航空隊があります。1ヶ所ずつ壊滅されては、患者で一ぱいになり、廊下は血にそまります。1週間の間に応急手当のまま、他の病院に転送します。けれども病院には1発の弾も来ません。米軍は霞病には衛生材料はじめ、物品が多量にあることを知っておりますから。

いよいよ運命の8月15日。玉音放送はよく聞き取れませんでしたが、廊下に整列して頭をたれました。科長はすぐ自室に引きこもり、若い士官は泣きました。10日か2週間で奈良支部は帰りました。途中厚木で緊張しましたが、ほとんど無人列車でほっとしました。

終戦後の応召

4、5ヶ月後、引揚者の患者看護のため、鳴尾の病院(国立病院)にまいりました。患者も職員も海軍関係の人が多く、戦争中のような緊張感もなく、平和で楽しい勤務でしたが、2年ほどで大阪国立病院に移りました。陸軍関係の人が多く、ギスギスした人間関係でした。

それから私はGHQの教育を受けるため、赤十字大阪支部に通学しました。3ヶ月間昼休みだけで講堂に入れば英語だけ。もちろん通訳はおりましたが、今までの日本の教育とは大分異なっておりました。続いて厚生省主催の教育が、東二[東京第二陸軍造兵廠?]病院で行われ、3ヶ月間、東京にまいりました。そしてモデル病棟設立、どうやらそれらしい病室を作り患者を収容しましたが、さまざまな障害があり、私は病院を辞すことにしました。結婚という形式で....。

急に4人の子供の母となりました。私はとまどいながら、次女の小児結核で1年休学、次男急性腎炎、長男急性肝炎、みな家庭で療養させました。私が看護婦であったから、先生もいい人にめぐまれ、朝夕往診して下さいました。おかげ様で皆よき社会人となりました。

本当に私達の青春は戦争のあけくれでしたね。大変なこともありましたが、恋らしき事もありました。そして現在よりは随分貧しかったが、人々の心はそれなりにやさしかったと思います。折にふれ、戦いに傷ついた方々、今頃どうしていらっしゃるかと心によぎるこの頃です。どうぞお幸せでいらっしゃることをお祈りしております。 合掌

追伸

先日、正確に申しますと平成10年12月28日(納め不動様の日)、お寺からの帰り途、御主人様が海軍軍人(呉所属)で、御自身は呉の小学校教師の方に会いまして、霞病のお話になりましたら、その方に泣かれまして、御主人様が生きていて私の話をきかれたら、どんなに喜んだでしょうと。3年前に御他界遊ばしたとの事。戦争末期、日本軍人の屍が、関門海峡から瀬戸内に筏のように流れて来て地元の人と一緒に荼毘にふしたとの事。もちろん箝口令が敷かれておりましたので、奥様にもお話になりませんだとのこと。関門海峡にはアメリカの機雷がびっしり埋められていたよし。後になって広島原爆地や死体の引き揚げた場所にも連れて行ってくれましたとお話になりました。

実は私の元夫(池田)とは、大阪駅の階段で別れたきり、何の便りもありませんで、一度奈良の世話課に行って訪ねましたら、乗船名簿にもないとのこと。随分年もたっているのに。それで戦死の公報を出してもらいました。博多からある部隊に合流して出港すると申して出ましたので、乗船名簿にないと聞かされて50年、どうなっているかと今も気になっておりましたが、奥様の話をきいて九州に渡るまでに機雷にふれて死んだのだろうとようやく理解できました。

昨年8月、松村とも死別しまして、本当の私の一生は戦争にふりまわされた生涯ですね。

誤字やかな文字も入りました。大変読みづらい事と存じます。おゆるしの程を。少々白内障が出ているそのことで、ややこしい事になっております。

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体験記

中山 文子

昭和15年、卒業して間もなく奈良支部より召集令状が参りました。厚手の紙に「召集令状第31救護班要員として召集す」と。愛国心に燃え、一度は救護班として働きたいと思っていたので、勇んで和歌山より参着しました。とても光栄と思っていました。

昭和16年、金岡陸軍病院より、病院船勤務第306班に編成され、宇品港より出航。その朝、大東亜戦争勃発し米国との交戦。非常に緊張して中国へ向かいました。戦争という大きな歯車の中へ小さな歯車が組こまれ、引くことの出来ない深い溝に入って行った様に思います。

着いたのは石門陸軍病院。日本と違い一望千里、広々とした所にありました。敵地の中へ入ったのですから、当然の事ながら発砲事件が再々起っていた様で、ひときわ大きい日は一夜にして100名ぐらいの傷病兵が一気に入って来ました。どの人も髭がのび、垢と埃で、負傷のため汚れ、その惨憺たる姿に痛みを覚えつつ一刻を争い手当てをしました。手術にも間に合わぬ人もいますし、天皇陛下とつぶやく人、お母さんと呼ぶ人、もう一度前線にやって下さいと云ってなくなったひと。それぞれ様々な言葉を聞きましたが、どの人も皇軍兵士として身を鴻毛の軽きに置くという教育の箍ははずれなかった様に思います。その心根は哀れを誘います。私もこの兵士と同じ気持ちがあったのです。僅かな人数で不眠不休、必死の看護でした。嬉しかったことは、快方の人を内地送還のため、北京まで護送することでした。兵士たちの笑顔がうれしいでした。

1年余を経て、北載河診療所へ転勤命令。鳥が飛翼をのばした様に、海岸沿いに永々と延びた、新しい診療所でした。ついで本来の、病院船さいべりあ丸へ乗ることになりました。マニラから広島への患者輸送に当たりました。マニラまで1週間程かかりますが、船酔のために悩まされ、食事は摂れず嘔吐ばかりの勤務でした。あけても暮れても、唯一隻の船の姿は見られず、心細い思いでしたが、友軍機が船上を旋回して手を振ってくれ、ずいぶん心強く感動しました。真白な機体に真赤な日の丸。この時の日の丸を忘れることは出来ません。毎日旋回してくれるのを待ちました。誇らしい日本の国旗です。船上にあっても、戦局が変わって行くらしい様に思いました。米国の潜水艦が出没する様になり、この船の周囲をまわっているとの事で身ぶるいをしました。救命胴衣は棚に吊るされていますが、誰も取る者もなく、ああ泡と朋に私も沈んでくんだと、命を惜しいとは毛頭思いませんでした。不思議と気分が満ち満ちているという所でしょうか。しかし、日毎に危険になって来たというので、下船命令が出ました。それから後にさいべりあ丸は撃沈ときき、何ともいえない思いでいました。

18年12月召集解除。20年8月15日奈良陸軍病院で終戦です。この大きな犠牲はなんだったのか、魂は抜けていく様でした。余りにも広域な戦場のため、戦地に残された人の身が心配でした。寝食を共にした友がまだ帰ってきませんが、友が無言の友を抱いてビルマより帰ってきました。毎日の辛い話を聞き、唯口惜し涙を流しました。何の抵抗もできない救護班に対してと、戦争の残虐さを深く知りました。戦場で闘った忠勇なる兵士と、遜色なく任務を果たした日赤看護婦。美しき妙齢の女性の身をもって、生命をも省みず只管無欲に大きな使命を遂行した精神は天晴だったと思います。どうぞ皆様方もこの誇りを忘れないでいてほしいと思います。人生に於て貴重な得難いいものを体験できたと思います。亡くなられた方の御活躍を讃えて御冥福を祈ります。

たとえ時が移り世代が変わっても、この悲しいことが永久におこる事のない様に祈っています。召集令状は大事に残して、眺めては感慨深いものがあります。

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私の歩んだ道

辰巳 千江野

私は女5人姉妹の3人目に生まれ、娘時代ナイチンゲールの伝記を読み心動き、女には直接お国のため尽くしたき一心に・・・。それには日赤救護看護婦を志すより外なしと覚悟いたし、和歌山日赤病院に於て資格を得、勤務すること7年目、昭和12年5月5日盧溝橋事件勃発、同8月25日愈々待望の召集令状をうく。

病院船勤務、船には乗った事のない私。我が身上に随分心配いたしました。始めは似の島伝染病収容の島。、コレラ赤痢毎日送還され、衛生材料の不自由には大変困りました。同9月に愈々病院船勤務。初めて通る玄海の嵐、波、こればかりは筆舌に表せません。兎に角、軍事秘密で我々には何処の港に着くのやらさっぱりわかりません。

眩暈に悩まされたら、お国に捧げた我が身。それはそれは死の思いで頑張り通しました。常に銃後の人々の励ましの言葉が胸中に・・・残り一意専心働かさせて頂きました。

北支戦線泰皇島勤務に於ては、39度の発熱も気に留めず、神のみ心のおかげか、1日も休まず勤務遂行いたしました。つくづく神仏、そして銃後の皆様のお力添えと感謝の外ありません。南支海、南島方面のマラリヤには、我々救護員半数が病に倒れ入院、軍医殿死亡…交代人が続々出ました。司令部はこれではと思ったのか、3年数ヶ月で全員交代の命をうけ、最後まで任務完ういたした私、無事故里に帰りたる喜こびは言葉にも表せません。でも戦は何時迄続くことやらと心残りでございました。

そして鍛えて頂いたお蔭か、80半過ぎても元気で旅の友達と人生を楽しんでいます。

従軍日誌読み返し(7冊)、あんなこんな日もと読み乍ら、なつかしい想い出を繰り返して、涙もぐんでいました。

何から書いてよいやらわからず、ご免なさい。

昭和13年3月 上海にて

月が出ている上海の月よ 同じ月でも他国の月は
なぜ想ひをさそうやら 命捧げたこの我が体
恋し恋しの想を止めて 倦まずにたわます力の限り
東洋平和の輝く日まで 丸い大きい朝日に夕陽
母を思い父をもしたい 働きますぞえお月さん

昭和13年2月 妹の死の報に接して(戦地にて)

羽衣の御膝に逝きていとしい妹は夜毎にかへる我懐に

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